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10.今夜本の見える部屋に



 オスカーは夢を見た。

 過去の自分に寄り添ってくれた、一冊の本と出会った日の夢を。



 オスカー・リューベルト少年は決して、不幸な生い立ちではなかった。

 ただしその心は少しだけ、自由を求めていたのだろう。


「オスカー! もうそんな子供っぽい本を読むのはおやめなさい!」


 少年の頃のオスカーに刺さった、幼馴染の言葉。

 腕に抱いているのは、何度も読まれてボロボロになった娯楽小説。

 幼馴染や両親の声を振り切って、館の中にある使用人部屋の一室へと逃げ込む。


「おい、オスカー! ……急にどうしたんだよ」


 同じく若かりし頃のルークが、いきなり入ってきたオスカーを見て眉をひそめた。


「……もう、疲れたんだ。読む本すら、貴族という立場に縛られるなんて」

「ああ、ベアトリス様か……。アンタも大変だな」


 ルークはそう言いながら、真新しい本を一冊、オスカーに渡した。


「これは?」

「最近流行ってる作家の本だと。兄貴が持ってたから借りてきた。読んでいいぞ」

「……ありがとう」


 『水平線の向こうから朝は来る』と書かれたその本を、オスカーは部屋の隅でかじりつくように読み始めた。


「……ルーク、これ、すごい……!」


 ――あの日から、オスカーの心は、クラヴィス・クラインに捕らえられていた。




「……なんだか懐かしい夢を見たな」


 自室のベッドの上で、オスカーは頭を掻きながらそうぼやく。


(……久しぶりにベアトリスと話したからだろうか)


 夜会での出来事が思い出される。

 あの日、久しぶりに幼馴染と対峙して、緊張したはずだったが――。


『それでも、私はオスカー様の手を取りました』


 あの日、契約結婚した妻が堂々と言い切ったあの言葉。

 その言葉が鮮明に、オスカーの中に残っている。


「っふふ……あれは、強烈だったな」


 初めてクラヴィスの作品に出会った日のような、そんな衝撃だった。

 しかしオスカーは――その妻とクラヴィスが同一人物であることは、まだ知らない。


 *


 オスカー様の妻としての夜会デビューを終え、私の元には様々な家からの招待状が届くようになった。

 そして社交シーズンの始まりにあわせて、リューベルト公爵夫妻もタウンハウスに移ってくる。


「クララさん、次はこちらの家のお茶会を」

「かしこまりました、お義母様」

 

 私はお義母様からの指示を受けながら、貴族からの招待に応えていった。


 

