第17話 王宮の食卓に、ベラの娘が来る
俺たちの王宮滞在は、予定の一週間を大幅に超えていた。
もう十日が過ぎていた。
毎日、王女の指導と、王宮の貴族たち向けの食事会、それに加えて王子直々の依頼で、新しい料理の研究まで頼まれていた。
……忙しい。
異世界に来てから、こんなに忙しい日々は初めてだった。
でも、不思議と楽しかった。
料理人として、新しい素材に毎日出会える。
新しい味を、毎日発見できる。
前世で田中食堂を経営していた頃の、慢性的な疲労感とは違う。
心地いい忙しさ、だった。
そんなある日の朝。
王宮の厨房に、ダミアンが慌てて駆け込んできた。
「田中殿!」
「ダミアンさん、どうしたんですか」
「お、お客様がお越しです」
「お客様?」
「下の玄関で」
ダミアンは息を切らしていた。
近衛騎士第三席がこれだけ慌てるのは、よほどのことだ。
俺はエプロンを外して、玄関に向かった。
ガリオさんもレイナも、後を追った。
玄関ホールに立っていたのは——見覚えのない若い女性だった。
歳は二十代前半。
茶色の髪を後ろで一つにまとめている。
質素な旅装。背中に大きな布袋。
明らかに王宮の来賓ではない雰囲気。
彼女は俺の姿を見ると、深く頭を下げた。
「は、はじめまして」
「あ、はい、はじめまして」
「私、リエラ、と申します」
「リエラ、さん」
「ベラ・ファルダンの娘です」
「……え?」
ベラさんの、娘?
俺は目を丸くした。
ベラさんから、家族の話を聞いたことがなかった。
ご主人を亡くしている、ということは知っていた。
でも、子どもがいる、とは聞いていない。
「あの、ベラさんにお子さんがいらっしゃるんですか」
「はい」
リエラさんは、少し恥ずかしそうに頷いた。
「ですが、十年前に母とちょっとした行き違いがあって——」
「行き違い、ですか」
「私、王都で料理人を目指したくて」
「ああ」
「母は、ベラ亭を継いでほしい、と」
「なるほど」
「でも、私はもっと広い世界で修行したくて、家を出てしまったのです」
「……そうだったんですか」
俺は深く頷いた。
ベラさんが俺を息子のように見てくれていた理由。
もしかしたら、それが関係しているのかもしれない。
「リエラさん、なぜここに?」
「実は——」
彼女は深く息を吐いた。
「最近、田舎から行商人を通じて噂を聞きまして」
「噂」
「ベラ亭で、すごい料理人が働き始めた、と」
「……」
「玉ねぎスープが絶品だ、と」
「ああ、はい」
「それが田中一郎殿、と知って——」
リエラさんが俺をまっすぐ見た。
「ぜひお会いしたい、と思いまして」
「そうですか」
「不躾なお願いですが」
リエラさんが深く頭を下げた。
「私を田中殿の弟子にしていただけませんでしょうか」
……。
俺はガリオさんと目を合わせた。
ガリオさんが肩をすくめた。
まあ、予想はできる展開だ。
「リエラさん、本気ですか」
「はい、本気です」
「弟子、ですか」
「はい」
「俺、まだ王都に長くは滞在しません」
「存じております」
「いずれベラ亭に戻ります」
「であれば、なお好都合です」
「……え?」
「私、母と和解したいのです」
「……」
「家を出てから十年。母にはずっと、心配をかけ続けて来ました」
「リエラさん」
「田中殿の下で修行させていただいて——」
リエラさんの声が震えていた。
「いつか、母に私の作った料理を食べてほしい」
「……」
「そして、母に許してもらいたいのです」
俺は何も言えなかった。
その想いの重さが、俺にも伝わってきた。
料理人を目指して家を出た娘。
その娘が十年経って、母に認めてもらいたい、と戻ってきた。
俺はレイナの方を見た。
レイナが静かに頷いた。
「いいんじゃない?」
「レイナさん」
「あなたの判断よ、師匠」
「……」
ガリオさんも頷いた。
カインさんも無表情で頷いた。
……みんな結局、俺の判断に任せてくる。
俺はふう、と息を吐いてリエラさんを見た。
「リエラさん」
「はい」
「料理人としての経験は、どのくらいですか」
「王都の複数の店で働いてきました。下働き、修行から始めて、最後の三年は副料理長を務めていました」
「副料理長」
「はい」
「立派じゃないですか」
「いえ、まだまだです」
「……」
彼女は本気だ。
言葉の端々から、それが伝わってくる。
俺は頭を下げた。
「分かりました。一緒に修行しましょう」
「!」
「ただし、条件があります」
「なんなりと」
「俺は料理人として未熟です。あなたが副料理長なら、対等に教え合いましょう」
「対等、ですか」
