第13話 玉ねぎスープ、王女の心を殴りつける
「では、田中殿」
アルフォンス王子がゆったりとした声で言った。
「早速で悪いが、例の玉ねぎスープを披露してもらえるかな」
「はい、かしこまりました」
俺は立ち上がった。
すっと息を吐いて、気持ちを料理モードに切り替えた。
食堂の横に、王宮専用の厨房があるらしい。
執事が案内してくれた。
厨房の扉を開けた瞬間——
俺は思わず息を呑んだ。
……広い。
ベラ亭の厨房の十倍はある。
大理石の作業台。磨き上げられた銅の鍋が、壁一面にずらり。
オーブンは三台。かまどは六口。
まさに一流ホテルの厨房だった。
そしてその厨房の中央に——既に待ち構えている男たちがいた。
五人。
全員、白いコック服。胸には金の刺繍で、王家の紋章。
宮廷料理人たち。
先頭に立っている白髪の恰幅のいい老紳士が、俺をじろりと見下ろした。
【グスタフ・ルブラン(62歳)】
職業:王宮主任料理長
状態:警戒・敵意あり
備考:宮廷料理四十年の大ベテラン。
田中一郎を『偽物』と決めつけている。
……あ、敵だ。
もう見た瞬間にわかった。
【鑑定】なんて使わなくても、目の敵、という言葉がぴったりの視線だった。
「お前が、噂の、田舎の料理人か」
グスタフさんの声は低く威圧的だった。
「はい、田中です」
「ふん」
グスタフさんは鼻で笑った。
「殿下も物好きなことだ。田舎の食堂の料理人を、わざわざ王宮に呼ぶとは」
「……」
「まあいい。見せてもらおうか。お前の『玉ねぎスープ』とやらを」
彼の後ろで、四人の宮廷料理人がにやにやと笑っていた。
どうやら俺を試す気、満々らしい。
王子が俺とグスタフさんを見比べて、少しため息をついた。
「グスタフ。そう敵対するな」
「敵対など、滅相もございません、殿下」
「しかし顔に出ているぞ」
「長年の顔の癖、とお思いください」
……便利な言い訳だ。
ガリオさんが厨房の入り口から、そっと呟いた。
「田中」
「はい」
「あれ、宮廷料理人の頂点だ」
「でしょうね」
「へし折って、こい」
「……折っていいんですか」
「折れ」
ガリオさん、さらっと過激なこと言ってる。
カインさんも深く頷いた。
「田中殿の普段通りでいい」
レイナが静かに微笑んだ。
「期待してるわ、師匠」
……師匠。
みんなの前で呼ばれた。
グスタフさんの眉がピクリと上がった。
「なんだと。毒師ギルド総帥ともあろう方が、こんな田舎者を——」
「ええ、私の師匠ですわ、グスタフ料理長」
「……」
グスタフさんの顔が一瞬、歪んだ。
でもすぐに作り笑顔に戻した。
「さ、田中。時間が惜しい。始めてくれ」
「はい」
俺はエプロンを身につけた。
深緑の、俺の愛用のエプロン。
ベラさんが「田中食堂」と刺繍してくれた、大切な一枚。
グスタフさんの視線が、その刺繍に止まった。
何か言いたげな顔をした。
でも結局、何も言わなかった。
俺は厨房を見回した。
素材は用意されていた。
最上級のル・オニオン。磨き上げられた銅の鍋。
バターは王国南部産の上質なもの。
塩は【鑑定】によれば、最高級の岩塩。
全部、素材のポテンシャルがベラ亭の倍以上。
……あ。これは面白い実験になりそうだ。
俺はル・オニオンを手に取った。
【鑑定】が走った。
【王室御用達・プレミアム・ル・オニオン】
品質:最高級(特A)
糖度ポテンシャル:通常品の2.8倍
産地:王国南西部・エルデンの、日当たり最高の畑
備考:弱火で丁寧に炒めれば、最高の甘みが引き出せる。
……これ、とんでもない素材だ。
ベラ亭で使っていたやつが雑草に思えてくる。
ワクワクしてきた。
俺は笑顔で包丁を手に取った。
グスタフさんが目を細めた。
「田中、貴様、今、笑ったな?」
「はい、笑いました」
「何がおかしい」
「いえ、素材が最高級で、嬉しくて」
俺は素直に答えた。
「俺、ベラ亭の普通の素材しか使ったことなかったんで」
