7.ヲタクに恋はまだ早い
「実はあれに使ったインクは、その作品をイメージしたインクなんだ」
予想は的中した。
(この人、私のファンだー!)
叫び声が喉を飛び出しそうになるのを、必死で口を閉じて抑える。
「……あの、青い光沢のあるインクですか?」
「ああ! あのインクがそうなんだ」
慈しむような瞳でそう笑うオスカー様が、なんだか眩しくて仕方がなかった。
……あの質の良さそうなインクを特注で作ることのできるファンが、この世にそう何人もいるわけがない。
早鐘を打つ胸を抑えて、最後の答え合わせをする。
「オスカー様、もしかしてその作品は……クラヴィス・クラインの『水平線の向こうから朝は来る』ではないですか?」
決定的なキーワードを並べる。
ここまで来てハズレではない、はずだ。
「クララ……」
オスカー様の切れ長の瞳が、月のように丸くなる。
驚きが隠せない声色で私の名前を呼んだあと……その口は、一気に笑みの形へと変わっていった。
「貴方も知っているのか!? クラヴィス先生を!」
「え、ええ!」
「読んだことは……」
「ありますわ」
「そうか……!」
これ以上言われなくても分かる。
――この喜びようは、あのファンレターのファンで間違いない!
「やはりそうじゃないかと思っていたんだ! 貴方はクラヴィス先生の話題でも嫌そうな顔をしなかったと聞いたから!」
「ええ、そうですね」
「でも何故ご令嬢がクラヴィス先生の作品を? ご令嬢がたはああいう本は読まないと思っていたが……」
「……素敵なお話は、男女関係なく読みたくなるでしょう?」
「……そう! そうなんだよ! クラヴィス先生の小説の面白さは、どんな人にも伝わるんだ! ……そうか、クララ……貴方もクラヴィス先生の作品が好きだったんだな……!」
好きどころか作者です。
その言葉はなんとか飲み込んだ。
「クラヴィス先生の作品はどれを読んでも面白い! 私が一番好きなのは『水平線の向こうから朝は来る』だが……いや、順位をつけるなど烏滸がましいな。クラヴィス先生の作品はどれも輝く宝石のように素晴らしい」
「お、オスカー様」
「クララは『バルギニア帝国盛衰史』は読んだか? あれも臨場感のある歴史小説で大好きなんだ。クラヴィス先生は歴史にもお詳しいから、細部まで本当に隙が無い史劇になっていて読みごたえがあるぞ。読んでなかったら一度読んでみてほしい」
「そんなに」
「あとは子供向けに書かれた『宝石の国の魔女と王子』も外せないな。あれを読んだときは16歳だったが、それでも楽しめた。あれは貴族の中でも少々話題となっていたな。娯楽小説家ながら子供向けの良い作品を書くと」
「え、ええ……」
雨のように降り注ぐ称賛の言葉に、少しも言葉を挟むことができなかった。
それどころか、ファンからここまで直球のお褒めの言葉をもらったことがなかったので気恥ずかしさが最高潮に達している。なんだか顔が熱いような気がしてきた。
しかしふと、怒涛の称賛の雨が止まり、オスカー様は少し悲しそうな顔をされた。
「……ただ、やはりこのような娯楽小説は『通俗的』『平民や子供の読むもの』と、貴族社会では忌避されがちだろう? ……小説を面白いと思う心に、貴賤などないと思うのだがな……」
その、オスカー様の言葉が。
私の胸を、まっすぐに穿った。
『小説を面白いと思う心に、貴賤などない』。
そうだ。私もそう思って、私が面白いと思う話をずっと綴ってきたのだから――!
「もう貴方も察しただろうが、私の秘密の趣味というのは、娯楽小説を読むことなんだ。……本当は、好きでいることを隠したくはない。でも今の貴族社会で、『リューベルト家の跡取りが平民の読み物を読む』だなんて知られたら、それこそ契約結婚並のゴシップになるだろうからな……」
オスカー様はそう言って、寂しそうに『ヴェリウス海洋伝記』の表紙を眺めている。
その横顔に、穿たれた胸が大きく鼓動する。
クラヴィスとして、「ここまで愛してくれてありがとう」と言いたかった。
でも――できない。
(……そこまで愛した作家が、一介の貴族令嬢だと知ったら――?)
普通の貴族令嬢は詩や日記を綴るくらいで、小説を書くなんて聞いたことがない。
オスカー様が娯楽小説を好むからといって、『娯楽小説を執筆する令嬢』を受け入れるかどうかは別問題だ。
いや……オスカー様のお人柄なら、受け入れてくれる可能性も十分あるだろう。
でもその場合、別の問題が浮上する。
(オスカー様に、私の秘密を共に抱えてもらわなければいけなくなるわ……)
次期公爵夫人が娯楽小説作家ということは、契約結婚以上のゴシップになり得る。
……今まで次期公爵として、規律正しくプレッシャーに耐え続けてきたオスカー様に、これ以上の負担はかけたくない。
『貴方の小説を読んで、僕は救われました』
――彼を救ったクラヴィスが、彼を苦しめてはいけないのだ。
(……やっぱり、正体は明かせないわね……)
この秘密を抱えるのは私だけで良い。
それが作家として生きることを決めた、私への枷だ。
「クララ」
「はい?」
オスカー様は先ほどまでの高揚が嘘のように、凪いだ瞳でこちらを見つめている。
その視線に思わず背筋を伸ばす。
「こうして貴方と好きなものを分かち合えて、とても嬉しいんだ。……貴方さえ良ければ、読書友達として、またこうして本の話をしてくれないか?」
――私たちは既に、夫婦という形ではあるが。
オスカー様はそう言って、照れくさそうにはにかんでみせた。
「――私でよろしければ、喜んで」
「本当か! ……ありがとう、クララ。貴方と話すのは、本当に楽しいよ」
――クラヴィスとして彼と話すことができなくても……私にはまだ、クララとして彼と話す道が残されている。
読書友達ができたと純粋に喜ぶオスカー様に対して、罪悪感がないわけではない。
(――この償いは、小説で致します)
これからも小説を書き続けることだけが、彼に対する償いだ。
そう信じて、私はオスカー様と『読書友達』となった。
数日後。
私はクラヴィスとしての仕事で、貴族街の大書店へと足を運ぶことになった。
「……ついに来たわね」
そこで待ち受けていたのは、私にとって大きな壁のある仕事だった――。
*
「クララ?」
昼のリューベルト邸内に、オスカーの声が響く。
使用人たちは、彼が愛する妻を探し求める声だと思ってにこやかに見守っていた。
執事が足早にオスカーの元へと駆け寄る。
「いかがなさいましたか? 若旦那様」
「クララの姿が見えないのだが……」
「若奥様は書店の方へお出かけになりました」
「書店に?」
執事の言葉に、オスカーは軽く肩を落とす。
「そうか……共に行きたかったが……」
「女性にとっては、お一人で過ごす時間も大切なものです。夕方にはお戻りになるとのことでした」
「……それほど長く書店に?」
オスカーの中に、小さな疑問が生まれた。




