第10話 親父の味、異世界に届く
レイナが厨房に立って一週間が経った。
毎日、彼女は真剣に料理を学び続けた。
玉ねぎスープから始まり、塩の使い方、出汁の取り方、包丁の角度。
二十四年、人を殺す技を極めてきた手が、少しずつ食材と対話する手に変わっていった。
カインさんも着実に腕を上げていた。
今では俺が教えなくても、自分で新しい料理を試すようになっていた。
そしてベラさんの宿屋は——
連日、満員だった。
玉ねぎスープの噂が街中に広まって、昼も夜も席が埋まっていた。
「田中さん、もう今日も予約で満席ですっ!」
「ベラさん、嬉しそうですね」
「嬉しいですよぉ! 夫が亡くなってから、こんなに賑やかなの、十年ぶりです!」
ベラさんがエプロンの裾で目を押さえた。
……今日も泣くパターンだ。
でも今日の涙は、きっと嬉しい涙だ。
俺はそう思って、黙って鍋をかき混ぜた。
そんなある日の朝。
宿屋の入り口に一人のお客が来た。
歳の頃は八十前後。腰の曲がった小さなお婆さんだった。
着ている服は色褪せた灰色。手には古びた布袋。
「あの、すいません」
か細い声でお婆さんが話しかけてきた。
「はい」
ベラさんが応対に出た。
「こちらで玉ねぎスープが食べられる、と聞いて……」
「ああ、はい、うちの名物です」
「その、いくらでしょうか」
「銀貨一枚です」
お婆さんの顔が一瞬、強張った。
——【鑑定】が勝手に走った。
【ミリア・フォレンス(78歳)】
状態:所持金 銅貨12枚/末期の肺病/余命約3ヶ月
備考:夫を三年前に病で亡くし、身寄りなし。
『最後に、玉ねぎスープを食べたい』という願いがある。
……。
俺は一瞬で状況を理解した。
銀貨一枚=銅貨百枚。お婆さんの所持金は銅貨十二枚。全然足りない。
でもお婆さんは諦めたように、ゆっくり頭を下げて。
「そう……ですか。お騒がせしてごめんなさい」
そのまま踵を返そうとした。
「あ、待ってください」
俺は厨房から飛び出した。
お婆さんが振り返った。潤んだ目で俺を見上げた。
「玉ねぎスープ、一杯、銅貨二枚です」
「……え?」
俺は笑顔でお婆さんに言った。
「今日だけサービスしてます」
お婆さんの目から大粒の涙が落ちた。
「で、でも、他のお客さんにご迷惑が——」
「大丈夫です」
俺はきっぱりと言った。
「これは俺のポリシーなので」
振り返ってベラさんの方を見た。
ベラさんはもう既に泣いていた。エプロンで顔を覆って、ぶんぶん頷いていた。
「もちろんいいですよぉぉっ……!」
カインさんは無表情のまま深く頷いた。
レイナは厨房の端で、じっと俺を見ていた。
俺はお婆さんに、一番いい奥の席を勧めた。
「ちょっと時間かかりますけど、特別製のやつ作りますね」
「……ありがとうございます」
お婆さんが震える手で、カウンターに銅貨二枚を置いた。
その手が骨と皮ばかりだった。
俺は厨房に戻った。
鍋を出した。いつものル・オニオンを取り出した。
そして棚から——もう一つ、別の素材を取り出した。
【レッドローズ草】(完全処理済・三週間熟成)
効能:松茸の三倍の旨味成分/滋養回復/肺疾患に薬効あり。
備考:適量の使用で、体調の劇的な改善が見込める。
——そう。あの猛毒の草。
正確には、俺が三週間かけて処理した極上のダシ。
普段はここぞという時にしか使わない『伝説の素材』だ。
レイナが後ろから覗き込んで囁いた。
「師匠、それ——」
「レッドローズ草です」
「あのお婆さんの病気」
「気付いてましたか」
「毒師として匂いでわかるの。肺の深いところ、悪くしてる」
「……」
「治せるの、あの素材で?」
「完治は無理です。でも——」
俺はそっと草の根を、鍋に落とした。
「少しだけ楽にはできる」
「……」
「あと、美味しいと思ってもらえる」
レイナが一瞬、言葉を失った。
それからそっと微笑んだ。
「——今日、初めて毒師でよかったと思った」
「え?」
「この素材の処理、私、手伝えるもの」
「……お願いします」
俺は頭を下げた。
レイナが真剣な顔で俺の横に立った。
毒師ギルド総帥。毒の大陸最高位。
その人が俺の料理の助手として、鍋を見つめていた。
三十分後。スープが完成した。
いつもの玉ねぎスープ。でも今日のは特別だった。
香りが違う。
ふわり、と花のような気品のある香り。
食欲をそそりながら、どこか優しく心を包み込む、そんな匂い。
俺は白い深皿にスープを盛った。
琥珀色。ゆらり、と浮かぶ飴色のル・オニオン。
