今年の冬は、良い冬でした
封筒が、机の端にあった。
昨夜書いて、封をして置いておいたものだった。今日、集会所に届けるだけだった。ルイーゼは毛布から手を出した。空気が冷たかった。十二月の終わりの冷え方をしていた。
起き上がった。炉の熾火がまだ残っていた。薪を一本足して、机に向かった。
封筒を手に取った。宛名の文字が指の下にあった。「エドワード殿下へ」という文字が、朝の光の中にあった。
昨夜書いた。「今年の冬はどうだったか」——エドワードの手紙の末尾にあった一問への、答えを書いた。
今年の冬は、良い冬でした。
そう書いた。それが答えだった。説明しなかった。理由を書かなかった。ただ、そう書いた。
集会所に行くのは午前中の早い時間にすることにして、ルイーゼはまず朝の仕事から始めた。
乾燥棚の確認。帳面の在庫付け。フォルタばあさんの次回分の薬の包みを整える。今日は届けには行かない。明日の予定だ。
一つずつこなしながら、今年の冬のことを思っていた。
十月の末、コラが「ルイーゼさん!」と呼んだ。
息子の熱が上がったと言って、走るような速さで来た。玄関を開けたとき、コラはもう「ルイーゼさん!」と口の中で繰り返していた。
熱を確かめた。指先が、子どもの額に当たった。
「何度くらい?」とコラが聞いた。
「三十八度を少し超えています」
「大丈夫かな。上がり続ける?」
「今のところは落ち着いていると思います。薬を飲ませれば、明日には楽になるはずです」
「良かった」とコラが言った。「薬、効くよね」
「効きます」
コラが息を吐いた。少し、肩が下がった。
薬を出した。三日で下がった。
「ルイーゼさん!」という声が、空気の中に放たれた。
ルイーゼはそのたびに「はい」と答えた。
その「はい」が、空気の中に少しだけあって、消えた。
十一月には、ドネルが「ルイーゼさん」と声を掛けてきた。
畑仕事の合間だった。霜が降りる前の最後の耕しの日で、ドネルは鋤を担いだまま「来年の播種、あの一角だけ早めにやってみようと思う。良いか」と聞いた。
「良いと思います」とルイーゼは答えた。
ドネルは「そうか」と言って、畑に戻った。それだけだった。
「ルイーゼさん」と呼ばれた声が、十一月の冷たい空気の中にあった。
フォルタばあさんも、「ルイーゼか」と呼ぶ。扉を叩くたびに、そう呼ぶ。
「はい」と答えると、「入んな」と返ってくる。
部屋に入ると、フォルタばあさんはたいてい椅子に座っていた。「薬、効いてるか」と聞く。「昨日より楽です、と本人が」と答えると、「そうか」と言う。それだけで、また黙る。その黙り方が、長い付き合いのものだった。
七年間、ルイーゼはどこに行っても名前では呼ばれなかった。宴席でも執務室でも、「おい」か「そこの者」か、あるいは何も言わずに視線だけを向けられるかだった。名前が空気の中にあることを、知らなかった。
今は知っている。
「ルイーゼさん!」という声が来る。「はい」と答える。それだけのことが、今日も起きる。明日も起きる。
七年間できなかったことが、今年の冬も続いた。それが続いていくことが、この冬だった。
手の仕事が一通り片付いた頃、ルイーゼは外套を羽織って外に出た。
空が青かった。十二月の末の青さは薄く澄んでいる。雲が少しあって、道の端に霜の名残が白く残っていた。
集会所までの道は短い。村の中央を真っすぐ歩けばいい。
ルイーゼは封筒を上着の内側に入れて、歩き始めた。
集会所の扉を開けると、ヘンリクがいた。机の前に座って、村の帳面を見ていた。ルイーゼを見て、顔を上げた。
「届けものか」
「はい」
ルイーゼは封筒を取り出して、机の隅に置いた。
「次の馬車は——」
「三日後だ。年明けになるかもしれんが、預かっておく」
「ありがとうございます」
ヘンリクが封筒を引き寄せて、宛名を見た。確認するように一度頷いた。それだけで、やり取りは終わった。
帰り道に出た。
来た道を戻るだけだった。空は変わらず青かった。道の霜は少し溶けていた。朝より気温が上がっているのだとルイーゼには分かった。
