第1話「断ったら、笑われた」
オスカーが頭を下げるとき、背中に油が染みるような音がしそうだと、ノラはいつも思っていた。
大国アルダの公爵、ジークハルト・ヴァレンシュタイン。その男が対面の椅子に座った瞬間、ベルタ王国外交団の団長であるオスカー宰相は、それはもう見事な速度で腰を折った。小国の代表として対等な交渉の席に着いているはずなのに、動作の全てが「お許しください」と言っていた。
ノラは書記官補佐として壁際に立ちながら、その背中を眺めていた。
父がこの男のせいで職を失ったのは十二年前のことだ。今日この場にノラがいるのも、オスカーが「書記の人手が足りない、お前の娘を寄越せ」と父に言ったからだ。断れば生活の補助を打ち切ると言外に匂わせながら。
つまり今日もノラは、この男の都合で動かされている。
それを表に出さずに、ノラは書類を整えていた。
────────────────────────
交渉が始まってしばらくした頃、ジークハルトがノラを見た。
正確には、壁際に並んだ書記官補佐たちの中から、ノラだけを切り取るように見た。何の前触れもなく、何の理由も告げずに。
「そこの娘」
部屋の空気が変わった。
「は、はい、どなたのことでしょうか」とオスカーが慌てて立ち上がる。
「お前ではない。壁際の、一番端の娘だ」
全員の視線がノラに集まった。ノラは書類から顔を上げた。
ジークハルトは三十二歳で、写真で見るより顔が硬かった。軍人のような体格に、感情の読めない目。整っているが、近寄りたくなる類の顔ではない。
「名前は」
「ノラ・ベッカーです」
「ベッカー。外交官だったハンス・ベッカーの娘か」
父の名前が出るとは思っていなかった。「はい」とだけ答えた。
ジークハルトは少し間を置いた。それから「妾になれ」と言った。
────────────────────────
部屋が凍りついた。
オスカーが真っ青になってノラを見た。「ノラ嬢」と目が言っていた。「受け入れなさい、国益です、あなたには断る権利がない」。他の外交官たちも同じ目をしていた。
ノラは彼らの顔を一通り見た。
それから、ジークハルトを見た。
この男が本気かどうか、一秒で読んだ。本気ではない。試している。何を試しているのかはわからないが、この場で頷く人間を求めているわけではない。
「どうぞ」とノラは言った。
「どうぞ?」
「お好きになさってください、と申し上げました。私を妾にしたいなら戦争でも何でも、ご自由に。ただ私が首を縦に振ることはありません。脅されて頷いた妾など、あなたも要らないでしょう」
ジークハルトが、初めて表情を変えた。
笑った。
それは小さな変化だったが、部屋の全員が息を飲んだ。オスカーの顔が青から白に変わった。脂汗が額に浮いているのが、離れた場所からでも見えた。「こ、これは失礼を——ノラ嬢は緊張しておりまして——」と言いかけたオスカーの声を、ジークハルトが手一つで遮った。
「お前は黙っていろ」
オスカーが椅子にへたり込んだ。
ジークハルトはノラを見たまま「名前、覚えた」と言った。「条件を変える。妾ではなく、妻になれ」
「それも断ります」
「理由を聞こう」
「理由は三日で考えます」とノラは答えた。「ただし、断る理由も含めて、です」
ジークハルトはまた少し笑った。今度は先ほどより、はっきりと。「三日後に来い。一人で」と言って、交渉の書類に目を戻した。
会議はそれで終わりだった。
────────────────────────
廊下に出た瞬間、オスカーがノラの腕を掴んだ。
「あなたは何をしたんですか」と囁いた。唇が震えていた。「公爵閣下の申し出を断るなど——」
「断っていません」とノラは言った。「三日後に返事をすると言いました」
「同じことです、あなたのせいで交渉が——」
「オスカー様」
ノラは腕を静かに引いた。オスカーが手を離す。
「父が横領をしたという証拠を、私はまだ見たことがありません。いつか見せていただけますか」
オスカーの顔が、また変わった。今度は怒りでも焦りでもない、別の何かだった。
ノラは頭を下げて、廊下を歩いた。
その夜、宿に戻ると卓上に封書が置かれていた。オスカーの印章だった。
開くと一行だけ書いてあった。
「公爵の申し出を断れ。でなければ、お前の父の借金を公表する」
ノラは封書を折り畳んで、上着の内側に仕舞った。
——三日で、考えることが増えた。
────────────────────────
(第2話へつづく)




