問いが広がる
執務室の、かすかな音を拾っていた。
暖炉の薪が沈む音。廊下の向こうで書記官がめくる紙の音。夜の王都クラウゼルは、昼間より音が薄く、その分だけ一つ一つがよく届く。エドワードは机の前に座ったまま、封書を手に取った。封蝋には評議会の印が押してあった。グロス書記員の名前が差出人の欄に、小さく整った字で書かれていた。
封を開けた。羊皮紙が擦れる音がした。読んだ。もう一度、最初から読んだ。
三行目で、手が止まった。
封印塔の補修状況。陣の劣化率。評議会術者ナーリによる再刻印の進捗。グロスが追加確認のために辺境リムノ村を訪れた経緯。
三枚目の末尾に、エドワードの目が止まった。
陣設計者の身元は依然として不明。現地で情報を提供した薬師も「私には分かりません」と回答。設計者の記法は評議会標準より三段階上の密度であり、技術者台帳に該当する登録が存在しない。継続して記法分析を行うが、特定には時間を要する見込み——と、記されていた。
エドワードはペンを置いた。
報告書の文面を、もう一度読んだ。「現地で情報を提供した薬師も知らないと回答」。
——あれは、一ヶ月前のことだった。
農業試験場の担当者が報告書を持参したとき、そこに一行だけ混じっていた。辺境封印塔の調査に関する付記だった。 補助陣の維持情報につき、現地リムノ村在住の薬師女性が詳細を把握していた。陣式の全体像を説明できた由——と、一行だけ書いてあった。
その一行に、エドワードは手が止まった。
村の薬師。女性。陣式を全て把握していた。
それは偶然ではない、とエドワードは思った。偶然では、ない。評議会の標準より三段階上の密度で刻まれた陣を、地方の薬師が「全て把握していた」ことの意味は——ただ一つしかなかった。
だが。
エドワードは灯火に目を向けた。炎が、かすかに揺れた。
三枚目の報告書を手に取り直した。
「現地で情報を提供した薬師も、知らないと回答」。
知らないと、言った。
村の薬師は、陣を設計した人物の身元を「知らない」と答えた。
その言葉の意味を、エドワードはしばらく考えた。
長机の端に、この一ヶ月でたまった書類が積み上がっていた。
外交府からの書簡。農業試験場の月次報告。孤児院への寄付者リストの更新版。クレマンが仕分けて優先順位をつけたものが上に来ていた。いちばん上は外交府の書簡だった。隣国イリェスとの条約更新の件で、書記官が草稿を作ったが「確認を要する箇所が七点ある」と付箋が貼られていた。
七点。
ルイーゼがいれば、草稿を渡した翌朝には清書が机に置かれていた。
七年間、そうしてきた。
エドワードは付箋を外して、草稿の一枚目を開いた。確認が要ると書いてある七点の内容を一つずつ読んだ。三点目まで読んで——止まった。
三点目の注は「先方との慣例上、この表現では誤解が生じる可能性がある。イリェス側の書式に合わせた修正案を要する」とあった。
イリェス側の書式。
エドワードは、それを持っていなかった。どこにあるかも知らなかった。七年間、交渉の場に立ったのは自分だった。しかし書簡の形式を取り決め、先方との慣例を把握し、細部を整えていたのは——補佐役だった。
補佐役。
その呼び名が、口から出そうになって止まった。
名前が、なかった。
七年間、一度も名前で呼んだことがない人間を、今ここで何と呼べばいいのかが——分からなかった。
扉が二度、叩かれた。
「入れ」
クレマンが入ってきた。書類鞄を脇に抱えていた。
「報告書はご覧になりましたか」
「グロスのか。見た」
「追加確認をご要望でしたら、グロスを再度辺境に——」
「いや」とエドワードは言った。「まだ要らない」
クレマンが書類鞄から一枚の紙を取り出した。
「こちら、今日届いた評議会からの正式報告です。記法分析の中間結果。内容は書記員グロスの報告とほぼ同じですが、技術的な所見が追加されています」
エドワードが受け取った。
視線を走らせた。「複合式密度構成、従来の評議会標準の三倍相当」「王都封印塔との記法的共通性が高い」「この系統の刻印者は、評議会台帳に一人も登録されていない」。
最後の一行。
「この技術を持つ者が七年以上、評議会の把握外で王都の封印塔を管理していたと推測される。」
七年以上。
「クレマン」
「はい」
「この書類に出てくる薬師について、何か追加の情報はあるか」
クレマンがすこし間を置いた。
「リムノ村の薬師、ルイーゼという名で登録されているとのことです。ロダン医療組合の認定を最近取得した、と辺境の連絡先から確認が取れています。それ以上の素性については——把握できていません」
「辺境に来る前の経歴は」
「不明です。村人に聞いても、来たときからああいう人だった、と。それ以上のことを知る者がいませんでした」
エドワードは視線を机の書類に落とした。
「ロダンに確認は取ったか。医療組合の登録以前の記録を」
「確認中です。ただ、地方の組合の記録は王都には上がってきません。直接行かなければ見られないものも多い、と聞いています」
クレマンが言葉を止めた。エドワードは何も言わなかった。
「……追加で調べますか」
エドワードは少し間を置いた。
「いや。今は要らない」
ルイーゼ。
その名前が、正面から自分に返ってきた。
