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15.その覆面作家は恋をする



 外は雨が降りしきる中、私の部屋では一定の速度でタイプライターのキーを叩く音が響き渡っている。

 忙しなく続いていたパーティやお茶会も一段落つき、お義母さまの許しも得て、ここ数日は家の中で過ごしている。


「クララさんは卒がないですね。貴方なら、リューベルト家次期公爵夫人も務まるでしょう」


 お義母さまからは、そう言っていただけた。

 けれど――本当に、そうだろうか。


『男性であるとは、限らないのではなくて?』


 先日お会いした王妃殿下の言葉が、頭の中に響き渡る。

 王家の捜索の手は広がってきている。私がクラヴィス・クラインであると突き止めるのは時間の問題だろう。

 格式あるリューベルト家の嫁が、娯楽小説家だなんて――お義父さまとお義母さまが認めてくださる保証などない。

 そもそも私の結婚も、マグノリア家の娘だから許容されただけで、他家の娘だったなら恐らく反対されていた。

 これ以上リューベルト家の名に泥を塗るようなことを起こせば――離婚は免れない。


 暗くなる思考を掻き消すように、激しくキーを叩く。

 物語の中では、主人公であるオズと恋する相手である令嬢が、恋心で雁字搦めになっている。


『――僕の選択は、本当に正しかったのか? 本当に彼女のことを思うなら、僕から身を引くべきなのに――』


 私の手は滑らかに、オズの葛藤を紡ぎ出す。

 私の心が陰るほど――オズの心が、引き裂かれていく。


『いくら貴方がオスカーを愛したからといっても、自ら身を引くべきではなくて?』


 耳に焼き付くベアトリス様の声。

 本当に、こんなことになるのなら――契約結婚なんて、受けない方が良かったのかもしれない。

 いっそ、オスカー様を巻き込む前に離婚してもらう?

 ――いや、だめだ。この結婚は、本来オスカー様が趣味を続けるために望んだもの。


『貴方も知っているのか!? クラヴィス先生を!』


 あの日の、オスカー様の輝く瞳を覚えている。

 私の前で心を許してくれたオスカー様を、裏切りたくはない。


「……どうすれば、いいのかしら……」


 漏れ出た声は、雨音とタイプ音に掻き消されていった。




 昼下がり。

 気分を変えるために、図書室へと足を運んだ。

 ……コリンはいるかしら。雑談でもして、気が晴れれば良いのだけれど。

 そう期待して図書館の扉をあけたのだが。


「クララ?」

「おや、若奥様」

「っ……!」


 そこには、今一番会いたくない人ーーオスカー様がいた。


(タイミングが良いのか悪いのか……平然としていないと……)


 私に駆け寄ってくるオスカー様と、それを見守りながら一歩下がるコリン。

 コリンの気遣いはありがたいけれど、できれば今は二人きりにさせないでほしかった。


 ぎこちない笑顔を作りながら、オスカー様に挨拶をする。


「ごきげんよう、オスカー様」

「ああ。クララは……なんだか、顔色が悪いな」


 オスカー様は心配するように眉根を寄せると、右手を差し出して私の頬に触れてきた。


(……オスカー様!?)


 突然のことに、思わず肩が跳ねる。

 しかしオスカー様はそれに気づくことなく、親指でそっと目の下をなぞる。


「……うっすらとクマができている。眠れているか? ここのところ忙しかっただろう、すまない」

「は、い。十分に、休めておりますので、お気になさらず……」

「気にするさ。自分の妻のことなのだから」


 続けざまに飛び出た言葉が、私の心に突き刺さる。

 オスカー様の妻扱いは、ここのところ更に磨きが掛かっている。

 距離が近づくたび、オスカー様の顔がうまく見られなくなるし、心臓が騒めいて仕方がない。

 触れられたそばから、熱を持っていくようだ。


「オスカー様、その……手が……」


 なんとか声を振り絞って、私に触れる手を指摘する。

 オスカー様はちらりと手に視線をやると、手はそのままにして私の方を見る。


「ああ……すまない。……嫌だったか?」

「嫌な、わけでは……」

「そうか。……良かった」


(それはどういう意味での『良かった』なんですか……!?)