仕上げにメルゼのオイルを一滴。
お婆さんの席まで運んだ。
「お待たせしました」
俺は優しく微笑んで皿を置いた。
「玉ねぎスープです」
お婆さんはじっとスープを見つめた。
その瞳にはもう涙が溜まっていた。
「……ありがとうございます」
小さく呟いて、彼女は震える手でスプーンを取った。
一口。
時間が止まった。
お婆さんはゆっくり、ゆっくりスープを味わった。
そしてぽつり、と呟いた。
「……おじいさん」
「え?」
俺は思わず聞き返した。
お婆さんが顔を上げた。
頬を涙がぽろぽろと伝っていた。
でもその口元には、優しい微笑みがあった。
「この味——うちのおじいさんがまだ元気だった頃、毎朝作ってくれたスープと同じなんですよ」
「……」
「私、五十年結婚してたんです、あの人と」
「そうなんですね」
「毎朝あの人が、私より早く起きて、厨房でカチャカチャって音を立てながら」
お婆さんはスプーンを握りしめた。
「『おはよう、ミリア』って言いながら、湯気の立ったスープを出してくれたんです」
「……」
「毎日、毎日、五十年、同じ味で」
「……」
「私、あの味が世界で一番好きだった」
お婆さんのしわだらけの手が、小さく震えていた。
「でもあの人が亡くなって三年」
「はい」
「もう二度とあの味は食べられない、と思っていたの」
沈黙が落ちた。
店の中がしん、としていた。
他のお客さんもいつの間にか食事の手を止めて、こちらを見ていた。
お婆さんはもう一口スープをすすった。
ゆっくり、ゆっくり噛み締めるように。
「……おじいさん、ね」
呟いた声は震えていた。
「私、もうすぐそっちに行くからね」
俺は何も言えなかった。
ベラさんが静かにハンカチで目を拭っていた。
ガリオさんも黙って俯いていた。
カインさんがじっとお婆さんを見つめていた。
レイナが——
俺の隣で静かに涙を流していた。
大陸最高位の毒師ギルド総帥が、一人のお婆さんの言葉に泣いていた。
お婆さんは一杯のスープを、一時間かけて食べた。
最後の一滴まで大切に飲み干した。
それから深く、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「いえ」
「あの人に会えた気がしました」
「……」
「いつか天国であの人に会った時」
お婆さんがゆっくり顔を上げた。
「『ミリア、お前、あの世に来る前に、一度、美味しいものを食べたんだってね』って自慢できる」
「……」
俺は喉が詰まって、何も言えなかった。
ただ頭を下げた。
お婆さんももう一度頭を下げて、静かに店を出ていった。
カラン、と鈴の音が鳴った。
店の中の誰もが、しばらく言葉を失っていた。
扉が閉まった後。
レイナが静かに俺に聞いた。
「師匠」
「はい」
「あのお婆さんの病気、治せるの?」
「完治は無理です。でも——」
「うん」
「あのスープで、たぶん余命が半年は延びます」
「……」
「あと、痛みはかなり軽くなるはずです」
レイナがぽつり、と呟いた。
「それ、伝えないと」
「いや」
俺は首を振った。
「……どうして?」
「本人が知らないまま幸せに暮らせた方がいいと思うんです」
「……」
「『ああ、美味しいメシを食べたな』って思ってくれてれば、それでいい」
「……」
「俺の料理が結果的にその人の残りの人生を少し長くしたなら——それは料理の力であって、俺の力じゃないですから」
レイナが黙って俺を見た。
それから静かに微笑んだ。
「……あなたって、本当に、料理人ね」
「はい、料理人です」
「うん。知ってた」
彼女はそう言って、ふっと視線を落とした。
その横顔がどこか柔らかくて、俺は何も言えなかった。
その日の夜。
宿屋の営業が終わってから、俺は一人厨房で最後の洗い物をしていた。
カチャカチャと食器を洗う音だけが響く。
そこにガリオさんが入ってきた。
「田中」
「はい」
「ちょっといいか」
いつもよりもずっと真面目な声だった。
俺は食器を置いて、タオルで手を拭いた。
「どうしました?」
ガリオさんはカウンターの椅子に、どっかりと腰を下ろした。
それから深く息を吐いた。
「俺、ギルドを辞めることにした」
「……え?」
「Aランクのお仕事、全部たたんで——」
ガリオさんは俺を真正面から見据えた。
「お前の下につく」
俺は言葉を失った。
Aランク冒険者。この世界で上位一%に入るトップエリートだ。
ガリオさんが築き上げてきた十年以上のキャリアだ。
それを辞める? 俺の下につく?
「い、いや、ガリオさん、それはいくらなんでも——」
「お前の護衛兼、用心棒としてだ」
「護衛」
「お前、自覚、ないだろ」
ガリオさんが肩をすくめた。
「お前の周りに集まる『客』が、一人ずつ規格外だ」
「……」
「毒師ギルド総帥。元・ギルド直属の暗殺者。そして今日の婆さん」
「お婆さんは普通のお客さんじゃ——」
「違うぞ田中」
ガリオさんがニカッと笑った。
「あの婆さん、ミリア・フォレンスって名乗ったろ?」
「はい」
「——フォレンス家はこの王国で、一番古い貴族の姓だ」
「……え?」
「今は没落してるが、王室とも血縁関係のあった由緒正しい家柄だ」
……。
俺は絶句した。
あのつつましいお婆さんが?
「じゃあ、あの人って——」
「たぶん、かつての大貴族の未亡人だろうな」
「……」
「お前の店、何も知らずにこんな客を救っちまったんだよ」
ガリオさんがため息をついた。
「お前が、どれだけ大陸の歴史を動かしてるか、自分で分かってないだろ」
「……俺、ただ料理してるだけなんですが」
「そうだな」
「だから大変なことになってる、って思ってないです」
「だろうな」
「でも周りが勝手に大変なことにしてくる」
「まあそういうことだ」
ガリオさんがニヤリと笑った。
「だから、俺がお前のケツを持つ」
「……」
「俺はお前の『美味いメシ』に惚れたからな。弟子じゃなくて、用心棒としてついてく」
俺はゆっくり頭を下げた。
「よろしくお願いします、ガリオさん」
「おう」
ガリオさんが拳で軽く俺の肩を叩いた。
「田中、一つだけ約束しろ」
「なんですか?」
「俺がいる限り、お前は厨房から出なくていい」
「……はい」
「お前はただ、美味いメシを作り続けろ」
俺はもう一度頭を下げた。
何も言えなかった。
翌朝。
宿屋の前に新しい看板が立った。
『ベラ亭 ~田中一郎の厨房~』
ベラさんがニコニコしながら、看板の前で俺を手招きした。
「田中さん、正式にうちの看板料理人になっていただく、ということで」
「ベラさん、これはさすがに」
「ええ、いいんです」
「いや、でもベラさんの宿なのに」
「夫がもし生きていたら」
ベラさんが優しく微笑んだ。
「きっとあなたのことを、息子みたいに思ったはずだから」
俺は胸が熱くなった。
親父の店を潰してしまった俺。
でもこの世界で俺は——もう一度、誰かの家族になれたのかもしれない。
親父。見えていますか。
俺、こっちの世界でちゃんとやれてます。
田中食堂の看板は守れなかったけれど。
親父の教えた味は。
ちゃんと遠い異世界の誰かの心にも届いているみたいです。
俺は空を見上げた。
どこまでも青く澄んだ空だった。
遠い王都の王宮の中。
ステンドグラスの差し込む大広間で、一人の男が一通の報告書を読んでいた。
若く美しい金髪の男。
王国第一王子、アルフォンス・ヴァン・オーランド。
彼は報告書を読み終えると、静かに秘書官に命じた。
「オルバのその料理人を——」
「はい」
「王都に招け」
アルフォンスの青い瞳が、静かに光った。
「私もその『玉ねぎスープ』を、食べてみたい」
第一章『オルバ編』、ここで一区切りです。
次話から第二章『王都編』に入り、新たな出会いと、ざまぁ展開が加速します。
第一章まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!




