4.隠れ上手の若君
契約書にサインをしてから一夜が明けた。
昨日急浮上した、『オスカー様は私のファン』疑惑。
あれから何度も疑惑を忘れようとしたが、ふとした瞬間につい思い出してしまい、上手く寝付けなかった。
「おはようございます、お嬢様。……まだ眠そうですね」
「おはよう、マリア。……昨日はなんだか上手く寝付けなくてね……」
寝ぼけ眼の私を見ながら、専属のメイドのマリアがカーテンを開けてくれる。
彼女はマグノリア家から連れてきた使用人だ。
私の周囲では彼女だけが、契約結婚のことも、私が作家であることも知っている。
契約結婚を決めてから、リューベルト邸に引っ越すまではあっという間だった。
オスカー様は領地にいらっしゃる公爵夫妻に報告すると、私がリューベルト邸に移る手配を進めた。
……ご不在の時に勝手に結婚や同居を決めて良いものか疑問だったが、オスカー様曰く『既成事実を作ってしまった方が良い』とのことだった。
(本来のオスカー様は折り目正しい方なのでしょうけれど……こんなに大胆に事を進めるなんて、なんだか面白い方ね)
絵画から飛び出てきたような貴公子がこんな行動をするなんて、小説の主人公みたいだ。
私のファンかどうかに関わらず、彼の行動は作家として観察しがいがある。
急な結婚に両家はもちろん困惑していたが、『他家に横やりを入れられる前に結婚したい』という理由で押し通すことにした。
……契約のことは、マグノリア家にも伝えていない。
実家の家族たちに余計な心配をかけたくなかったので、オスカー様とそう決めた。
ただ結婚生活を営むうえで、常に私の傍にいるマリアにだけは話しておいたのだ。
「まさかお嬢様がいくつも秘密を抱えた上で結婚なさるなんて、旦那様がお聞きになったらお倒れになってしまいますよ!」
「良いじゃない、こういう秘密も小説のネタになるわ! ……それに私には、マリアという味方がいるもの。なんとかなるでしょう」
「お嬢様の創作中毒がここまでとは思いもしませんでしたよ」
私の髪を梳きながら、マリアが小さくため息をつく。
急に嫁ぐことになった私に家族みんなが騒然としていたが、私の決意が変わらない姿を見て最終的には納得してくれた。
お父様は、嫁ぎ先でも執筆を続けたいという私のために、数少ないマグノリア家の使用人を割いてくれた。
それがマリアだ。
(でもまさか、嫁ぎ先でこんなことが起こるなんて思わないわよ……)
オスカー様は、果たして本当に私のファンなのか。
それを知りたいという好奇心をなんとか捻じ伏せて、次期公爵夫人として振舞わなければならない。
……明日、リューベルト公爵夫妻がこのタウンハウスへとお帰りになる。
いかにお二人にこの結婚を受け入れてもらうか。オスカー様と契約結婚してから、最初の試練だ。
いきなり現れた身分の低い嫁に対して、思うところもあるだろう。
この結婚生活を続ける上で、なんとしても公爵夫妻に私のことを認めてもらわなくてはならない。
「オスカー様の妻として、最低限のことは果たさないとね」
オスカー様のためにも、私のためにも。契約したからには、それ相応の働きを。
気を引き締めて、私は椅子から立ち上がった。
*
オスカー様と朝食を取った後は、それぞれ別行動になる。
午前中は次期公爵夫人として必要な知識を学ぶ時間だ。
しかし午後は、私の自由に過ごすことができる。
「原稿はもう渡してあるから、そろそろ次の作品のネタを探さないと……」
いくつか執筆の依頼は受けていたが、大きな依頼は既に原稿を書き終えてお父様に預けている。ここのところは歴史上の人物を題材とした作品が好評で、そのシリーズの最新作だ。
いつもはネタを探しに王宮図書館へと通っていたのだが……。
「そういえば、リューベルト家には図書室があるのよね」
公爵家の蔵書には、かねてから興味があった。
公爵家の蔵書量は、マグノリア家の蔵書量とは比べ物にならないだろう。
……きっとそこでなら、新しい作品のヒントが拾えるかもしれない。
私はマリアを連れて、公爵家の図書室へと足を踏み入れた。
「わあ……!」
「これは……見事な蔵書ですね……」
重い扉を開くと、そこには壁一面の本棚に重厚な背表紙の本が並んでいた。
文学、言語学、地政学、科学……。ありとあらゆるジャンルの本が整然と並んでいる。
感嘆のため息が零れ落ちた。
「これはこれは、若奥様」
マリアと揃って本棚を見上げていると、横から声を掛けられた。
声のした方に視線を向けると、杖をついた身なりの良い老父が私たちの傍に来ていた。
「お初にお目にかかります。私は長年リューベルト家で書庫番をしております、コリンと申します」
「コリン、どうぞよろしくお願いいたします。私、本が好きなので、これからも使わせてくださいませ」
「もちろんでございます」
白いひげを撫でながら柔らかく微笑むコリンに、心が和む。
「しかし、若奥様も本がお好きとは……坊ちゃま、いえ、若旦那様も本がお好きなのですよ」
「まあ、そうなのですか?」
「ええ。昔は日がな一日、図書室にいらっしゃることもありました」
図書室に丸一日いるほどの本好き。
『氷の貴公子』と呼ばれるオスカー様からは、あまり想像しがたい印象だ。
しかし、もし私のファンならば……無類の本好きであることも想像に難くない。
「そこの歴史書や海洋図鑑などもよく見ておいででした」
「歴史書や海洋図鑑……」
クラヴィス・クラインの代表作には、歴史創作のシリーズや、海洋冒険ファンタジーがある。
……あのファンレターの差出人は、本当によく私の作品を読み込んだ感想を綴っていた。
(……まさか、本当に……?)