「……」
グスタフさんが軽く腕を組んだ。
「ベラ亭? 聞いたこともない」
「オルバの街の小さな宿屋です」
「そんな田舎の安酒場の素材と——」
「はい、比較にならないほど素晴らしいです」
俺はにっこり微笑んだ。
「勉強させてもらいますね」
グスタフさんの口が半開きになった。
何か皮肉を言い返そうとしたのだろう。
でも俺の屈託のない笑顔に、勢いを殺がれたらしい。
カインさんが小声で言った。
「田中殿は、天然で人の毒を無効化する」
「それ、俺の得意技なんですか」
「俺が一ヶ月で学んだ結論です」
……褒めてるのか貶してるのか、わからない。
俺はル・オニオンを薄く薄く切り始めた。
左手の親指を包丁の背に添える。
優しく押さえる。
ス、と刃が滑る。
切り口からふわりと甘い香りが立った。
——あ。
これは。
【鑑定】通りだ。
糖度がベラ亭の倍以上。匂いだけでわかる。
俺は無意識に笑顔になっていた。
「……おい」
グスタフさんが声を出した。
「貴様、今、何をした」
「切っただけです」
「切っただけ?」
「はい」
「……嘘をつくな」
グスタフさんが素早く歩み寄ってきた。
俺の切ったル・オニオンを覗き込んだ。
そして鼻を近づけた。
「……っ」
息を呑んだ。
「何、これ」
「はい?」
「この香り」
グスタフさんの目が大きく見開かれた。
「この切り方、この厚さ——」
彼は俺の手をじっと見た。
「……親指、包丁の背に」
「あ、気付かれましたか」
「力の逃がし方」
「はい」
「……糖度が逃げない切り方」
グスタフさんが呟いた。
その声が震えていた。
四十年、宮廷で料理を作ってきた男。
その男が一瞬で俺の切り方の本質を見抜いた。
……この人、やっぱりベテランだ。
敵意も何も関係なく、俺は素直に尊敬した。
「グスタフさん」
「……なんだ」
「四十年、料理作ってきた、って聞きました」
「それが何だ」
「凄いですね」
グスタフさんがぴくりと肩を揺らした。
「俺、前世、まだ十五年、でした」
「……前世?」
「あ、いや、言い間違えです。すいません」
「お前、本当に変わっているな」
グスタフさんはもう皮肉の色を、完全に落としていた。
ただ真剣な目で、俺の手元を見ていた。
俺はル・オニオンを鍋に落とした。
弱火でじっくり炒め始めた。
三十分後。スープが完成した。
俺は磁器の深皿に丁寧に盛った。
銀のお盆に載せて食堂に戻った。
アルフォンス王子とシャルロッテ王女の前に、一皿ずつ置いた。
湯気がゆらりと立った。
食堂中に気品のある甘い香りが広がった。
王女が微かに身を乗り出した。
「……これ」
彼女の紫の瞳が、ふっと揺れた。
「玉ねぎスープ、ですわね」
「はい」
「こんなに美しい色をしてるの?」
「はい」
「香りも——」
彼女はそっと目を閉じた。深く息を吸った。ゆっくり吐いた。
「……優しい匂い」
ぽつりと呟いた言葉に、俺は一瞬、あの日のレイナを思い出した。
毒師ギルド総帥が初めて『優しい』と表現した、あの匂い。
王女も同じ言葉を使った。
人は誰でも、優しい食事の前では素直になれるのかもしれない。
王子がゆっくりスプーンを取った。
「いただこう」
彼は上品に一口、スープを口に含んだ。
——時間が止まった。
王子の青い瞳が大きく見開かれた。
そのままじっと皿を見つめる。
しばらくして彼は深く息を吐いた。
「……なるほど、な」
「お口に合いましたか?」
「田中殿」
「はい」
「私は王族として、世界中の美食を食べてきた」
「はい」
「大陸の名だたるシェフの料理を食べてきた」
「はい」
「だが——」
王子の目が優しく細められた。
「これは違う領域だ」
「……え」
「『美味しい』を遥かに超えている」
「……」
「これは——人を幸せにする料理だ」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いや、礼を言うのはこちらだ」
