届いたか
冷気が、顔に当たった。
寝台の壁に近い側から、隙間風が流れ込んだのだった。夜明け前後の、一番冷える時間帯にだけ起こることだった。ルイーゼは目を開けた。外の光はまだ薄かったが、暗くはなかった。
起き上がった。炉に薪を一本足した。棚の処方記録帳を開いた。昨夜の続きを確かめた——フォルタばあさんの左肩の薬、新調合から四日目。経過記録を書く欄が空白になっている。今日、確かめに行く予定だった。
窓を少し開けた。外が白かった。雪ではなく、霜だった。屋根の端に薄く積もっていたが、道はまだ土が出ていた。
行ける、と判断した。
朝の仕事は順序どおりに進んだ。
乾燥棚の確認。薬草の在庫を帳面に付ける。昨日調合した関節薬の分量を確かめ、フォルタばあさんへの包みを整える。ロウエル家の赤子の哺乳補助薬の残りを計る。コラの息子が平熱のまま三日続いているので、今日は通常の確認で済む。
ルイーゼは一つずつこなしながら、次の作業を段取りしていた。考え事をする隙間のない順序だった。七年間、仕事をそういう積み方でこなしてきた。
集会所に寄ったのは、午前中の仕事が一通り片付いてからだった。
ヘンリクに先週依頼していた芹葉黄連の追加分が届いているはずだった。集会所の扉を開けると、コラがいた。机の前に立って、棚を整理していた。ルイーゼを見て振り向いた。
「ちょうどよかった」
コラが机の端を示した。そこに、一通の封筒が置いてあった。
「さっきヘンリクさんが持ってきた。馬車の荷の中に混じってたって」
ルイーゼは一歩近づいた。封筒の宛名を見た。
「ルイーゼへ」と書いてあった。
筆跡に見覚えがあった。
「……分かりました」
ルイーゼは封筒を受け取った。コラが何か言おうとして、やめた気配があった。ルイーゼは封筒を上着の内側に入れた。
「今日、フォルタばあさんに薬を届けに行きます。帰りに顔を出します」
「うん」
コラが頷いた。短く、それだけだった。
外に出て、道を歩きながら、ルイーゼは上着の内側の重さを意識した。
薄い封筒だった。しかし前の封書より薄い。前のは羊皮紙が二枚入っていた。今回は一枚か——あるいはそれより少ないか。重さからは判断がつかなかった。
開けるのは仕事を終えてからにしようと、フォルタばあさんの家へ向かいながら決めた。
急ぐことではなかった。届いたことは確かめた。内容は夜に読む。それでいい。
王都の執務室は、夜の九時を過ぎても明かりが落ちていなかった。
エドワードは報告書の束を机の右端に揃えた。慈恵院、外交府、農業試験場——三つの管轄先からの月次報告だった。今月分の最終確認を終えて、書記官への回覧に回す手順だった。
ペンを持ったまま、少し止まった。
先週、書記官のヴァレリが言っていた言葉が、ふと浮かんだ。書簡の形式を覚えるのに今月だけで三十時間以上かかりました、とヴァレリは言った。七年間のことが分かる気がしました、とも言った。頭を下げながら言ったので、表情は見えなかった。
農業試験場の担当者の言葉も浮かんだ。計画書の余白の注記のおかげで、冬の管理が初めてうまくいったと担当者が言っていた。余白に書かれていた文字の話を、担当者は丁寧に説明した。エドワードは当時それを聞きながら、余白のことを問わなかった。
ペンが、また動いた。
報告書三通に順番に目を通して、書記官への引継ぎ欄に指示事項を書いた。慈恵院の食料手配は来月の確認を待つ。外交府の条約更新は成立済みのため、档案棚へ。農業試験場の三列目については来春まで経過を追う。
一通り書き終えた。
エドワードは引き出しを開けた。報告書とは別の便箋を一枚出した。
慈恵院について——リルカ院長との二度目の話し合いが終了した。来月の食料手配の目処がついた。子供二十三名、全員健在。
外交府について——イリェス国との条約が成立した。書記官ヴァレリの草稿の精度が上がっている。
農業試験場について——三列目の畝の芽は順調だと担当者から報告を受けた。計画書の余白の注記のおかげで冬の管理がうまくいったと担当者が言っていた。来春の発芽状況まで見たいとのことだった。
三段落を書いた。ペンを置いた。
便箋の余白に視線が留まった。書いたものを一度だけ読み返した。それから、ペンを持ち直した。
届いたか。