 あれほどオスカー様の分かりやすい表情を見てきたはずなのに、今はなぜこんなにオスカー様が私を気遣ってくれるのか、まったく分からない。

 オスカー様の指先が、優しく頬を掠めて離れていく。

 ――その熱が、名残惜しいだなんて。


「貴方が辛そうだと、私も悲しい」


 オスカー様の双眸に、私の姿がくっきりと浮かんでいる。

 心から私を慈しむように、優しく目を細めて。


(……だめよ、私。これ以上は……!)


 この身が震えるほど、彼の言葉が嬉しいだなんて。


「……恐れ入ります。オスカー様」


 なんとか言葉を返して、逃げるように図書館を立ち去った。

 背後から私の名を呼ぶ声が聞こえるが、もう1秒だってあの場に留まることはできなかった。




 足早に自室へと戻り、マリアに人払いをするようにお願いする。

 ただ事ではない私の雰囲気にマリアは目を丸くしていたが、黙って私の言う通りにしてくれた。


 目の前の机には、話も終盤に差し掛かっている恋愛小説の原稿が積まれている。


「っ……! ちがう、だめ……!」


 足の力が抜けて、崩れ落ちるように椅子に座り込む。

 目頭が熱くなる。嗚咽が出そうになるのを、必死で抑え込む。

 目の前の書きかけの原稿が、目に入る。

 うまく言葉が浮かばなかった、オズの台詞。

 今なら、ぴったりの台詞を書くことができる。


 震える指先が、タイプライターのキーを叩く。


『こんなことになるのなら、初めから彼女を愛さなければ良かった……!』


 紙の上で、オズの慟哭が響いている。


(ええ、そうよ。本当に……)


 後悔先に立たず。

 私がどんなに悔いても、結婚する前には戻れない。

 あの優しい瞳が、「クララ」と呼ぶ明るい声が、「守る」と言ってくれた強い心が。

 オスカー様の、そのすべてが――私への好意からくるものであればいいと!

 そんな馬鹿な期待をしてしまったなんて!


『自分の妻のことなのだから』


 契約はまだ有効だ。

 オスカー様がどれだけ私を妻として扱ってくれたとしても、これを破棄しない限り私たちが本当の夫婦になることはない。


「本当に……愚かね、私は……」


 ここまで手詰まりになってやっと、オスカー様への恋を自覚するなんて。

 あれだけ人の心を描いてきた作家が、聞いて呆れる。


 私の呟きを、雨はそっと掻き消してくれた。



 *



 クララが飛び出した後の図書室は、戸惑いの空気に満ち溢れていた。

 その場に取り残されたオスカーに、一部始終を見守っていたコリンが声を掛ける。


「大丈夫ですか? 若旦那様」

「あ、ああ……私は大丈夫なんだが、クララが心配で……」


 オスカーは心からクララを心配して、声を掛けた。

 ……許可なく触れてしまったのは、良くなかったかもしれないが。


「彼女はいつも、気を配って立ち回ってくれている。少しでも負担を和らげてあげたいのだが……」

「大事になさっているのですね」

「……ああ。何よりも大切な妻だ」


 オスカーが胸を張ってそう言う姿に、コリンも頷きながら微笑んでいた。


「若奥様も、遅くまで仕事熱心でいらっしゃいますからな……」

「……うん? それはどういうことだ?」


 何気なくコリンが発した言葉が、オスカーの心に引っかかった。

 オスカーには、クララにそれほど大量の仕事を振った覚えはない。


「メイドが申しておりましてな。先日の夜遅く、若奥様のお部屋に温かい紅茶を運んだところ……中からタイプライターの音が聞こえたと」

「タイプライター……!」


 思わず大きい声を出すオスカーに、コリンは困惑の表情を見せた。


(……やはり、彼女がクラヴィスなのか? もし、彼女がクラヴィスだとしたら……)


 オスカーは、独りで秘密を抱える彼女を思う。


 なぜ、マグノリア家は今まで家を維持できていたのか。

 なぜ彼女は社交界に顔を出さず、朝から晩まで働いていたのか。

 なぜーーあれほどまでに、王妃の前で強張った顔をしていたのか。


(もし彼女がクラヴィス先生なら、そのすべてに説明がつくが……)


 オスカーはあと一歩、確信できる情報が欲しかった。

 そして、新たに生まれる疑問。


(……なぜ、彼女は私に助けを求めない?)


 少なくとも、オスカーが敵ではないことは分かっているはずなのに。


(……私なら、いくらでも守ってやれるのに)


 オスカーの愛は、まだクララには届かない。



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