番外編 サラバ、愛しき苦しみたちよ
生まれた時から、期待と責務が隣にある人生だった。
「さすがはリューベルト公爵殿の御子息だ! 将来が楽しみですなあ!」
「たった一人の御子ですもの、イライザ夫人もさぞ可愛がっていらっしゃることでしょうね」
大人たちの世界で、幼い自分の頭上を飛び交う声。
幼いながらに、肩に重いものがのしかかるような感覚を覚えた。
「リューベルトの跡目として、この国をお支えできるような人間に育ってほしいですわ」
「教育面はイライザに任せれば間違いないですからね……私としては、世渡りの上手い男に育ってほしいものです」
「ハロルドはもう少し、父親としての背中を見せてください」
『名門リューベルト家の嫡男』、『次期公爵』……。
私は常に、その肩書と共に呼ばれて育った。
……それが、嫌だったわけではない。
けれど。
(リューベルトの嫡男として、この国が豊かになるような仕事をしなければ)
(公爵家の男子として、品位ある振る舞いをしなければ)
(この国にも、生活に苦しむ民がいる。それに比べれば――)
(私の背負う責務を、苦しいなどと思ってはいけない――)
肩に感じる重みを、見ないようにしていた。
*
(……あ、あれは!)
そんな日々の中。
視察で平民街を歩いた時、串焼きの屋台を見かけた。
冒険小説で、勇者が串焼きにかぶりつく姿。とても美味しそうで、一度食べて見たかった。
「じいや、あの屋台に寄ってはだめかな?」
「いけません、オスカー坊ちゃま! ……あれは庶民が口にするものです。到底オスカー坊ちゃまの口にあうものではございません」
「……そうか」
私のささやかな夢は、叶えられぬまま。
こうして潰えた夢が、一体どれだけあっただろう。
両手の指の数を超えてから、数えるのをやめてしまった。
*
それでも、夢を見ることはやめられなかった。
「『フランキーの大冒険』、すっごく面白かったなぁ……! 早く続きが読みたいや」
幼いころは比較的両親も寛容で、子供向けの娯楽小説が本棚にあった。
何度も何度も、繰り返し読んだ。
本の角が磨り減って、手垢が目立つほどに。
――しかし、そうした日々にも終わりが来る。
「オスカー。もうすぐ経営学の先生がお見えになりますよ」
「はい、母様」
私が読んでいた本を目にして、母は眉根を寄せた。
「オスカー……まだ、あのような本を読んでいるのですか」
「はい。ルークに借りたのです!」
「そうですか。……ルークは使用人の子、貴方は公爵家の子です。そろそろ立場を弁えた接し方を心得なさい」
「……はい。母様」
「今度からはこの国の古典や、外国の文学などを積極的に読むように。貴方の勉強の助けとなりますから」
「……はい」
幼いころは目こぼしをされていた事が、どんどんできなくなっていく。
娯楽小説は日々の楽しみだった。ルークは私の数少ない友達だ。
どちらも大切にしたい。したかった。でも。
「貴方は、誇りあるリューベルトの後継者なのですからね、オスカー」
「……心得ております、母様」
私がオスカー・リューベルトである限り。
この世界はそれらを、『私に相応しくないもの』と断ずるだろう。
私の周囲の環境は、否応なしに私を『次期公爵』として形作ろうとする。
――ベアトリスの存在も、そのひとつだった。
「まあ! オスカー、まだ貴方こんな本を読んでいるの!?」
庭の隅で隠れるように娯楽小説を読んでいた私を見つけた彼女は、咎めるようにそう言った。
「オスカー、貴方はもう大人でしょう? ならそろそろ、立派な貴族の男子として相応しいものを読まなくちゃ!」
「……ベアトリス嬢は、そういう本を読んでいるの?」
「もちろんです! エニロフ夫人の『婦人の心得』や、マイヤーズ大公の『諸国外遊録』を読んで、日々研鑽に励んでおりますの!」
……ベアトリスは、正しい。
彼女は侯爵家令嬢として、必要な知識を蓄えている。
私にはその正しさを――どうしても、自身に徹底することはできなかった。