その四文字を書いた。
書いてから、封蝋を溶かした。
フォルタばあさんの家の扉を叩いた。少し間があって、「ルイーゼか」と声がした。
「はい」
「入んな」
中に入った。フォルタばあさんが炉の前の椅子に座っていた。毛布を膝に掛けて、左の肩を少し上げるようにしていた。
「肩、今日はどうですか」
「昨日の朝よりはましだ。今朝も悪かったが——昼前から楽になった」
「左肩だけですか、右も」
「左だけだ。右はいつも通り」
ルイーゼは薬の包みを渡した。新調合から四日目の経過を帳面に書き留めながら、フォルタばあさんの指の動きと、椅子に座る姿勢を確かめた。左の肩を若干上げていた。庇う癖がついている。
「朝の最初に、温かい布を肩に当ててみてください。五分ほど。薬より先に、血の巡りを温めてからの方が効きやすいかもしれません」
「布を温める手間がいる」
「炉がありますから、夜のうちに石を炉の端に置いておいて、翌朝それを布で包むと、起き抜けでも使えます」
フォルタばあさんが鼻で笑った。
「手間を減らすためにまた手間をかける話だな」
「そうです」
「……やってみるか」
フォルタばあさんが薬の包みを膝の上に置いた。
「来週また来ます」
「ああ」
扉を閉めた。外が白かった。
その後、コラの息子の経過を確認した。平熱だった。三日続けて熱がないので、今日で投薬を終えることにした。「もし再発したらすぐ来てください」とコラに伝えた。
「はい」とコラが言った。「ルイーゼさん、さっきの封筒——」
「夜に読みます」
「そっか」
コラはそれ以上聞かなかった。
帰り道に、ドネルの畑の前を通った。
冬の畑は土がむき出しになっている。雪がうっすら残っている場所と、霜で固まっている場所が混在していた。ルイーゼは立ち止まって、畑の一角を見た。
あの区画は土が深い。春になれば、この一角だけ麦の丈が違う。三年前の秋にドネルと一緒に土の深さを確かめた日のことを、ルイーゼはよく覚えていた。棒を差し込んで深さを測り、その記録を報告書の分析欄に書き込んだ。筆跡は七年間変わらなかった——エドワードの手紙にそう書いてあった。
今年の秋、農業試験場の三列目の畝に芽が出た。
その芽が今どうなっているかは、分からなかった。
ルイーゼは歩き始めた。
家に戻って、残りの仕事を済ませた。
調合の修正を記録帳に書き込む。薬草の乾燥束を一本結び直す。明日の予定を余白に書く——林縁の確認、ロウエル家への薬の補充。
夕方の光が薬棚の二段目を照らした。
仕事が、今日の分は終わった。
ルイーゼは炉の前の椅子に座って、封筒を取り出した。
上着の内側で温まっていた。宛名の筆跡を確かめた。「ルイーゼへ」という五文字。前と同じ手だった。封蝋を剥がした。小さな音がした。乾いた音だった。
折り畳まれた羊皮紙が一枚あった。
広げた。
報告する。
慈恵院について。先月の報告から変わりがない。リルカ院長と今月二度目の話し合いを行い、次の半年の食料手配に目処をつけた。グレデル商会からの寄付は来月も継続の見込みだとの返書が届いた。子供は二十三名。全員健在。
外交府について。イリェス国との条約更新、先方からの返書が届いた。条約は成立した。次の交渉は来春の見込み。書記官の草稿の精度が上がってきている。書記官のヴァレリが、書簡の形式を覚えるのに今月だけで三十時間以上かかった、と言った。七年間のことが分かる気がした、とヴァレリが言った。
農業試験場について。三列目の畝の芽は、引き続き順調だと報告を受けた。担当者が「計画書の通りに進んでいる」と言った。計画書の余白に書かれた注記のおかげで、冬の管理が初めてうまくいったと担当者が言っていた。来春の発芽状況まで見たい、と担当者が話している。
ルイーゼは羊皮紙を少し下げた。
報告が続く、と思った。前の手紙も報告だった。今回も報告だった。謝罪でなく、説明でなく、報告だった。形が変わっていなかった。
それが——何かを意味すると思った。意図かどうかは分からなかった。ただ、こちらの返信が届き、また報告が来た。報告が届き、返信を書いた。報告が来た。
そういう形のものが始まっているのかもしれなかった。
羊皮紙に目を戻した。続きがあった。
届いたか。
ルイーゼは、その四文字を二度読んだ。
「届いたか」。