「はい。俺、上下関係、嫌いなんで」
俺の言葉に、リエラさんが目を見開いた。
それから深く深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ」
「精一杯、修行いたします」
「俺も勉強させてもらいます」
俺たちは握手を交わした。
リエラさんの手は料理人の手だった。
硬くてたくましくて——でも優しい手。
ああ、この人、本物の料理人だ。
手を握っただけでわかった。
その日の夕方。
俺たちは王宮の専用の厨房で、リエラさんと一緒に夕食を作った。
彼女の腕前は本物だった。
包丁の動きに無駄がない。火加減の判断が正確。
何より素材を見る目が鋭い。
ベテラン料理人特有の落ち着きを持っていた。
俺の教えることは、正直少なかった。
でも彼女は何度も頭を下げて、「勉強になります」と言った。
たぶん、俺の【鑑定】を使った素材の扱い方が、彼女には新鮮だったらしい。
夕食の終わり頃。
彼女がぽつりと呟いた。
「田中殿」
「はい」
「母はお元気ですか」
「元気ですよ」
「そうですか」
「ベラさん、毎日お客さんに料理を出して、たくさんお金を稼いでいますよ」
「……母らしい」
「リエラさんのこと、よくお話されてました」
「え?」
「あ、いえ、これは嘘です」
俺は慌てて訂正した。
「ベラさんは、リエラさんのことを一度も話したことがありません」
「……」
「でも、だからこそ」
俺はまっすぐリエラさんを見た。
「ベラさんはずっと、リエラさんのことを想っていたと思います」
「……」
「人は、本当に大切な人のことは簡単に口に出さないものですから」
リエラさんが目を潤ませた。
「田中殿は母のことを、よくご存知ですね」
「料理人特有の勘です」
「料理人特有の勘」
「はい」
彼女はふふ、と笑った。
「変わった勘ですね」
「俺のトレードマークです」
俺は肩をすくめた。
リエラさんがまた笑った。
その笑顔は、ベラさんによく似ていた。
その夜。
俺はレイナと二人で、王宮の廊下を歩いていた。
「師匠」
「はい」
「リエラ、いい人ね」
「はい」
「弟子、増えたわね」
「……ですね」
「四人目」
レイナがニコリと笑った。
「カイン、私、シャルロッテ、リエラ」
「並べるとすごいですね」
「あなた、罪作りな男ね」
「料理人です」
「……」
レイナが立ち止まった。
俺の袖をつまんだ。
「師匠」
「はい」
「ベラ亭に戻る時、私も行く」
「え」
「ずっとついてく」
「レイナさん、毒師ギルドのお仕事は——」
「カインに引き継がせる」
「カインさん、料理人目指してるじゃないですか」
「両方できる」
「……」
「あの子、優秀だから」
レイナが悪戯っぽく笑った。
俺は頭を抱えた。
「レイナさん、それは勝手すぎでは」
「あなたの隣にいたいの」
「……」
「だから私は、毒師ギルドを引退する」
「……え」
俺は固まった。
彼女は本気だった。迷いない目。
「レイナさん、それはあなたの人生に関わることです」
「分かってる」
「軽々しく決めないほうが」
「軽々しく、じゃない」
レイナが俺をまっすぐ見つめた。
「十年、毒師として生きてきた私が、ようやく見つけた生きる意味なの」
「……」
「あなたの隣で料理を続けることが、私の新しい人生」
「……」
「迷惑、かしら?」
「迷惑じゃないです」
「なら、決定」
彼女はふっと微笑んだ。
「ベラ亭に戻ったら、二号店出しましょう」
「二号店」
「『毒師の田中亭』」
「ネーミング、怖い」
「客、来ない?」
「絶対、来ないです」
「ふふ、冗談よ」
彼女がまた笑った。
その横顔が、夜のランタンの灯りに照らされて——不意に、息が止まった。
……綺麗だ。
でも、それを口に出すのは、まだなんか違う気がした。
俺はただ頷いた。
「分かりました。一緒にベラ亭に戻りましょう」
「うん」
「ベラさんが喜びます」
「私も楽しみ」
二人でしばらく廊下を歩いた。
月明かりが窓から優しく差し込んでいた。
その頃。ベラ亭の店内。
ベラさんは一人で、客の注文を捌いていた。
毎日、忙しい日々。
でもふと夜が更けると——
彼女はいつも、店の奥の棚に目を向けていた。
そこには古い写真が一枚飾られていた。
亡き夫と、まだ幼いリエラと、若い自分。
三人で笑っている写真。
「リエラ……」
ベラさんが呟いた。
その声には、長年の想いがこもっていた。
彼女はまだ知らなかった。
遠い王都で、自分の娘が田中一郎の弟子になったことを。
そしていずれ——母娘が再会することを。




