第1話 俺の飯を食って、魔王が泣いた
魔王が泣いていた。
大陸全土を震撼させ、千の騎士団を蹴散らし、神ですら逃げ出したと謳われるその男が。
木のスプーンを握りしめたまま、声を殺して泣いていた。
目の前には湯気の立つ一皿。ただの肉じゃがだ。
「……なんで」
低く震える声に、俺はどう答えればいいかわからなかった。
「なんで、こんな味がするんだ」
昔ながらの母の味。ジャガイモと、玉ねぎと、醤油と砂糖。
この世界にはない調味料を工夫して、なんとか再現しただけの一皿だ。
魔王はもう一口すくった。手が震えていた。
「……おい、人間」
「はい」
「俺は今日、お前を殺しに来た」
「……ですよね」
「今から聞く話によっては、殺すのをやめる」
スプーンがゆっくりと皿に置かれた。赤い瞳が俺を射抜く。
「お前、何者だ」
俺がこの世界に迷い込んだ日まで、話は遡る。
気がついたら森の中だった。
湿った土の匂い。鳥じゃない何かの鳴き声。そして全身に流れる違和感。
まるで身体が一回り若返ったような。
手を見る。腱の浮いた三十五歳の手じゃない。二十歳そこそこの、まだ張りのある手だ。
……はい?
「……夢、だよな」
いや待て。夢にしては土の匂いがリアルすぎる。
あと、腹が減っている。夢で腹は減らない。
「……マジか」
誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
ガサッ、と背後で茂みが揺れたのはその時だった。
現れたのは、緑色の肌をした子供ほどの背丈の生き物。
ゴブリン、とでも言うべきその生き物が俺を見て、にやりと笑った。
一匹じゃなかった。
二匹、三匹、五匹——茂みの奥から次々と現れる。
武器はそれぞれ、錆びた剣、木の棍棒、骨のナイフ。
だが共通していたのは、全員が俺を『獲物』として見ていることだった。
「いやいや、ちょっと待っ——」
逃げようと一歩下がって、足がもつれた。
尻もちをついた瞬間、一匹が俺の喉元を狙って飛びかかってきた。
——ああ、これ、死ぬやつだ。
そう思ったその時。
頭の中に文字が浮かんだ。いや、声じゃない。文字だ。
視界の端に、半透明の文字が勝手に並んでいる。
【鑑定】ゴブリン
危険度:E/弱点:火
可食部:筋肉組織(要・十分な加熱)
備考:肝臓に毒素あり。調理不可。
……可食部?
いや今、可食部とか書いてる場合じゃないだろ。
飛びかかってくる敵。体が勝手に動いた。
腰が落ちて、右手がゴブリンの頬をすれ違いざまに弾いた。
——いや、弾いたんじゃない。
俺の右手には火があった。
小さな、ガスコンロの種火ほどの青い炎。
それがゴブリンの顔を掠めた瞬間、ゴブリンは悲鳴を上げて燃え上がった。
「!?」
他のゴブリンたちが一歩後ずさる。俺自身が一番驚いていた。
「……今の、なに」
震える手を見つめる。もう一度念じてみた。「火を」と。
指先にまた青い炎がふっと灯った。ガスコンロよりも綺麗でまっすぐな火。
「……あ、これ」
……プロ用のバーナーみたいだ。
そう思った瞬間、理解した。
これは俺が厨房でずっと使っていた、あの火だ。
三十五年生きてきて、十五年厨房に立ってきて、俺の手にずっと馴染んできたもの。
——火の扱いなら負けない。
残った四匹のゴブリンに向かって、俺は立ち上がった。
「……悪いな」
一匹ずつ確実に。
まるでコンロの上で素材を一つずつ、丁寧に焼いていくように。
戦闘が終わった時、俺は倒れたゴブリンの前でしゃがみ込んでいた。
視界にはまだあの文字が浮かんでいる。
【鑑定】ゴブリン(死亡)
可食部:筋肉組織
※推奨調理法:塩揉みの後、強火で短時間の炙り焼き
※禁忌:肝臓は猛毒。絶対に食すな。
……いや、食わないが。
さすがにゴブリンは食わない。いくら異世界とはいえ、俺の中にも料理人としての一線というものがある。
立ち上がって、足元の草に目を向ける。
【鑑定】レッドローズ草
人間への効果:猛毒/摂取で即死
備考:茎の表皮を剥ぎ、根を三日干した後に煮出せば
高級ダシの材料となる。旨味成分は松茸の三倍。
——は?
もう一度読んだ。松茸の三倍? 即死草が世界一のダシに?
……いや、待って?
松茸の三倍のダシ成分とか、なんで俺、死にかけた直後に食材分析してるんだ。
いや、でも。これは料理人として見過ごせない情報だ。
茎を一本そっと手折った。表皮を剥いでみる。
中身は薄紅色の、まるで上質な魚の身のような繊維。
鼻を近づけた瞬間、確信した。
俺の鼻は騙せない。これはとんでもない素材だ。
普通の人間が口にすれば即死する。だが正しく処理すれば、歴史が変わるほどの超一流の食材になる。
そしてその時、俺は気づいてしまった。
この森のあちこちに『鑑定』の文字が勝手に浮かび上がっている。
【マンドレイクの根】
人間への効果:幻覚/最悪死亡
→ 塩漬け三十日で最上級の発酵調味料に。
【デスキャップ茸】
人間への効果:臓器融解/致死率100%
→ 油で揚げて三度洗えば、王侯貴族が喜ぶ珍味に。
【グレイウルフの胆】
人間への効果:内臓に炎症/死亡
→ 酒と蜂蜜に三ヶ月漬ければ、万病に効く秘薬酒に。
足元に。木の陰に。空を飛ぶ鳥にまで。
——この世界全体が『毒』で溢れていた。
そして同時に、『ご馳走』で溢れていた。
俺は膝をついた。笑いがこみ上げてきた。
「……は」
だって、おかしいだろう。
閉めた店。守れなかった親父の遺言。報われなかった十五年。
その全部が無駄じゃなかったかもしれない、ってことだ。
この世界で俺は——
「——俺はここでなら、やれる」
その呟きが森に溶けていった。
そして三ヶ月後。
俺の作った肉じゃがを食べた魔王が、なぜ泣いているのか。
なぜ大陸最強の男が、俺の前でスプーンを握りしめたまま震えているのか。
その答えを話すには、まずあの女と出会った日のことから始めなくてはならない。
『毒師ギルド』の女総帥——俺を殺しに来て、俺の弟子になった、あの女のことを。
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