プロローグ 「最後の肉じゃが」
「……ごちそうさん」
そう呟いて、佐藤さんは席を立った。
『田中食堂』——商店街の片隅で親父が一代で築いた、小さな定食屋。
俺が三年前に継いで、三年で潰した。
最後の客は常連の佐藤さんだった。年金暮らしの、八十二歳のお爺ちゃん。
今日が閉店だと知って、わざわざ最後の生姜焼き定食を頼みに来てくれた。
「兄ちゃんよ」
帰り際、佐藤さんは振り返って言った。
「親父さんの味、よく守ったよ。胸張りな」
胸なんか張れるわけがない。
頭を下げ続けた俺の前で、佐藤さんは静かに店を出ていった。
カラン——と最後の鈴が鳴った。
それから俺は厨房に立ち尽くしていた。
ガスコンロの火がチリチリと小さく燃えている。
冷蔵庫の中には、明日からは行き場のない食材たち。
ジャガイモ。人参。玉ねぎ。牛の切り落とし。
「……作るか」
誰に出すわけでもない最後の一品。
俺自身に捧げる、最後の料理。
肉じゃがだ。
親父が俺に最初に教えた料理。
親父が母さんに最初に作ってあげた料理。
俺が十五年作り続けてきた、田中家の味。
包丁を握る。ジャガイモを剥く。玉ねぎを切る。鍋に火をつける。
手は勝手に動いた。考えなくても身体が覚えている。
ジュ、と肉が鍋に落ちた瞬間、だしの匂いと、醤油と砂糖の甘辛い湯気が店中にふわりと広がった。
……うん。今日もいい匂いだ。
完成した一皿をカウンターに置いた。箸を手に取った。
「いただきます」
その瞬間。
ぐらり、と世界が揺れた。
「——え?」
天井が回転していた。意識がぐにゃりと曲がる。
最後に俺が見たのは、湯気を立てる温かい肉じゃがの一皿。
ああ、と思った。
……食いたかったな。
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