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11.そして、不穏は渡された



「オスカー様! 競馬場ってこんなに広いのですね!」

「クララ、待ってくれ!」


 新緑の香りが満ちるころ、私とオスカー様は、オスカー様の友人夫妻と共に競馬場に訪れていた。


「おや。クララさんは、競馬場に来るのは初めてかい?」

「ジェームズ。皆が競馬に興味があるわけではないのよ。……ごめんなさいね、クララ様」

「いえ、一度訪れてみたかったので……お誘いいただきまして、ありがとうございます」


 ブライトマン侯爵家の御子息であるジェームズ様と、その妻のミランダ様。

 ブライトマン家は有名な馬主の家柄で、こうして頻繁にレースへ顔を出しているそうだ。


「馬たちの走る振動が伝わって、芝の香りが吹き抜けていって……迫力を感じます」


 普段は街中をゆっくりと走る馬しか見たことがなかった。

 しかしこうして生き生きと躍動する姿を見ると、馬への印象ががらりと変わる。

 ……いつか遊牧民の話を書く時の参考にしよう。


「まあ! クララ様は詩的な表現をなさる方なのね、素敵だわ」

「……恐れ入ります」


 ……危なかった。

 作家の性なのか、体験したことはつい臨場感のある言葉で表したくなってしまう。



 私たちはジェームズ様に案内されて、一等見晴らしの良い馬主席へと案内された。


「ここでレースを見ながら飲むエールビールが最高に旨いのさ!」

「お前は本当に酒が好きだな、ジェームズ」


 オスカー様とジェームズ様の気兼ねないやり取りを、微笑ましく見守る。

 ……たとえ秘密の趣味のことは話せなくても、オスカー様がこうして一息つける場所があるのは良いことだ。


「そういえばひとつ、お二人にお聞きしたいことがあるのです」


 遠くの馬たちを眺めていると、ミランダ様がおずおずと話を切り出してきた。

 何事かと、オスカー様と揃って背筋を伸ばし身構える。


「ミランダ、それは――クラヴィス・クラインとかいう作家の話だったな?」

「ええ」


 ――体が、硬直する。

 まさかこの場で、その名前を聞くなんて。

 オスカー様も予想していなかったのか、その切れ長の目を大きく見開いている。

 しかし一度軽く息をつくと、努めて冷静に言葉を返した。


「……名前は知っている。その作家がどうした?」

「……ミランダが王妃殿下に仕えているんだが、そこで妙な話を聞いてな」

「はい。……実は御年4歳になるアンソニー王子が、近頃クラヴィス・クラインの絵本を気に入っているという話になりまして……」


(アンソニー王子が!? クラヴィスの絵本を!?)


 怒涛の情報の渦に飲み込まれそうになる。

 驚きや喜び、恐れ多さが胸中で渦巻く中、なんとか平然とした顔を保って話を聞いていた。


 話はこうだ。

 王子がクラヴィスの絵本を気に入っているが、クラヴィス作の絵本は一冊しかない。

 王家はクラヴィスに、新しい絵本の作成を依頼しようとしている。

 そのため、覆面作家として活動するクラヴィスを探すのではないか。


「……王妃様は文化の保護に手厚い方ですから、本を読む習慣を平民に広く流行させたクライン氏は叙勲される可能性もあります。どちらにしてもゆくゆくは、クライン氏を探すのではないかと」

「……なるほど」


 私もオスカー様も、それ以上何も言えなかった。

 クラヴィスを隠しているヴェールに、王家の手が伸びている。


「そこで二人に、なにかクラヴィスの正体に関わるような話は知らないかと聞きたかったのさ」

「随分と無茶な話をするな……そもそも、クラヴィス・クラインは覆面作家として活動しているんじゃなかったか? この広い国で探すのはなかなか骨が折れる話だと思うが」

「ああ。ただ作品の内容から、貴族が正体を隠して執筆しているという噂は前々からある」


 その噂が流れていることは知っていた。

 私の作品は、念入りに歴史や神話を調べ、ディテールにこだわった話になっている。

 それだけの情報を得るのは、貴族階級でないと難しい……そういった噂だった。


「王家からの命で貴族階級から探すとなれば……もしかしたら見つかるかもしれないな」

「そうなんです。特にクララ様のご実家は王宮図書館の管理をされていますから……もしかしたら、なにかご存知ではないかと思いましたの」

「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、私はなにも……」


 ――なにか知っているどころか、クラヴィス本人です。

 口が裂けても、そうは言えなかった。


「そうですわよね! ごめんなさい、いきなり不躾に……」

「いえ! お気になさらないでくださいませ!」


 申し訳なさそうに眉を下げるミランダ様に、チクリと良心が痛む。

 謝らなければならないのは、こちらの方なのに。


 クラヴィス・クラインについては、なにか正体に関わる情報を得たらお二人に報告するということで、その場は収まった。




 ブライトマン家の所有する競走馬が、見事にレースを勝った。

 表彰式に向かうブライトマン夫妻を見送りながら、私は小声でオスカー様に尋ねた。


「……オスカー様。先ほどのお話ですが……」

「ああ。……クラヴィス先生の話だろう?」


 オスカー様も即座に、小声で返してくれた。

 ……雑踏の中、二人だけで秘密の話をする。


「オスカー様はどう思われますか。……クラヴィス・クラインの正体が明らかになったら」

「ぜひお会いして、サインを頂きたいな」

「サイン」


 即答だった。

 あまりにも真っ直ぐな視線が私に突き刺さる。

 この人は本当に、ブレない……!


「ただ、クラヴィス先生が正体を隠すのにはなにか理由があるのだろう。……正体を明かすことになるとしても、クラヴィス先生の不本意なことにならないと良いが」


 ファンとしての願望を抱えながら、クラヴィスのことを思いやってくれる。

 オスカー様が本気を出せば、クラヴィスの正体に辿り着くことはそう難しい話ではない。

 でも――彼はそうしないのだ。


「オスカー様は……お優しいのですね」


 私にはそれが――とても眩しい。

 なんだか自分だけ緊張していることがおかしくなって、思わず笑い声が出た。


「……うん、貴方はそうしている方が良い」

「……え?」

「先ほどのミランダ夫人の話を聞いてから、どことなく顔が強張っていたようだからな」


 ――貴方には、笑っている方がずっと似合う。


 オスカー様は臆面もなく、そう言った。


「両親やベアトリスと対峙した時のような、堂々とした表情の貴方も頼もしく思えるが……私としては、そうして笑ってくれている方が良い。……貴方もどうか、私の前では気を楽にしてくれ」


『私の横では、どうか気を楽にしてくださいね』


(あ……)


 なんだか、頬が熱を帯びる。

 それは、以前私がオスカー様にかけた言葉と同じものだった。



 *



 レースも終わり、貴族たちはそれぞれ家路につくなか、ジェームズはオスカーの背後からいきなり肩を組んできた。


「急になんだ! ジェームズ!」

「オスカー。……お前、本当にクララさんに惚れてるんだなぁ」

「……一体なんだ」


 少し先を歩く夫人二人の背を見ながら、オスカーは怪訝そうに返す。

 ジェームズはそんなオスカーの表情にもひるまず、楽しそうに言葉を続けた。


「あれだけクララさんのことを目で追ってるんだ。嫌でも分かるさ。……良い女性に出会えたんだな、オスカー」

「……あ、ああ……」


 ジェームズの言葉に、オスカーは言葉を詰まらせた。


(……そんなにも私は、クララのことを目で追っていたのか?)


 自覚はない。

 しかし、ジェームズが嘘を言うとも思えない。

 ……この目はそんなにも、クララを見ようとしていたのか。


 クララの背を見ながら、オスカーは一人、無自覚な自分の行動について考え込むこととなった。



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