頭の片隅に埋めておいた疑念がまた顔を出してくる。
コリンは私の疑念など露知らず、図書室の中を案内してくれる。
「若旦那様は我々使用人にも気を配ってくださっていて……ほれ、あそこの書棚はすべて、使用人向けの書物を揃えてくださっているのです」
案内された書棚、そこには。
――クラヴィス・クラインの本をはじめとする、娯楽小説が並んでた。
「っ……!」
「……若旦那様は平民の間で流行っている小説も、ご自身が読むわけではないのにこうして揃えてくださっているのですよ。『使用人たちの日々の楽しみに』、と……」
しゃがれた声で朗らかに笑うコリンの横で、私は一言も声に出せなかった。
「これは……壮観ですね……」
横にいたマリアも、感嘆の声をもらしていた。
「往年の名作から最新の流行作まで揃っているわ……」
「おや、若奥様も小説にお詳しいのですか?」
「え、ええ! 知識として一通りは」
思わず零れ落ちた言葉をコリンに拾われて、すぐさま誤魔化した。
「オスカー様は……本を読むことを愛していらっしゃるのね……」
「ええ。私は勝手ながら、王国一の本好きは若旦那様だと思うております」
自身が読書を楽しむだけでなく、周囲の人たちへも読書の楽しさを広めている。
それは誰の目に見ても明らかな、オスカー様のお人柄からくる行動なのだろう。
物語を綴る者として、それはとても――素晴らしいと、褒めたたえたいことだった。
(……あれ? でも……)
読者としてのオスカー様を内心で褒めたたえつつ、ふと新しい疑問が浮かぶ。
(オスカー様が私のファンだとしたら、一体どうやって本を読んでいるのかしら?)
先ほどコリンは、オスカー様自身は娯楽小説を読まないと言っていた。
つまり、ここにあるクラヴィスの本には手を付けていないことになる。
(普通に考えれば、ご自分用の本を持っていらっしゃるのだろうけれど……)
あのオスカー様が、ご自分で本を買いに行くとは思えない。
そうすると、誰かが代わりに買いに行っていることになる。
(……嫌だわ、推理小説の読みすぎかしら)
つい頭の中を推理モードにしてしまった。
まだオスカー様が私のファンだと確定したわけでもないのに。
(でも、オスカー様のことを知ることができて良かった……)
大恋愛をした夫婦を演じる以上、オスカー様のことはどんなことでも知っている方が良い。
私はそう思いながら、本をいくつか借りて図書室をあとにした。
*
その夜。
オスカーは夕食を終えた後、足早に自室へと戻っていた。
つい最近一緒に住み始めたクララとは、契約通りお互い干渉しない生活を送れている。
自室の机に向かいながら、オスカーは忙しなく指で机を叩いていた。
ほどなくして、扉がノックされる。
「入れ」
オスカーの許可が下りると扉が開き、オスカーと変わらないくらいの年齢の、背の高い青年が紙袋を抱えて入ってきた。
「今日の業務は滞りなく終了した。馬たちの様子は執事に伝えてある」
「ご苦労だったな、ルーク」
厩番のルークは、簡潔に報告を終えると、一気に気を抜いた表情を見せた。
「若旦那っぷりも板についてきたな」
「ルーク……その呼び方はやめてくれ。……君に若旦那扱いされるのは少々堪える」
「いくら幼馴染とはいえ、雇い主を呼び捨てにはできないんだがな……まあいいや」
ルークは快活に笑いながら、オスカーの机に紙袋を置く。
その瞬間、オスカーは待ち構えていたように紙袋に手を伸ばした。
「頼まれてたものは一通り買ってきたぜ」
「ありがとう……! ところで、クラヴィス先生の本は……」
「今月は何もなかったが、二カ月後に新刊が出るとポスターが貼られていたな」
「本当か!」
ルークからの情報に、オスカーは目を輝かせる。
オスカーが紙袋から取り出したその中身は、何冊もの娯楽小説たちだった。
「明日には旦那様たちが帰ってくるってのに、呑気なもんだな」
「父上たちが帰ってくるからこそ、息抜きが必要なんだよ」
「若奥様の方は良いのか?」
ルークの問いかけに、オスカーの手が止まる。
「……クララは聡明な人だ。父上たちも、彼女のことは認めてくれるさ」
「……へえ、随分自信があるんだな」
「父上たちが何と言ってくるかは予想できるからな。……クララは本当に発想が豊かだ。条件に合えば誰でも良いと思っていたが……今は彼女で良かったと、思っている」
「へえ……」
オスカーがクララのことで顔を緩めたのを見て、ルークは感慨深げに息をもらした。
――いよいよ明日、リューベルト公爵夫妻が帰ってくる。