エドワードは机の上の書類を見た。積み上がった書類の、一番下の方に——封書が一通、挟まっていた。
先週、自分で書いた。宛名に「ルイーゼへ」と書いた。クレマンに頼んで、荷馬車の御者に託した。
七年間で、初めて書いた手紙だった。
沈黙が執務室に降りた。厚い沈黙だった。灯火の炎が揺れて、机の上の書類がすこし白く浮いた。
エドワードは評議会の報告書を机に置いた。
記法の分析は続いている。評議会は「何者か」を知りたがっている。技術者台帳に名前がない術師が、七年以上王都の封印塔を管理していた。その人物が誰かを、評議会は調べている。
辺境の薬師が、「私には分かりません」と答えた。
——知らないのか。それとも、言う言葉を持っていないのか。
エドワードは長机の縁に指を置いた。木の感触があった。七年間、この机で補佐役が書類を整えた。自分の隣で、声も出さず、名前も書かれず、ただ機能した。
名前。道具。台帳。
七年間。
机の縁に置いた指が、白くなっていた。そこに力が入っていることを、エドワードは気づかなかった。「あの人間を道具と呼んでいた」のではなく、「名前を知らなかった」のだという事実が——今初めて、自分に返ってきた。七年間知らなかった名前を、自分で封書に書くまで——知らなかった。
エドワードは評議会の報告書を手に取り直した。最後の一行をもう一度、読んだ。
「この技術を持つ者が七年以上、評議会の把握外で王都の封印塔を管理していたと推測される。」
評議会が「何者か」と問いを立てている。自分は、その答えを——知っている。
知っている、と思った。
だが、その「答え」を持っていることと、答えを口にできることは——別だった。自分が「知っている」と思っていたあの人間を、七年間「道具」と呼んでいた。名前を与えなかった。ルイーゼという名前があることを——知らなかった。
封書を手紙として書くまで、知らなかった。
その問いが、今夜、静かに広がった。
評議会のものとは別の問いが。
——あの人は、何者だったのか。
辺境リムノ村の夜は、音が少ない。
炉の薪が燃える低い声。風が小屋の隙間を抜ける細い音。それ以外は、静寂が四方から均等に押してくる。ルイーゼは机の前に座っていた。記録帳を閉じて、ペンを置いた。今日書くべきことは書き終えた。
封書が、机の端にあった。
五日が経っていた。
グロス書記員が来た日から数えると三日。手紙が届いてから数えると五日。ルイーゼは特に数えていなかったが、記録帳の日付を見れば分かった。
今夜は何かが違う、と思った。
自分でも何が違うのかすぐには言えなかった。ただ、「まだではない」という感覚が、今夜だけ形が変わっていた。
書記員グロスが来た日のことを、少し考えた。「陣を設計した人物の身元が依然として不明」と、男は言った。評議会はまだ探している。記法の分析が続いている。「この技術を持つ者がいたはずだ」という前提で、誰かを探している。
その誰かは——台帳に名前がない。
だから「分からない」のだ、と評議会は思っている。
ルイーゼはその考えを、否定しなかった。正確にはその通りだった。台帳に名前がない。自分が刻んだ陣に、刻印者欄がない。七年間書いた文書に、自分の名前がない。だから「分からない」は、嘘ではなかった。
問いの向こうに何があるかは——また別の話だった。
炉の薪が一度沈んだ。低い音が落ちた。
ルイーゼは席を立って、封書に手を伸ばした。
初めて、手に取った。
指先に羊皮紙の質が返ってきた。厚みがあった。表面が滑らかだった。五日前に初めて触れたときと変わっていなかった。それなのに、手の中での重さが違う気がした——気がする、だけかもしれなかった。ルイーゼは感覚を信じることに慎重だった。だから「気がする」は「気がする」のままにしておいた。
角を確かめた。
四つの角のうち、右上の一点を、親指の腹で軽く押した。羊皮紙の厚みがあった。中に、折り重なった紙があることが分かった。
開けなかった。
ただ、持っていた。
封蝋の部分には触れなかった。宛名の面を上に向けたまま、「ルイーゼへ」という文字を見た。七年間、自分が書き続けた文字の一つ一つとは——違う筆跡だった。
別の人間が書いた。自分に向けて、書いた。
七年間、自分が書いた文書には——自分の名前がなかった。それなのに、ここに「ルイーゼへ」と書いてある。見知らぬ筆跡で、自分の名前が書いてある。
その事実が、指先から、ゆっくりと腕に上がってくるような気がした。
それだけが、今夜分かっていることだった。
どれほど立っていたか、分からなかった。
炉の薪が一度鳴いた。ルイーゼは封書を机に戻した。
向きを変えなかった。宛名の面を上にして、置いた。
今夜は開けない。それは変わらなかった。ただ——「開ける前でいたい」という気持ちが、今夜は少し形が違っていた。五日前は「開ける前でいたかった」——今夜は、「開けてもいい夜がいつか来る」という感触があった。まだその夜ではなかった。ただ、それが存在することを、今夜初めて信じた気がした。
蝋燭が燃えていた。
炉の赤と蝋燭の白、二つの光の中で、「ルイーゼへ」と書かれた封書が、机の上にあった。
封書の角の感触が、まだ指先に残っていた。
羊皮紙の、体温に変わった重さが。




