18.はじまりの日に、こんにちは
クラヴィス初の恋愛小説『誰そ彼時に、さようなら』は、発売早々大評判となった。
平民と貴族の恋物語は、またたく間に多くの人へ広まっていった。
しかも平民だけではなく、貴族の中にも読む者が現れるほど。
貴族の間でも少しずつ、クラヴィスが評価されつつあった――。
*
『誰そ彼時に、さようなら』の発売日。
オスカーは深くため息をついて、目の前にある真新しい本と向き合った。
仕事も片付けた。人払いもしてある。
ようやく、クララの本心と向き合うことができる――そんな期待を胸に、オスカーはおそるおそる、表紙を開いた。
「オズ……」
主人公の名前に親しみを感じながらも、オスカーは読み進めていく。
そこには、張り裂けそうな言葉が満ち溢れていた。
『こんなことになるのなら、初めから彼女を愛さなければ良かった……!』
痛切なオズの叫びは、何度もオスカーの心に刃を立てる。
『もう、彼女のことは諦めよう。それだけが、僕ができるたったひとつの、彼女への愛の証明なのだから――』
『僕の不幸に、彼女を巻き込ませたくない。これを抱えるのは、僕だけで良い』
『彼女のこの先の人生に、僕は不要だ――いつか僕のことも、思い出のひとつになっていく』
(――これが、クララの本心だったのか)
クララのことを知ろうとページを捲る度に、今まで想像しなかった感情が現れる。
オスカーは一文字も取りこぼすことなく、一気に読み進めると――。
本を閉じ、クララの元へと向かった。
*
世間の騒がしさが嘘のように、温室の中は穏やかだ。
私は朝からずっと、ここで本を読んでいる。
ずっとここで――彼を待っている。
ふと、温室の扉が開く音が聞こえた。
そこからまっすぐ、こちらに歩み寄ってくる足音。
私は本を閉じ、顔をあげてそちらを見る。
「――ごきげんよう、オスカー様」
明らかになにかを押し殺しているような、気難しい顔のオスカー様がいた。
近頃は笑顔を見せてくださることが多かったのに、『氷の貴公子』に戻ってしまったようだ。
「クララ……」
「オスカー様は既にご存知でしょうが、クラヴィスの作品は古典から着想を得たものが多いです。……今回の着想元は、これでした」
オスカー様の言葉を制するように、手に持っていた古典の表紙を見せる。
それを見たオスカー様の眉間の皺が更に深まった。
気を悪くしたのなら申し訳ないが、こちらとしても、もうすべてをさらけ出している。
ここまで来たなら、私が言えることはこれが最後だ。
「契約を破棄しましょう、オスカー様。そしてリューベルト家を守るために、離婚を」
この小説はきっと、クラヴィスの評価を二分する。
貴族でありながら平民と貴族の恋を書いたクラヴィスを、嫌厭する貴族も出てくるだろう。
そんな中で私がクラヴィスだと世に知られれば、一番被害を受けるのはオスカー様だ。
オスカー様を守りたい。でも、オスカー様に愛されたい。
砕けそうになる心を必死に律して、オスカー様に微笑みかける。
しかし、オスカー様の表情は一向に厳しいままだった。
「……あまり見くびってくれるな、クララ」
低く重い声が、響く。
「契約は破棄する。しかしそれは、貴方と離婚するためではない」
彼は私の前にゆっくりと歩み寄ると、跪いて私の手を取った。
「『誰そ彼時に、さようなら』を読んだ。……胸が張り裂けるほどの慟哭を見た。私は知らぬ間に、あそこまで貴方を追い詰めていたのだな」
「いえ、そんな……」
「ただね、クララ。貴方は『不幸に巻き込みたくない』というが……不幸など、知ったことか。貴方を失うことこそ、私にとっての不幸だ」
「……それは、私ではなくクラヴィスのことでは?」
「それを履き違えるほど、愚かではないよ。……クラヴィス先生は私の人生に寄り添ってくれた恩人だが……、私が恋い焦がれたのは、クララだ」
捻くれた私の言葉を、拾い上げては丁寧に返してくれる。
私がいくら予防線を張ろうとしても、彼はやすやすと乗り越えてくる。
――私の期待を、裏切らないと言うように!
オスカー様は立ち上がると、私の手を強く引いて立ち上がらせた。
いつになく強引な行動に抗えない。
更に腕を引かれたかと思うと――気づけば、オスカー様の腕の中に、納まっていた。
「クララ――私は貴方を、愛している。クラヴィス・クラインなど関係なく、ただクララのことだけを。貴方が望むなら、世間からも王家からも、貴方のことを守ってみせよう」
目頭が熱くなる。
今まで感じたことのないくらい、強く胸が締め付けられる。
「オズは、最終的に令嬢の元を去ったが……私は、自分の恋を悲劇で終わらせたくない。愛しいクララ……どうか、貴方の口から、答えを聞かせてくれ」
ここまで愛を示されたら、答えないわけにはいかなかった。
ずっと心の奥底に封じ込めていた熱が爆発する。
「私、も……! オスカー様のことを、愛しております……!」
恋の濁流が、決壊した。
「私も、オスカー様と共に過ごすうちに、恋をするようになっていました……! でも、私たちは契約の夫婦だったから……オスカー様が優しくしてくださるのも、契約の妻に対する配慮だと……」
「……そうか。もっと私が分かりやすく態度に表していれば、貴方をそこまで悩ませることもなかったな……すまない」
「いいえ、オスカー様を責めたいわけではないのです……」
言葉がとめどなく溢れてくる。
話はクラヴィスのことにも広がっていく。
「何度も、ファンレターを読み返していました。ずっと……叶うなら、返事をしたいと思っていたの……。でも、できなかった。クラヴィスは覆面作家で、貴方は匿名のファンだったのだもの」
「……そうだな。お互いに素性を明かすわけにはいかなかった」
「でも……貴方の言葉が、本当に嬉しくて……! 『誰そ彼時に、さようなら』も、貴方が傍にいたから、書くことができたわ」
「……光栄だ」
「ずっと、貴方は……近くて遠い、存在だった」
作家とファン。契約の妻と夫。
どこまでも近くにいるようで、明確な距離がある。
背中に回された腕の力が、強くなるのを感じる。
オスカー様の顔は見られないが、向こうからも私の顔は見えないだろう。
でも、ちょうどいい。涙でぐしゃぐしゃで――とてもじゃないが、好きな人に見せられる顔ではないだろうから。
「ずっと……ごめんなさい。オスカー様に対して、ひどいことを言ったわ」
「あれくらい、訳ないさ。……むしろ、やっと夫として見てくれたようで、嬉しいくらいだ」
ああ、彼は本当に――誠実で、愛が深い。
「今日、やっと……私は“貴方”に、出会えたんだなぁ」
感慨深げな、泣き笑うようなオスカー様の声。
腕の力が緩むと、お互いに向き合う。
オスカー様の目元はうっすらと赤く色づいていて、瞳は輝いていた。
「貴方の心の奥底に触れさせてくれてありがとう、クララ。貴方の居場所はここだ。何ものからも守ってみせるから……どうか、私の傍にいてほしい」
答えはもう、決まっている。
「……はい。どうか末永く、貴方様のお傍に」
契約結婚をしてから数カ月。
私たちは本当の夫婦となった。




