表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話「断ったら、笑われた」



 オスカーが頭を下げるとき、背中に油が染みるような音がしそうだと、ノラはいつも思っていた。


 大国アルダの公爵、ジークハルト・ヴァレンシュタイン。その男が対面の椅子に座った瞬間、ベルタ王国外交団の団長であるオスカー宰相は、それはもう見事な速度で腰を折った。小国の代表として対等な交渉の席に着いているはずなのに、動作の全てが「お許しください」と言っていた。


 ノラは書記官補佐として壁際に立ちながら、その背中を眺めていた。


 父がこの男のせいで職を失ったのは十二年前のことだ。今日この場にノラがいるのも、オスカーが「書記の人手が足りない、お前の娘を寄越せ」と父に言ったからだ。断れば生活の補助を打ち切ると言外に匂わせながら。


 つまり今日もノラは、この男の都合で動かされている。


 それを表に出さずに、ノラは書類を整えていた。


────────────────────────


 交渉が始まってしばらくした頃、ジークハルトがノラを見た。


 正確には、壁際に並んだ書記官補佐たちの中から、ノラだけを切り取るように見た。何の前触れもなく、何の理由も告げずに。


 「そこの娘」


 部屋の空気が変わった。


 「は、はい、どなたのことでしょうか」とオスカーが慌てて立ち上がる。


 「お前ではない。壁際の、一番端の娘だ」


 全員の視線がノラに集まった。ノラは書類から顔を上げた。


 ジークハルトは三十二歳で、写真で見るより顔が硬かった。軍人のような体格に、感情の読めない目。整っているが、近寄りたくなる類の顔ではない。


 「名前は」


 「ノラ・ベッカーです」


 「ベッカー。外交官だったハンス・ベッカーの娘か」


 父の名前が出るとは思っていなかった。「はい」とだけ答えた。


 ジークハルトは少し間を置いた。それから「妾になれ」と言った。


────────────────────────


 部屋が凍りついた。


 オスカーが真っ青になってノラを見た。「ノラ嬢」と目が言っていた。「受け入れなさい、国益です、あなたには断る権利がない」。他の外交官たちも同じ目をしていた。


 ノラは彼らの顔を一通り見た。


 それから、ジークハルトを見た。


 この男が本気かどうか、一秒で読んだ。本気ではない。試している。何を試しているのかはわからないが、この場で頷く人間を求めているわけではない。


 「どうぞ」とノラは言った。


 「どうぞ?」


 「お好きになさってください、と申し上げました。私を妾にしたいなら戦争でも何でも、ご自由に。ただ私が首を縦に振ることはありません。脅されて頷いた妾など、あなたも要らないでしょう」


 ジークハルトが、初めて表情を変えた。


 笑った。


 それは小さな変化だったが、部屋の全員が息を飲んだ。オスカーの顔が青から白に変わった。脂汗が額に浮いているのが、離れた場所からでも見えた。「こ、これは失礼を——ノラ嬢は緊張しておりまして——」と言いかけたオスカーの声を、ジークハルトが手一つで遮った。


 「お前は黙っていろ」


 オスカーが椅子にへたり込んだ。


 ジークハルトはノラを見たまま「名前、覚えた」と言った。「条件を変える。妾ではなく、妻になれ」


 「それも断ります」


 「理由を聞こう」


 「理由は三日で考えます」とノラは答えた。「ただし、断る理由も含めて、です」


 ジークハルトはまた少し笑った。今度は先ほどより、はっきりと。「三日後に来い。一人で」と言って、交渉の書類に目を戻した。


 会議はそれで終わりだった。


────────────────────────


 廊下に出た瞬間、オスカーがノラの腕を掴んだ。


 「あなたは何をしたんですか」と囁いた。唇が震えていた。「公爵閣下の申し出を断るなど——」


 「断っていません」とノラは言った。「三日後に返事をすると言いました」


 「同じことです、あなたのせいで交渉が——」


 「オスカー様」


 ノラは腕を静かに引いた。オスカーが手を離す。


 「父が横領をしたという証拠を、私はまだ見たことがありません。いつか見せていただけますか」


 オスカーの顔が、また変わった。今度は怒りでも焦りでもない、別の何かだった。


 ノラは頭を下げて、廊下を歩いた。


 その夜、宿に戻ると卓上に封書が置かれていた。オスカーの印章だった。


 開くと一行だけ書いてあった。


 「公爵の申し出を断れ。でなければ、お前の父の借金を公表する」


 ノラは封書を折り畳んで、上着の内側に仕舞った。


 ——三日で、考えることが増えた。


────────────────────────


(第2話へつづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