17.君の心臓を知りたい
「契約結婚を終わりにする、ですか」
「ああ」
唐突なオスカー様の申し出に、うまく内容が飲み込めず聞き返してしまう。
今、彼はなんと言った?
「貴方と契約で結ばれているこの関係を、解消したいんだ」
きっぱりと、彼は確かにそう言った。
彼の言葉をようやく飲み込んだ瞬間、頭の中に嵐が吹き荒れる。
(どうして? 私がクラヴィスであることがバレてしまった? ……それ以外に理由が思い当たらない。自分がファンだとしても、自分の妻が娯楽小説家であることは良くなかった? ――今までそれを黙っていたことを、怒っている?)
思考は際限なく、悪い方へと加速していく。
「どうして、ですか」
声が引き攣っているのが、自分でも分かる。
オスカー様もそれに気づいたのか、困ったように少し眉を下げた。
「……そもそもこの契約結婚は、私の秘密を守るために依頼したものだ。しかし……貴方が秘密を知ったことで、その前提条件が変わってしまった」
……確かに、オスカー様の言うことはもっともだ。
しかし、前提条件が変わったといっても、それは良い意味でのはずだ。
この生活を続けるためには、結婚を維持した方が良いはずなのに――。
私が真意を推し量ろうとしているのをよそに、オスカー様は話を続ける。
「少なくとも私にとって、この結婚が契約上のものである理由はなくなった。――これを機に、貴方と真の夫婦として、共に生きていきたいと思っているんだ」
「――はい?」
まったく予想しなかった方向へ、話が変わる。
つまり――オスカー様は、私と別れようとしているわけではない?
「それは、どういう」
戸惑いがそのまま口をついて出る。
「……私が定めた契約を、私自身が破ることを許してほしい」
オスカー様はそう前置きをすると、緊張をほぐすように深く息を吸い込んだ。
「……お互いに干渉しないという契約だったな。私が、あれを果たせなくなったからだ」
その誠実な眼差しが、私を捕らえて離さない。
胸がざわめく。
何度も葬ったはずの淡い期待が、オスカー様の言葉で目を覚まそうとする。
必死で心を殺そうとしているのに、彼の言葉はそんな私ごと包み込んでくる。
「私は――貴方を、愛してしまった。だからこそ、貴方に関わりたい。干渉せずにはいられなくなってしまった。貴方が許してくれるなら――この契約結婚を受けてくれた、本当の理由を知りたい」
胸が、歓喜で震える。
それと同時に、私はこんなにも、オスカー様と別れることを恐れていたのだと実感する。
彼も私と同じ気持ちでいてくれた、私の恋は一方通行ではなかった。
嬉しい、けれど――。
心のどこかで、「人の気も知らないで」とほの暗い感情が湧きあがってくる。
「……オスカー様は、なんだと思いますか。私が契約を受け入れた理由とは」
素直に答えればいいのに、口をついて出るのはまるで可愛げのない、試すような言葉。
それでも、止められなかった。
私がどれだけの思いで、クラヴィスであることをひた隠しにしてきたのか。
きっとオスカー様は、それを知らない。
「オスカー様は、私のことをなにもご存知ないでしょう? ……本当の私を知って、それでも愛していると言えますか」
愚かなことをしているのは分かっている。
こんなにも誠実な人を、自分の不安のために試そうとしているのだから。
(……小説に出てくるような、面倒で嫌な女になってしまったわ)
心の中でそっと、己を嘲る。
「私の存在が貴方に害を成したとしても――それでも愛してくださるのですか」
最後はもはや、私の願望だった。
オスカー様に、「それでも」と言ってほしい。
私の正体――クラヴィスが、貴方の害となったとしても、それでも愛すると。
「――すべては知らないかもしれない。でも、貴方の傍にいる間は、貴方のことをよく見てきたつもりだ」
慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりとオスカー様が話し出す。
「咄嗟のことにも、機転を利かせて柔軟に対応できる力がある。目上の者にも物怖じしない。実家のご家族のことをとても大切にしている。馬が走る迫力に、目を輝かせていた。本や演劇を楽しむときは、ゆっくりと味わうような瞳をしている」
指折り数えて挙げられる、私についてオスカー様が知っていること。
結婚してからの様々な思い出が、目に浮かんでくる。
「これだけのことを知っている。だが、足りない――もっと、教えてほしいんだ。貴方のことを。貴方を知ることを許されるのならば、私はいくらでも――貴方の奥深くまで、知りたい」
ここまで言われたら、もう洗いざらい真実を吐き出したくなってしまう。
私がクラヴィスであることも、私がオスカー様を愛していることも。
「私が好きなものへ凄まじく執着することを、貴方も知っているだろう? ――おそらく、結婚するよりもずっと前から」
思考が、止まった。
ずっと前から。それが指し示す意味など、ひとつしかない。
青みがかった光沢のあるインク。溢れるほどの手紙たち。そこに書かれた、むき出しの称賛の言葉。
ああ、彼はきっと――!
私がクラヴィスであることに、辿り着いている――!
ならばもう、足掻くだけ無駄だ。
これ以上正体を隠そうとしたところで、滑稽だ。
あとはもう、彼に知ってもらうしかない。
「私のことを知りたいならば、読んでください。……あの人の本を」
私の心はすべて、あの本の中に置いてきた。
あとは彼がそれを読んで、どう受け取るかだ。
――来月、クラヴィスの恋愛小説『誰そ彼時に、さようなら』が出版される。




