第2話「妻になる条件を、交渉した」
三日間、ノラは考えた。
オスカーの脅迫文は今も上着の内側にある。父の借金——正確には、横領犯として嵌められた父が負わされた賠償金——を公表されれば、父の残り少ない社会的信用は完全に消える。それは困る。
しかしジークハルトの申し出を受けるかどうかは、脅迫とは別に考える必要があった。
脅されて頷くなら、最初から断る意味がない。
三日目の朝、ノラは一人で公爵邸の門を叩いた。
────────────────────────
通された部屋は広かったが、飾り気がなかった。必要なものだけがある、という印象の部屋だった。
ジークハルトは机の前に立っていた。ノラが入ると、書類から目を上げた。
「一人で来た」
「そう言われましたので」
「座れ」
向かいの椅子に座った。ジークハルトも座った。机を挟んで向かい合う形になった。
「返事を聞こう」
「その前に、交渉があります」
ジークハルトが眉をわずかに上げた。「交渉」
「はい。妻になるかどうかの前に、一つ確かめさせてください。なぜ妾ではなく妻に変えたのか。理由次第で、返事を変えます」
少しの沈黙があった。
「……誰も、そういうことを聞かない」
「聞かないのは、あなたが怖いからだと思います」
「お前は怖くないのか」
「怖いです」とノラは言った。「ただ、怖いのと聞かないのは別のことです」
ジークハルトはしばらくノラを見た。値踏みするような目ではなかった。何か別のものを確かめるような目だった。
「断れる人間が欲しかった」と彼は言った。「俺の周りに、ノーと言える人間がいない。何を言っても頷く。何をしても従う。異を唱える者がいなくなって——十年になる」
「それは」とノラは言った。「孤独ですね」
ジークハルトが少し止まった。「そうだ」と言った。短く、しかし確かに。
ノラは少し考えてから、「わかりました」と言った。「もう一つ条件があります」
「言え」
「私の父が十二年前に失職した件を、調べてください。横領のでっち上げがあったはずです。それを確かめてくれるなら——前向きに考えます」
「前向きに、か」
「はい。お受けします、とはまだ言えません」
ジークハルトは少しの間だけ黙った。「面白い」と言った。「他の人間なら、この時点で全部飲む」
「飲まない方が、あなたの役に立ちます」
それは本心だった。脅されて、懐柔されて、頷き続けるなら——この男の周りに今いる人間と同じになる。それは意味がない。
ジークハルトは机の上で指を組んだ。「父の件は調べる。三日もあれば概要はわかる」と言った。「その間、王都にいろ。宿は用意する」
「自分で手配します」
「なぜ」
「借りを作りたくないからです。まだ返事をしていないので」
ジークハルトは何かを言いかけて、止めた。それから「好きにしろ」と言った。
立ち上がって部屋を出ようとしたとき、後ろから声がかかった。
「ベッカー」
「はい」
「お前が来た三日間——退屈しなかった」
ノラは振り返らなかった。「それはよかったです」とだけ答えて、扉を閉めた。
────────────────────────
邸の廊下を歩いていると、側近らしき男が追いかけてきた。
「ノラ様、ハインツと申します」と男は言った。人懐こい笑顔をしていたが、目は細くて鋭かった。「よろしければ馬車をご用意します」
「結構です」
「そうですか」とハインツは言ったが、並んで歩くのをやめなかった。「一つ申し上げてもよいですか」
「どうぞ」
「公爵が笑ったのは、十年ぶりでした」
ノラは歩きながら、少し考えた。「それは、私に何かしてほしいということですか」
「いいえ」とハインツは言った。「ただの事実です。ただ——あの方には、もう少し笑う機会があってもいいと、私は思っています」
門の前でハインツが立ち止まった。ノラも立ち止まって、振り返った。
「公正に判断します」とノラは言った。「媚びませんが、不当に遠ざけるつもりもありません」
ハインツは深く頭を下げた。「十分です」と言った。
────────────────────────
(第3話へつづく)




