9.夜は短し恋せよ乙女
「私の名は、ベアトリス・グレイニー。オスカーの本来の婚約者よ」
――ベアトリス様との初遭遇は、夜会が始まってしばらく経ったタイミングで起きた。
グレイニー侯爵家に来た私とオスカー様は、入場するなり周囲の貴族たちから祝いの言葉を掛けられた。
次々に挨拶をしていく中で、オスカー様のご友人たちに囲まれる。
「あの『氷の貴公子』のハートを射止めたのが、こんなに可憐なご令嬢だとは」
「恐れ入ります」
「オスカーが婚約を飛ばして結婚したのも分かるよ」
飛び交うお世辞をかわしながらオスカー様を見上げると、正に『氷の貴公子』といったような表情で、眉間の皺を深くしている。
「ちょっかい掛けて悪かったよ。そう怒るな、オスカー」
「……怒っているわけじゃない」
ご友人といる間は少し肩の力が抜けているらしく、オスカー様をご友人たちにお任せして私はご令嬢がたに挨拶しようとその場を離れた。
――そのタイミングで、ベアトリス様と遭遇したのだ。
「お初にお目にかかります。オスカー・リューベルトが妻、クララでございます」
「知っているわ」
恭しい挨拶も一蹴される。
……それよりも、ひとつ気になる言葉があった。
「恐れながら、ベアトリス様がオスカー様の『本来の婚約者』ということは存じ上げませんでした」
オスカー様はあくまで『婚約者候補』と言っていた。
オスカー様の事情を考えると、正式に婚約はしていないはずだ。
「あら貴方、そんなことも知らずにオスカーと結婚を? オスカーがなかなか首を縦に振らなかったから正式なものではなかったけれど、婚約者の第一候補は私だったのよ」
そう言うとベアトリス様は、その綺麗なバラ色の唇で笑みを作る。
ベアトリス様の言うことが事実であれば、それは他の貴族たちも周知の事実だったのだろう。
……ほとんど社交界に出ていなかったが故に、こうした情報を知らなかったことが悔やまれる。
「噂に聞くと貴方、オスカーとは王宮図書館で出会ったとか」
「その通りですわ」
「オスカーは相変わらず本が好きなのね。……昔と変わらないわ」
「ええ、昔からそうだと聞きました」
幼馴染なだけあって、オスカー様の過去の話が次々に出てくる。
「……本なら私だって読んでいるわ。『ヴェリウス海洋伝記』も、『ファリアニア叙事詩』も『東方説話集』も、オスカーと共に読んだもの」
「っ、そう、ですか……」
「どれもオスカーの好きな古典よ。貴方はご存知?」
ベアトリス様は朗々と古典の作品を並べるが――。
(『ヴェリウス海洋伝記』に『ファリアニア叙事詩』、『東方説話集』まで……)
――そのどれもが、クラヴィス・クラインの作品の原典たちだった。
(こんなに原典まで追いかけてくれるファンは、オスカー様ぐらいですよ……)
思わず頬が緩みそうになるのを律していると、ベアトリス様は焦れたように声色を低くする。
「オスカーは昔、娯楽小説なども読んでいたけれどね……子供が読むものだからやめなさいと言ったこともあったわ。それからオスカーは堅実に、次期公爵として歩んでいたのに……どうしてここで、貴方を選んだのかしら?」
ベアトリス様は、心底分からないといった様子で私に問いかける。
ベアトリス様の言葉は止まらない。
「貴方だって、これだけ身分差があるのよ? いくら貴方がオスカーを愛したからといっても、自ら身を引くべきではなくて?」
ベアトリス様が言うことは、貴族としては正しいのだろう。
――ただその正しさは、誰の心にも響くとは限らない。
「私一人がオスカー様を想っていたのであれば、そういたしました」
ベアトリス様は、苛烈なほどに正しい。
しかし私もオスカー様も、『貴族の正しさ』の中では息ができなかった。
――せめて私だけは、オスカー様が息継ぎをできる場所でいたい。
「……オスカーが貴方を望んでいたから、受け入れたと言うの?」
「はい」
ベアトリス様から見れば、私は急に現れた悪役だ。
この結婚が私だけに責任があるものなら、物語の悪役令嬢のように振舞うのも良いだろうけれど……。
(きっとオスカー様は、それを望まないわね……)
あの陽だまりのような笑顔が曇るのは見たくないと、思ってしまった。
「っ、どうして? ……私は間違ったことは言っていないはずなのに……」
ベアトリス様の手が力強く握られる。
私はそれに、何も言葉をかけることはできない。
「っ、皆が言うわ! 『あの氷の貴公子の心を溶かしたご令嬢が現れた』と! ……『あの堅物貴公子も人間らしい情熱があったんだな』と……! 皆、貴方たちのことを楽しそうに話すのよ! 『オスカー様の婚約者はベアトリス様で決まりだ』と言っていたその口で!」
「っ……!」
感情の濁流に、飲み込まれそうになった。
ベアトリス様の勝気なつり目には、うっすらと涙が滲んでいる。
ベアトリス様がオスカー様を想っていることは、誰が聞いても明らかだった。
お義父様の目論見通りに、ロマンスで彩られた物語は私たちを守った。
――その結果として、その物語はベアトリス様を傷つけている。
ベアトリス様の声に、周囲の貴族たちがこちらに視線を向けてくる。
しかしベアトリス様は止まらない。
「私だって、オスカーに生涯寄り添いたいと思っていたわ! ならば、私の方を選ぶべきなのに!」
「……そうだと、思います」
「だったら……!」
「それでも」