王子がもう一口、スープをすすった。
そしてふっ、と笑った。
「これを作る男を、妹が『専属料理人にしろ』と言い出すのもわかる」
王女が隣でじっとスープを見つめていた。
スプーンを取った。一口すすった。
——。
王女の肩がぴくり、と跳ねた。
扇子がぱさりと床に落ちた。拾う気配もなかった。
もう一口すすった。さらにもう一口。
三口目で——
王女の紫の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれた。
「……」
「王女殿下」
俺はそっと声をかけた。
「お口に合いましたでしょうか」
王女は答えなかった。
ただ静かに涙を流しながらスープを食べ続けた。
一滴、また一滴。皿の上に涙が落ちた。
レイナが隣で、そっと俺に囁いた。
「……ほら、ね」
「え?」
「あの子、昔から、母親との思い出の料理が玉ねぎスープなの」
「え」
「王妃様が二年前に亡くなった時、王女は料理を食べるのが辛くなった」
「……」
「それから王女は、一度も玉ねぎスープを口にしていない」
俺は胸が詰まった。
そんなことも知らずに。ただ美味しいスープを作っただけだったのに。
王女の閉じた扇子の、向こう側にあった、本当の顔が。
今、俺のスープによって露わになっていた。
王女は最後の一口まで飲み干した。
スプーンをそっと置いた。
涙をハンカチで押さえた。
そして俺をまっすぐ見た。
「田中」
「はい」
「私、先ほど、あなたに無礼を働きました」
「……え」
「『私の専属料理人になれ』と命令した」
「ああ、はい」
「撤回させていただきますわ」
王女は深く息を吐いた。
それから優しく微笑んだ。
「あなたの料理は、命令で縛るべきものではありませんでした」
「……」
「もし、よろしければ」
彼女の紫の瞳が、真剣に俺を見つめた。
「私に料理を教えていただけませんか」
……。
俺は驚いた。
隣でレイナも固まった。
王子も少し目を見開いた。
王女は深く頭を下げた。
「田中殿。私、真剣です」
「殿下、それは」
「母との思い出を、私、自分の手で蘇らせたいのです」
「……」
「お願いできませんでしょうか」
俺はゆっくり頷いた。
「喜んでお教えします」
王女が顔を上げた。瞳がまた潤んでいた。
でもその顔には——
さっきまでの気まぐれな王女の顔は、もうなかった。
代わりに、一人の純粋な『母を想う娘』の顔が、そこにあった。
レイナがそっと俺の袖をつまんだ。
ちらっと見上げると、彼女は複雑な顔をしていた。
「……悔しい」
「え?」
「私が師匠を独り占めしたかったのに」
「……」
「でも、今の王女は偽物じゃないわ」
レイナはふっと微笑んだ。
「仕方ない。譲歩する」
「ありがとうございます」
「でも、師匠」
「はい」
「私が一番弟子、よ」
「……はい」
俺は静かに頷いた。
王女がその様子を見て、ふふ、と笑った。
「レイナさん」
「はい、殿下」
「あなたと仲良く競争できそうね」
「競争、ですか」
「師匠の一番弟子の座を、ね」
レイナの眉がぴくり、と動いた。
でも今度は、刺々しい敵意じゃなかった。
もっと爽やかな——ライバルを見つけた楽しさのような光が宿っていた。
「受けて立ちますわ、王女殿下」
「嬉しい」
二人の笑顔が食堂に咲いた。
ガリオさんが奥でぼそっと呟いた。
「……田中」
「はい」
「お前、女運、ヤバいな」
「そうですかね」
「天才だ、別の意味で」
「褒めてます?」
「俺にもわからん」
王都での最初の夜。
俺はまた思いがけず——新しい弟子を得ることになった。
しかも王国の第二王女。
……これ、後で絶対、面倒なことになる。
でも今は、目の前の二人の笑顔を見ているのが悪くなかった。
俺はそっと深く息を吐いた。
美味いスープの余韻が食堂中に、まだ漂っていた。