 ある日の夕食のあと。

 普段は各々部屋に戻り自由な時間を過ごしているが、今夜は違った。


「クララ、一緒に来てくれないか」


 席を立った途端、オスカー様から声を掛けられる。

 公爵夫妻の視線を感じながらも、オスカー様のあとをついて食堂を出た。


 長い廊下を踏みしめながら向かった先は、オスカー様の執務室だった。


「――貴方に、見てほしいものがあるんだ」

「見てほしいもの?」


 こちらを見るオスカー様はどことなく楽しげだ。

 執務室の中に入ると、オスカー様はそのまま部屋の奥へと突き進む。

 書類棚に隠れるようにして、扉がひとつあった。


「このお部屋ですか?」

「ああ。……ここは私の秘密の部屋でね、クララと……共有したかった」


 そこまで言われると、思わず身構えてしまう。

 オスカー様がそう前置きをする場所。私と共有できるもの。

 つまり――オスカー様の趣味の部屋ということに、他ならない。


 扉は軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いていく。

 暗いその部屋の中、灯りをつけて入ると――。


「――わあ……!」


 周囲の壁一面が、本棚で埋め尽くされていた。

 本棚にはびっしりと、娯楽小説が並んでいた。


 思わず棚に駆け寄り、その背表紙たちを眺める。

 大御所作家から最近デビューした若手作家まで、幅広く並んでいた。


「ベリエ・ロマンにフィルバーツ兄弟まで……! ここにある本すべて、オスカー様の蔵書ですか!?」

「そうだ! すごいだろう? ……ルークに頼んで、少しずつ集めてきたコレクションたちだ」

「そうだったのですね……!」


 オスカー様に抱いていた謎がひとつ解けた。

 この館の中でルークだけが、オスカー様の趣味を知っていたのだろう。


「以前ルークと話した時、『人から勧められてクラヴィスの本を読んだ』と言っていました。……もしかしてその人は」

「クララはまるで探偵のようだな。……そうだ、私が彼に勧めたんだ」


 オスカー様は嬉しそうに、私の言葉を肯定した。


「そしてあそこに並ぶのが……私が持つ、クラヴィス先生の本たちだ。初期の作品から最新のものまで、全部揃えてある」


 オスカー様が指し示した先。

 一番奥にある重厚な本棚、オスカー様の視線の高さにある段。

 ――この部屋の一番良い場所に、それらは並んでいた。


 『水平線の向こうから朝は来る』、『バルギニア帝国盛衰史』、『宝石の国の魔女と王子』……。

 数々のクラヴィス作品が刊行順に、こちらに背表紙を向けている。


「前にも話したと思うが、私はこれが一番好きでね」


 オスカー様は手を伸ばすと、『水平線の向こうから朝は来る』を取り出した。

 端は擦れて解れており、表紙のタイトルは掠れている。

 ……何度も何度も、読み返して愛されたことが一目で分かる。


 途中のページに栞が挟まっており、オスカー様はそこを開いた。

 オスカー様の綺麗な指が、あるセリフをなぞる。


『僕はこの冒険が終わったら、故郷へ帰ります。七つの海も、遥かな山の頂も、僕の好奇心を駆り立てたけど……僕が帰るべき場所は、あの街なんです』


「――私はこれを読んで、救われたんだ」

「え……」


 思わず声が漏れる。

 オスカー様の顔を見上げると、オスカー様は愛おしげに目を細めてそのページを眺めていた。


「私はこれを読んで、公爵家の人間として生きる決意ができたんだ。この物語のような冒険に憧れたこともあったが……主人公は最後に、故郷へ帰る決断をする。そんな主人公に、『オスカー・リューベルト』として生きる後押しをしてもらえたんだ」


 ――それはあまりにも大きな告白だった。

 繊細な心を守りながら、公爵家の人間として生き続けてきたオスカー様。

 その人生を選ぶきっかけが、クラヴィス・クラインだったなんて。


「クラヴィス先生には本当に感謝をしている。言葉では表せないほどに」


 その表情は晴れやかで――言葉に嘘がないことは、聞かなくても分かる。

 ――私の作品は、たしかにこの人の運命を変えたのだ。


 私にとって読者は、どこか遠い存在だった。

 それは覆面作家として、読者と距離を置く立場だから仕方がなかったけれど……。

 こうして目の前に、私の作品に影響を受けた読者がいる。

 その事実が、泣き出しそうなほどに、嬉しい。


「……そう、でしたか……」

「ああ。……クララはどうだ? クラヴィス先生の作品を読んでいると言っていたが……」


 オスカー様の目が輝いて、こちらを見ている。

 読書友達として、好きな作家の良さを分かち合いたいらしい。

 少年のようにきらめく瞳に、思わず笑みが零れた。


「そうですね。私も大好きです、クラヴィス・クラインが」

「そうか!」

「ええ。――思い入れのある、唯一無二の作家です」


 クラヴィスという仮面をつけている間は、私の物語を世界へ届けることができる。

 他に変わりなどない、私の大切な虚像だ。


 オスカー様は私の言葉を聞いて満足そうに笑うと、ポケットの中からひとつの鍵を取り出した。


「そうか、ならば――この鍵を貴方に預けよう」

「これは?」

「この部屋の鍵だ」

「えっ!?」


 思わず大きな声が出る。

 この場所は、オスカー様だけの秘密の場所であるはずだ。


「私の秘密を受け入れてくれた貴方に、この鍵を預けたい。いつでもこの中の本を、好きなように読んでくれ」


 まるで、心の一部を預けられたような、そんな感覚だった。


「……よろしいのですか?」

「クララなら、良い。……また二人で、本の話をしよう」

「……はい」


 彼からの全霊の信頼が、ひしひしと伝わってくる。


(……また、だわ)


 心臓がうるさい。

 オスカー様から言葉を受け取る度に、私の胸は騒々しくなる。


 そうして私の手には、秘密の部屋の合鍵が握らされた。



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