私が望まなかったとしても――私の物語が、誰かを傷つけた。
その事実は変えられない。……きっと今までも、クラヴィスの作品で傷ついた読者がいたかもしれない。
罪の意識が芽生える。……けれど。
『クララ』
……それでも私は、私の物語を愛してくれる人のために。
誇りある次期公爵の妻として、振舞わねば。
「それでも、私はオスカー様の手を取りました。私の意志で、たとえ世界が私を否定したとしても――オスカー様に寄り添いたいと、思いました」
これが、ベアトリス様に示すことのできる、私の精一杯の矜持だ。
ベアトリス様は言葉を詰まらせて、視線だけで私を威圧している。
周囲のざわめきが、にわかに大きくなり、人影が私たちに近づいてくる。
そうして――。
「クララ」
――オスカー様の優しい声が、耳に届いた。
周囲の視線が刺さる中、オスカー様は私の傍によると、ガラスに触れるようにそっと私の肩を抱く。
「オスカー……!」
「ベアトリス。……今まで君が、私に『貴族の正しさ』を説いてくれたことは、感謝している」
その声は今まで何度も聞いた、誠実に相手に向き合う時の、オスカー様の声だった。
オスカー様の視線は、ベアトリス様にまっすぐに向けられている。
「ただ、クララは……『正しさ』の中で忘れていた私の心に寄り添ってくれた人だ。だからこそ私は、彼女にそばにいてほしいと思ったんだ」
「オスカー様……」
陰っていた私の心に、光が差す。
まるで、契約結婚しているなんて分からないくらいに――彼は夫として、私を守ってくれていた。
「……それが公爵令息に相応しい振る舞いだと?」
「いいや。……私には、君が求める『正しい』振る舞いはできなかった。それだけの話だ」
それは、オスカー様なりの拒絶の言葉だった。
ベアトリス様の手が、ドレスをくしゃりと掴む。
私の肩に触れている手に、力が籠るのが伝わってきた。
「……『貴族の正しさ』に背いたとしても、クララが良かったんだ」
その瞬間。
見守っていた周囲の貴族たちが、感嘆の声をあげる。
一歩も引かないオスカー様の姿に、ベアトリス様は表情を隠すように俯いたかと思うと――。
次に顔をあげた時には、最初に見た意志の強い瞳をしていた。
胸を張り、力強くこちらを見据えてくる。
「……いいわ。分かりました。リューベルト公爵令息様」
「ベアトリス……」
「もう名前で呼ぶのはおやめになさいませ」
……目の前の彼女もまた、誇り高い侯爵家の令嬢だった。
「私は、自分が間違っているとは思いません。私を選ばなかったことを後悔するくらい……私は他の方と、王国一の理想の夫婦を目指します!」
それは、私が物語として書けないほどの――。
気高く、美しい――恋の終わりだった。
*
ベアトリス様との邂逅のあと。
十分に他の貴族がたと交流できたということで、私たちは帰路に就くこととなった。
帰りの馬車で揺られながら、今日の出来事を思い返す。
『クララは……『正しさ』の中で忘れていた私の心に寄り添ってくれた人だ』
先ほどのオスカー様の言葉。
クラヴィスの作品が彼に寄り添っていたことは十分に知っているが……私に対してそういう言葉を言われたのは、はじめてだ。
……なんだか、鼓動が速い。
「今日はすまなかった。もっと早く私が気づいていれば……」
「気になさらないでください。一人で行動していた私のせいですから……」
申し訳なさそうに頭を下げるオスカー様。
それに苦笑しながら答える。
「それに、私が現れた時点で、オスカー様を慕っていたご令嬢がたは良い顔をされないでしょう。……事実、私たちが流した物語でベアトリス様は傷ついていらしたのですから」
私の言葉に、ぴくりとオスカー様の肩が動く。
「クララ。物語を読んでいると、時には傷つくこともある」
オスカー様の言葉が胸に刺さる。
……オスカー様は、私の小説を読んで傷ついたことはなかったのだろうか。
「しかし、ベアトリスは私たちの物語を知った上で――最後は、誇り高く振舞ってみせた。……私は、傷ついた中からも得られるものがあると、信じている」
力強く断言するその声が――ひどく、胸に響いた。
「今回は私が傷つける側になってしまったが……」
膝の上に置いていた手が、オスカー様の手に取られる。
……私よりも大きい、しなやかな手。
「あの時……『世界が私を否定したとしてもオスカー様に寄り添いたい』と、そう言ってくれただろう?」
「……聞こえていらしたのですね」
「ああ。……私は、貴方がそう言ってくれたことが、とても嬉しいんだ」
向かい合ったオスカー様の宝石のような瞳には――くっきりと、私の姿が浮かんでいる。
「クララ。私も貴方のことを、ただの契約相手としてだけではなく……この世界で背中を預ける者として、たとえ自分が傷ついたとしても――守りたいと、思っている」
その言葉が、すとんと私の中に落ちて広がっていった。
あたたかい何かが、胸の内に広がる。
(……なにかしら)
あたたかく、ゆっくりと胸を締め付けるもの。
違和感のようでありながら、決して不快ではないもの。
それが確かに、私の中に生まれていた。
「ありがとう、ございます」
ぎこちない声。不自然に思われたかしら。
(この感覚……忘れてはいけない気がするわ……)
目の前のオスカー様が、きらめいて見える。
――その理由はまだ、分からない。