歩きながら、封筒のことを考えた。今頃ヘンリクの机の端に置かれている。三日後の馬車に乗って、街道に出る。街道から王都方向へ向かう荷に混じって、いつか宮廷気付けに届く。
届いたか、とまた問われるかもしれなかった。
あるいは次の報告が先に来るかもしれなかった。
どちらでもよかった。
報告があれば、返信を書く。問いがあれば、答えを書く。それが続いていく。
道の曲がり角で、声がした。
「ルイーゼさん!」
コラだった。
向こうから走るほどではないが、速い歩きで来ていた。両手に大きな布包みを抱えていた。
「良かった、ここで会えた。息子が——また少し鼻が詰まってて、熱はないんだけど、薬って残ってたかな」
「残っています」
「ありがとう! 夕方取りに行っていい?」
「大丈夫です。夕方、家にいます」
「助かった!」
コラが包みを抱え直した。ルイーゼを見て、少しだけ顔が緩んだ。
「ルイーゼさん、集会所に行ったの?」
「手紙を届けてきました」
「そっか」
コラはそれ以上聞かなかった。「じゃあ夕方ね」と言って、反対の方向へ歩いていった。
ルイーゼは小さく「はい」と言った。
それだけのことが、今日もあった。
「ルイーゼさん!」と呼ばれた。「はい」と答えた。コラの息子の鼻が詰まっているので、夕方に薬を取りに来る。それが今日の続きだった。
七年間、こういうことがなかった。
名前を呼ばれなかった。「はい」と答える相手がいなかった。誰かの息子の鼻が詰まったことを、ルイーゼに知らせてくれる人間がいなかった。
今はある。
それが今冬も続いた。明日も続く。来年も続く。
ルイーゼは歩き続けた。
足が、軽かった。歩きながら気がついた。いつからそうだったか分からなかった。集会所を出たときにはもうそうだったかもしれないし、コラと話した後からかもしれなかった。
自分でも気づかないうちに、少し速く歩いていた。七年間、歩いていた道の重さとは違う何かが、靴底から返ってくる気がした。帰るべき場所がある、ということかもしれなかった。夕方に誰かが来る、ということかもしれなかった。
道が、先に続いている。霜の溶けた土が、靴の下でわずかに柔らかかった。空が青かった。
道の先に家が見える。家の前に乾燥棚が出ている。午後の光が薬草の束に当たっている。
今年の冬は、良い冬でした。
そう書いた。それで十分だった。理由を全部書かなくてもよかった。「ルイーゼさん!」と呼ばれるたびに「はい」と答えた、その一つひとつのことを、全部書かなくてもよかった。七年間できなかったことが今日も続いたということを、全部書かなくてもよかった。
ただ、良い冬でした、と書いた。
空が青い。家が見える。夕方にはコラが来る。
執務室に封書が届いたのは、昼を過ぎた頃だった。
エドワードは外交府の議事録を確認していた。書記官が机の端に荷物を置いた音がして、「辺境からの便が混じっておりました」と言った。それだけ言って、書記官は下がった。
宛名は自分の名前だった。筆跡に見覚えがあった。
封を切った。折り畳まれた便箋が一枚あった。
届きました。
こちらの状況を報告します。
フォルタばあさんの左肩の薬を今月から新調合に変えた。血の巡りを補助する成分を加えた。四日目、昼前から痛みが和らいだと本人が言っている、と書いてあった。ドネルの畑の一角に土の深い区画があり、来年の播種のときに早めの時期を試してみる予定だと書いてあった。コラの息子の熱は三日前から平熱が続いており、今日の経過確認でも問題がなかった、と書いてあった。
三段落あった。
エドワードはそこで視線を止めた。続きを探すように、便箋の下の方まで目を動かした。
今年の冬は、良い冬でした。
最後の一行だった。
その行で、目が止まった。議事録の方へ戻らなかった。便箋の下の部分を、少しの間だけ見ていた。
一つひとつの事柄について何も書かれていなかった。理由も、説明も、補足も——ただ、良い冬でした、とあった。
エドワードは便箋を折った。封書の中に戻した。机の左の隅に置いた。
議事録に目を戻した。書記官への確認事項を余白に書いた。次の打ち合わせの日程を手帳に記した。
窓から午後の光が入っていた。机の左隅に置かれた封書に、その光が端のほうから当たっていた。