ベアトリスと交流が深まるにつれ、両親の認識にも変化が訪れた。
「ベアトリス嬢は本当にしっかりとしたご令嬢です。オスカーはまだどこか子供らしさが抜けないですから……彼女が婚約者となってくれれば、良い刺激となるでしょう」
「オスカーには兄弟がいなかったからね、つい甘やかしてしまったが……そろそろ大人の男としての第一歩を踏ませなければね」
「では、この縁談は進めるということでよろしいですね?」
「ああ」
両親の部屋の外でこの話を耳にした時、一気に自分の中の何かが冷えていくのを感じた。
些細な夢が潰えていくこの環境で、このまま彼女と結婚することになったら――私は二度と、あの自由な娯楽小説の世界に心を遊ばせることができなくなる。
――それだけは、どうしても嫌だった。
「お待ちください!」
いきなり開いた扉に、両親が目を丸くしていたことをよく覚えている。
そこからはもう必死だった。
人一倍勉学に励みます。誰が見ても完璧な所作を身につけます。
父様と母様が誇れるような、そんな『次期公爵』となりますから――。
――だからどうか、婚約者を決めるのだけは待ってください。
そう、訴えた。
……あまりにも必死な私の姿を見て、両親が婚約を決定しなかったことは幸いだった。
それでも、ベアトリスが最有力の婚約者候補なのは皆が知るところとなっていたが……。
それからは、私の些細な幸せを守れるように――血を吐く思いで、勉強をした。身分相応の立ち居振る舞いを身に着けた。
娯楽小説は隠れて読んだ。ルークには、表面上主従のように接した。
私が理想の『次期公爵』となれば、きっと私の幸せを守ることができる。
私が『オスカー・リューベルト』であることは、逃れようのない運命だ。
それでも、大切なものを全部捨てることなんて、できなかった。
そんな日々で出会ったのが、『水平線の向こうから朝は来る』だった。
使用人室で匿ってもらいながら読んだその本は、私に新しい世界を見せてくれたのだ。
物語は、七つの海を冒険する、男爵家の少年の話。
貴族という身分でありながら、奔放に世界を駆ける姿に憧れた。
それだけじゃない。
物語は最後、実家の没落を期に、少年は故郷へ帰り実家を立て直すことを決断する。
――冒険の日々の終わりだ。
冒険が終わることに未練はないのか?
作中でそう問われたとき、少年は笑って答えていた。
『七つの海も、遥かな山の頂も、僕の好奇心を駆り立てたけど……僕が帰るべき場所は、あの街なんです』
『僕は冒険も愛してるけど、故郷のことも愛してるんです。故郷に帰ることが僕の運命なら……僕はその運命を、愛したい』
その言葉を読んだ時、頬を涙がつたっていった。
彼はなんて、強いんだろう。
そのまま故郷に帰らず、冒険を続ける選択だってできただろうに。
彼は帰るべき場所へ帰り、果たすべきことを果たした。
その運命を――愛すると言ったのだ。
「そう、そうだな……! 私も、そうありたい……私の運命を、愛したい……!」
涙はとめどなく溢れていく。
雑に袖で拭うと、涙の染みがついた。
そうして私はやっと、自分の生き方を見つけることができた。
『オスカー・リューベルト』という人間の運命を、ただ『逃れられない』と悲嘆するのではなく、愛そうと思えるようになった。
「……これを書いたクラヴィス先生も、逃れられない運命があったのだろうか」
何度も読み返すうちに、これを書いた作者にも思いを馳せる。
「……いつかクラヴィス先生とお会いして、聞いてみたいものだ」
その願いは、思いもよらぬ形で叶うこととなる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、オスカーとクララ、それぞれの過去を描いた番外編をお届けしました。
実は、完結後にいただいたご感想をきっかけに生まれたお話です。
素敵なご感想を届けてくださった読者様に、改めて感謝申し上げます!
本編とあわせて、番外編も楽しんでいただけましたら嬉しいです。