手が、少し止まった。息を一度、静かに吐いた。
問いだった。前回の手紙——報告と、最後の一行「名前で呼んでいいか」——に対して、ルイーゼが「構いません。ルイーゼと呼んでください。」と返信した。その返信が届いたかどうかを、一問だけ問うている。
四文字だった。
報告が三段落続いた後に、四文字だけあった。
ルイーゼは羊皮紙を膝の上に置いた。炉の薪が低く鳴った。窓の外が暗くなっていた。
七年間、この人間に仕えた。七年間、名前を呼ばれなかった。出奔して、辺境に来て、手紙が届いて、返信を書いた。その返信が届いたかどうかを——「届いたか」という四文字で問うてくる。
大仰な言葉ではなかった。詫びでも確認でもなく——そのまま四文字。
ルイーゼは羊皮紙を持ち直した。
便箋を出した。
引き出しを開けて、インク壺を引き寄せた。ペンを持った。
何を書くかは、すでに決まっていた。決まった、というより——書くことが自然に出てきた。報告があった。返信を書く。それだけのことだった。
ペンが動いた。
届きました。
こちらの状況を報告します。
フォルタばあさんの左肩の薬を、今月から新しい調合比率に変えました。柊薄荷を加え、血の巡りを補助する成分を増やしています。四日目、朝の痛みが昼前から和らぐと本人が言っています。一週間後に再確認します。
ドネルさんの畑の一角は、土の深さが他より二割ほど多い区画があります。春の種播きの際に、その一角だけ早めの時期を試してみるよう、来年ドネルさんに提案するつもりです。
コラさんの息子の熱は、三日前に平熱が続いて投薬を終了しました。今日の経過確認でも問題ありませんでした。
ルイーゼはペンを置いて、書いたものを読み直した。
フォルタばあさんの肩。ドネルの畑。コラの息子。
それだけだった。大きな出来事ではなかった。しかし今月、ルイーゼがここで動かしていた仕事の中身だった。報告する、ということはそういうことだとルイーゼは思っていた。
続きを書いた。
以上、こちらの近況です。
それで止まった。
もう一行、書き足した。
ルイーゼより。
ペンを置いた。
「ルイーゼより」という署名が、便箋の下の方に収まっていた。前回は「構いません。ルイーゼと呼んでください。」だった。今回は報告の末尾に、名前だけを書いた。
署名、というのはそういうものだとルイーゼは思った。
自分の名前が、自分の言葉の末尾にある。それだけのことだった。七年間なかったことが、今はある。
インクが乾くのを待った。
炉の薪が一度鳴った。窓の外に風が出ていた。遠くで松の葉が擦れる音がした。
乾燥した、とルイーゼは判断した。便箋を折った。封筒に入れた。蝋を溶かして封をした。固まった蝋を指で確かめた——印章は持っていなかった。それは前回も同じだった。
宛名を書いた。「エドワード殿下へ。アルヴェイン王都クラウゼル、王宮気付け。」
書いてから、封筒を机の端に置いた。明日の朝、集会所に持っていく。
記録帳を開いた。今日の分を書いた。
フォルタばあさん、四日目経過確認。朝に痛み、昼前から改善。温布を薦めた。
コラの息子、平熱継続。投薬終了。
封筒一通、受け取り。返信を書き、封をした。明日、集会所へ持参する。
ペンを置いた。記録帳を閉じた。
炉に薪を足した。
今夜はもう一仕事残っていた。明日ロウエル家に届ける哺乳補助薬の調合分を確かめる必要がある。乳鉢と杵を出して、昨日の続きの作業をした。薬草の粉の匂いが立った。冬の草の匂いは重い。夏より、空気の中を長く漂う気がした。
作業を終えて、乳鉢を棚に戻した。
部屋の中が静かになった。
机の端に、封筒があった。
宛名が上を向いていた。「エドワード殿下へ」という文字が、炉の明かりの中にあった。薄い封筒だった。便箋一枚と蝋の重さだけのもの。
ルイーゼはそれを見た。
届いたか、と問われた。届きました、と書いた。こちらの状況を報告します、と書いた。フォルタばあさんの肩と、ドネルの畑と、コラの息子のことを書いた。ルイーゼより、と書いた。
それだけのことが、また始まる。向こうから届いて、こちらから返す。そういう形のものが続いていく。
炉の薪が、低く一度鳴った。
また届けに行く、とルイーゼは思った。
封筒は机の端で、静かなままだった。




