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初めての名前

 薪が、はぜた。


 ヘンリクはまだそこにいた。カップを置いたまま、待っていた。急かさなかった。問い直さなかった。


 もう一拍、沈黙があった。


「……ルイーゼ、です」


 声が出た。


 七年間、人の言葉を喉で処理してきた。でも今の音は——方向が逆だった。外へ出る音だった。


 その音が——自分の喉を通って、部屋の空気に溶けた音が、少し奇妙だった。「補佐役様」でも「補佐役」でもなかった。ただ「ルイーゼ、です」という——自分の名前を、自分のものとして、誰かに向けて差し出した音だった。


 七年間で、初めてだった。


 ヘンリクは少し間を置いた。


「ルイーゼ」と彼は言った。繰り返しただけだった。確かめるように。名前として。


「よし」とヘンリクは言った。「覚えた」


 それだけだった。大げさではなかった。祝福でもなかった。「よく来た」でも「珍しい名だ」でも「どんな意味がある」でもなかった。ただ「覚えた」。


 ルイーゼはカップを両手で包んだ。温かかった。


 はじめて、自分で名乗りました——という言葉が、頭の中で静かに通り過ぎた。それ以上でも以下でもなかった。




 ヘンリクが部屋を一つ開けた。


 村の端の小屋の一室だった。ヘンリクの家の離れで、農具の倉庫として使っていたらしく、壁際に鍬が立てかけられていた。わらの上に布を敷いただけのものが寝床として置いてあった。


「狭くていい」とルイーゼは言った。


「狭い」とヘンリクは認めた。「だが屋根はある」


「十分です」


「水は井戸から汲む。朝と夕に一回ずつ。食事は私の家で食べろ。別に大した手間ではない」


「すみません」


「謝るな」とヘンリクは言った。


 そう言い残して、彼は戻っていった。




 夜、ルイーゼは藁の上で天井を見ていた。


 板張りの天井だった。節がある。古い木の匂いがした。農具の鉄の匂いもまだ残っていた。王宮の寝室は蜜蝋みつろうの匂いがした——その比較が、自然に来た。


 目を閉じた。


 七年間、夜になると数え始めた。翌日の外交文書の処理順。席次の確認事項。農業試験場への指示書の書き直し。次の宴席に向けた人脈の整理。


 今夜は。


 何も、出てこなかった。


 ルイーゼは少し驚いた。数えようとした。外交文書——でも、その先に誰もいなかった。書簡を届ける相手が、もうここにはいない。社交界の人脈——でも、その人名を整理する宴席がない。魔法陣——でも、月一回の補充はもう自分の仕事ではない。


 七年分の夜が、一度に空になった。


 頭が、静かだった。静かすぎて、少し怖かった。


 怖い、という感覚があることに気づいた。怖さを感じていた。七年間それを感じる暇がなかった。


 ルイーゼは目を開けた。


 天井の節が見えた。一つ、二つ、三つ——数えながら、眠った。


 蝋燭ろうそくが一本燃え尽きる頃には、もう目が閉じていた。




 翌朝、ヘンリクが台帳を持ってきた。


 三冊あった。分厚い、革表紙のものだった。


「村の台帳だ。住民の名前と家族構成、農地の区画、年ごとの収穫記録。三年前から整理が止まっている。読めるか」


 ルイーゼは一冊目を開いた。


 古い記法だった。王都の書記官が使う様式とは違う——独自の省略符号がいくつかあった。しかし骨格は同じだった。土地の区画番号、戸主名、作物の種類。


「読めます。この省略符号だけ教えていただければ」


「ここに座って聞け」


 ヘンリクは椅子を引いた。ルイーゼも腰かけた。


 一時間かけて、符号の意味を教わった。ヘンリクは簡潔だった。「これは空き地」「これは昨年から耕作再開」「この記号は亡くなった住民につける」——説明が短かった。余分な言葉がなかった。


 ルイーゼはすべて書き留めた。




 昼過ぎになって、名前の読めない箇所に当たった。


「これは、何と読むのですか」


 ヘンリクが横から覗き込んだ。台帳の一行——崩れた字で書かれた名前を見て、少し間を置いた。


「ああ」と彼は言った。


 笑った。


 声に出して笑った。


 ルイーゼは少し、ヘンリクを見た。七十がらみの老人が、台帳の一行を見て、おかしそうに肩を揺らしていた。


「ガルフじいだ。あの爺さんの字は誰にも読めん。三十年前からずっとそうだ」


「三十年間、読めない記録があったのですか」


「本人は読めるんだろうな」とヘンリクは言った。「誰も聞かなかった」


「……どうして聞かなかったのですか」


「聞いたら怒るから」


 ルイーゼは台帳を見た。それからヘンリクを見た。


「では、どう記録すればいいですか」


「本人に書き直してもらえ。今なら機嫌がいい。朝飯食ったばかりだから」


 それだけ言って、ヘンリクはまた外へ出ていった。


 ルイーゼは台帳を持って立ち上がった。


 ガルフという老人の家を探しに行くのは、七年間で初めて「用事ではなく、用件を聞きに行く」体験になった——かもしれない、とあとで思った。




 ガルフは畑の端で種を選り分けていた。


 七十代か、もしかしたら八十に近いかもしれなかった。腰が深く曲がっていて、座ると地面に近かった。ルイーゼが声をかけると、ゆっくり顔を上げた。


「台帳の記録の件でお伺いしました。お名前の欄を書き直していただけますか」


「書き直す?」とガルフは言った。「なんで」


「読めないので」


「読めないのはお前さんの問題だろ」


 言い返せなかった。正しかった。


「……そうですね」とルイーゼは言った。「であれば、読み方を教えていただけますか」


 ガルフは少し考えた。


「ガルフ・テッセン。テッセンは鉄銭と書く。読めるか」


「読めます」


「じゃあいい」と彼は言った。また種の選り分けに戻った。


 ルイーゼは台帳に「鉄銭テッセン」とルビを書き添えた。


 帰りながら、ヘンリクが「怒るから誰も聞かなかった」と言っていたのを思い出した。ガルフは怒らなかった。ただ最初の一言が「なんで」だっただけで、その後は普通だった。


 三十年間、誰も聞かなかっただけかもしれなかった。




 夕暮れになった。


 台帳を整理しながら、ルイーゼは窓の外を見た。


 リムノの空は広かった。王都の窓から見える空は、建物と建物の隙間だった。ここの空は、遮るものがなかった。


 薄橙うすだいだいが、地平に広がっていた。


 村のどこかで、子供の声がした。夕食を呼ぶ声だった。


 ルイーゼは台帳を閉じた。


 「ルイーゼ、です」と言った朝から、一日が経った。


 七年間で最も短い一日だった。それとも——時間の感じ方が変わっただけかもしれなかった。


 夕食のために立ち上がると、外でヘンリクの声がした。


「ルイーゼ、飯ができた」


 名前を呼ばれた。


 たった一言だった。ただそれだけの呼びかけだった。役割でも、肩書きでも、敬称でもなく、名前だけが呼ばれた——その音が、夕暮れの中で、思いのほか遠くまで届いた気がした。


 ルイーゼは扉を開けた。


 空は、まだ橙だった。



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