12.恋せよまやかし夫婦ども
「ふう……」
自室にある大きなソファへ体を預けながら、深く息をつく。
昼間は次期公爵夫人として慌ただしく過ごしているが、夜は一息ついてゆっくりできる。
『貴方もどうか、私の前では気を楽にしてくれ』
「っ……まただわ……」
近頃、気を緩める度にオスカー様の言葉を思い出してしまう。
グレイニー家での夜会の帰り道や、競馬見学の時の記憶が蘇る。
そこにはいつも、オスカー様の優しい笑顔と温かい言葉があった。
(……この感情は……)
恋愛小説を書くと決めてから、あらゆる恋愛ものの古典を読み込んだ。
その多くが、身を焦がすような熱い恋の物語で……。
私の抱く感情が、物語の登場人物たちと同じものかは分からない。
それでも今は、私の中にあるこの優しい熱が、恋愛小説を書く道しるべのような気がしてならない。
「お嬢様、お仕事のお仕度が整いました」
「ありがとう、マリア」
マリアが用意してくれたタイプライターの前に座る。
タイプライターの横には、図書室から借りてきた恋愛ものの古典が積まれている。
「近頃他の使用人たちにも、お嬢様がタイプライターを使っていることが知られてきているようです。……お気をつけくださいね」
「音はどうしても響いてしまうものね……分かったわ、ありがとう」
古典の中から手近な一冊を手に取り、ぱらぱらと捲る。
(この作品は、オスカー様のように生真面目な主人公だったわね……)
『たとえ傷ついたとしても――守りたいと思っているんだ』
『そうして笑ってくれている方が良い』
問答無用でまた頭の中に響くオスカー様の声。
――契約結婚相手にそこまで言ってくださるなんて、結婚当初は思いもしなかった。
(オスカー様はまるで、恋愛小説の主人公みたいね)
思わず微笑みながら、不要となった資料を仕分ける。
「マリア。ここの数冊は図書室に返しておいて」
「かしこまりました。……次の作品の構想が固まったのですか?」
「ええ。……身分差の恋愛にしようと思って」
身分差の恋は、古くから恋愛作品で頻出するテーマだ。
私とオスカー様も、表向きは身分差を超えた大恋愛の末の結婚ということになっている。
――私にとって、『身分差』ほど扱いやすいテーマはなかった。
「……面白そうですね」
「そうでしょう? 平民の男が貴族のご令嬢に恋をする話でね……そうだ」
そこまで話して、ふと閃いた。
稲妻のような直感が、私の頭に落ちてくる。
「いかがなさいましたか?」
「主人公の名前よ! 今、閃いたの!」
天啓のように舞い降りてきたその名前。
平民のように短く分かりやすいもので、愛着の湧くような響き。
一度閃いてしまうと、もうこれしか考えられなかった。
名前を付けた途端に、主人公の恋模様が次々に浮かんでくる。
今はもう、それを文章にしたくて仕方がない。
「……なんと、名付けたのですか?」
「『オズ』という名前にしようと思うの!」
『オズ』。
貴族のご令嬢に恋した彼は、叶わぬ恋に身を焦がしていく。
今はもう、彼が辿る恋の道が、ありありと目に浮かんでいる。
「……素敵ですね。良いと思います」
マリアは優しく笑って、私のアイデアを肯定してくれた。
*
クララが恋愛小説のアイデアを閃いていたころ、オスカーは馬小屋でうずくまっていた。
「……若旦那がこんなところで油売ってていいのか?」
なにか思いつめたような表情をしているオスカーを見ながら、ルークは仕事道具を片付けていた。
「今日の仕事はすべて終えてある。……それよりも、少し……ルークに聞きたいことがあるんだが……」
歯切れの悪いオスカーに、何事かとルークは真剣に耳を澄ます。
しかし、オスカーの次の言葉にルークは脱力してしまった。
「その……私は、クララのことをよく見ているのか……?」
「……はあ?」
ルークにとっては実に今更な発言に、呆れたような声が漏れ出る。
「ジェームズに指摘されたんだ、『あれだけクララのことを目で追っているから、本当に惚れているのだろう』と……。そんなに私は、分かりやすくクララを見ていただろうか?」
オスカーの頬は、暗い中でも分かるほど紅潮していた。
ルークはため息をつきながら、今までのオスカーの言葉を思い返す。
『今は彼女で良かったと、思っている』
『彼女も、クラヴィス先生の作品を読んでいたら良いのだが』
(……あれが全部、無自覚な言葉だったとはねぇ……)
オスカーがクララに好感を抱いていることは、分かりやすく言葉に滲んでいた。
長い付き合いのルークから見ても、オスカーがクララに心を許していると分かるほどに。
「……まあ、よく視線で追っているとは思うぜ。それだけ若奥様のことが気になるんだろ」
「ルークから見ても、そうなのか……」
オスカーの顔に、悲痛の色が浮かぶ。
ルークは仕事道具を片付け終わると、オスカーの横にどっかりと腰を下ろした。
「気になる女性を目で追ってしまうってのは、普通のことだろ。そんなに気にするなよ」
「……でも、契約結婚の夫に好奇の眼差しを向けられたら、クララも良い気はしないだろう……?」
オスカーの頭では、契約結婚の文字が踊る。
生真面目なオスカーには、まるで契約違反をしたような気がしてならないのだろう。
「そもそも、オスカーの秘密はもう若奥様にバレているんだろ? そこで契約を続ける意味が俺には分からないね。契約なんてやめて、本当の夫婦として仲を深めたって良いんじゃないか?」
「そうできたら良いのだがな……」
ルークのもっともな指摘に、オスカーは深いため息をついた。
「以前クララに言われたんだ、『理由は明かせないが、この契約結婚は自分にも利益がある』と……」
「あー……そしたらこっちが契約をなしにするのは、まずいかもしれないな……」
オスカーの秘密が明かされた今、彼にとってクララは気の置けない友人であり、この生活で背中を預けられるパートナーだ。
しかしこの契約が、クララに惹かれるオスカーの心を踏みとどまらせる。
「……若奥様が秘密にしている理由って、なんなんだろうな……」
クララが契約を受け入れた理由を、オスカーもいくつか知っていた。
『妹に縁談が来るようにするため』、『実家の家計の負担を減らすため』。
クララの背景を考えれば、当然考えられる理由たちだ。
(私が趣味を明かした時、『自分も同じ理由で契約に応じた』とは言わなかった。つまり……娯楽小説を読むことは、隠された理由ではない)
――まだ、それ以上の理由がある。
「クララにとっての利益とは、なんだったんだ……?」
――クララを、知りたい。
オスカーの中に、強い願望が生まれた。




