封を開けない
朝の空気は、刃のように冷たかった。
指先に触れるものすべてが固くなっていた。水甕の縁、薬棚の取っ手、処方記録のペン。十一月の終わりに向かって、辺境の空気は毎朝すこしずつ温度を落としていた。ルイーゼは両手を擦り合わせ、薬研の柄を握った。冷えた石の感触が、手のひらの中心から肩まで伝わった。
封書は、机の上にあった。
三日が経っていた。
午前中の仕事は変わらなかった。
朝一番に薬草の乾燥具合を確かめ、処方記録を開いて昨日の続きを書いた。フォルタばあさんの関節は、配合を変えてから二日目に「夜が楽になった」と伝言が来た。ドネルの畑の種は、霜が来る前に土に入った。コラが昨夜、小屋の前を通りながら「どう?」と声をかけてきたので、「問題ありません」と返した。
コラの足音が遠くなる頃、炉に薪を足した。
封書には触れなかった。触れないというより——触れる必要が、まだなかった。机の上に置かれたまま、ルイーゼはその傍らで毎朝仕事をして、毎晩記録帳を書いた。封書があることを、忘れているわけではなかった。ただ、そこに在るということと、開けることは、別の話だった。
村の広場まで薬を届けに出ると、空に雲が張っていた。
白い雲だった。厚みがあって、光を均一に散らしていた。影がどこにも落ちていない日だった。広場の石畳の上を歩きながら、ルイーゼは自分の靴音を聞いた。硬い地面に、一定の間隔で音が落ちた。
ヘンリクが村の集会所の前に立っていた。
「薬師」
「村長」
「配達か」
「フォルタばあさんに届けます」
ヘンリクが頷いた。杖を右手に持ち直して、小石を一つ足の先で動かした。昨日より冷えたと言いたいのか、それとも別のことを言おうとしているのか、ルイーゼには分からなかった。ヘンリクは急かすことをしない。ただ、そこにいる。
「評議会から誰かが来るかもしれない」とヘンリクが言った。「ロダンの宿を通って連絡が入った。今日か明日か」
ルイーゼは足を止めた。
「……封印塔の件ですか」
「おそらくな。先月ナーリという術者が来ただろう。その後で、改めて書記員を寄越すと言っていたらしい」
「何を確かめに来るのか、分かりますか」
「陣を刻んだ人間の名前を知りたいと、書面に書いてあったそうだ」
沈黙が広場に降りた。雲越しの光が石畳の上で平たく広がり、どこにも濃淡が生まれなかった。
「……そうですか」とルイーゼはやがて言った。
「どうする」
「仕事をします」
ヘンリクがすこし目を細めた。責めでも問いでもなかった。ただ聞いた、という顔だった。
「……届けてから、小屋に戻ります。来客があれば対応します」
「そうか」
ヘンリクが頷いて、集会所の中に戻っていった。杖の音が石畳を叩いて、遠くなった。
書記員が来たのは、昼を過ぎた頃だった。
戸を叩く音がして、ルイーゼは席を立った。薬研の手を止め、扉を開けた。
立っていたのは三十代半ばの男で、評議会の紋章が入った外套を着ていた。旅の埃が肩にあったが、姿勢は整っていた。手に書類鞄を持っていた。
「リムノ村の薬師、ルイーゼさんでいらっしゃいますか」
「はい」
「評議会書記員のグロスと申します。先月、ナーリ術者が封印塔の調査に参りました件で、追加確認のために伺いました」
ルイーゼは扉を開けたまま、男を中に入れた。椅子を一脚出した。書記員は礼を言って、腰を下ろした。
ルイーゼは机の前に立った。
封書は、書記員の背中の方角にある棚の陰にあった。
「先月のナーリ術者の報告書に、あなたが陣式の情報を提供してくださったと記録されています。封印塔の陣がどのように刻まれているかを、詳しく説明してくださったと」
「はい。劣化箇所と再補充の手順について、分かる範囲でお伝えしました」
「非常に詳細な内容だったと報告がありました」
書記員が鞄から書類を取り出した。ページを開いて、走り書きの文字を確認する仕草をした。
「我々が確認したいのは——その陣式を最初に設計した術師の身元です。評議会の技術者台帳にも登録がなく、記法の分析を続けておりますが、まだ特定に至っていません。何かご存知でしょうか」
ルイーゼは答えなかった。
すこしの間、黙っていた。薬研の柄を置いてきたことを、妙に意識した。手のひらに何も握っていなかった。
黙りながら、ルイーゼは男の顔を見ていた。男は答えを待っていた。待ち方が穏やかだった。急かさない人間だと分かった。
「……私には、分かりません」
「先代の薬師や、村の古老の方など——何か記録や言い伝えのようなものはありませんか」
「封印塔は、私がこの村に来る前からここにありました。陣式については、私が見て分かることをお伝えしただけです。誰が刻んだかは——知りません」
書記員がペンを止めた。書類に何かを書き付けた。
「分かりました。ナーリ術者も、地元の住民には詳細な情報がないかもしれないと言っておりましたので」
「……他に、お尋ねのことはありますか」
「あとは技術的な確認が一点だけ。陣の補充を、最後に行ったのはいつ頃かご存知ですか」
「去年の秋頃だったと聞いています。それ以降は誰も来ていません」
書記員が頷いて、書類に日付を書き入れた。インクが羊皮紙に滲む音が、細くした。
「お時間をいただきありがとうございました。評議会として、記録の復元を続けてまいります」
「……そうですか」
書記員が帰った後、ルイーゼは扉を閉めて、しばらく同じ場所に立っていた。
沈黙が小屋の中に満ちた。薪が炉の中で小さくはぜた音が一度だけして、またしんとなった。音のなくなった空間は、綿でも詰まったように密度があった。
陣を設計した人物の身元を知りたい。
評議会はそれを探している。台帳に名前がない術師がいた。その術師が、評議会標準より三段階上の密度で陣を刻んでいた。それを評議会は「誰か」と呼んでいる。
ルイーゼは薬研に戻った。柄を握った。手のひらに冷たい石の重みが戻った。
「私には分かりません」と言った。
嘘ではなかった——「誰が刻んだか」という問いに対して、「自分だ」と答える言葉を、ルイーゼは持っていなかった。持っていないというより、持つべき場所が、まだ決まっていなかった。七年間、台帳に名前なしで記録されていた。評議会の技術者台帳にも、名前がなかった。王都にいた頃、自分の名前が書かれているものを、ルイーゼはひとつも思い出せなかった。
外交文書には「補佐役代筆」と書かれ、農業計画書には署名がなかった。孤児院への寄付依頼は王太子の名義で送った。魔法陣の刻印者欄には、何も書かれていなかった。
名前が、なかった。
だから「分からない」は、嘘ではなかった。
夕方、コラが戸を叩いた。
「評議会の人、来たんだって? ヘンリクじいさんから聞いた」
「はい。来ました」
「何の話だったの」
「……封印塔の陣式を刻んだ人間を探していると」
コラが入ってきて、炉の前の椅子に腰を下ろした。すこし背を丸めて、火を見た。
「それで?」
「私には分からないと、答えました」
「うん」
コラは追わなかった。「それで」の続きを聞かなかった。ただ、炉の前に座って、火を見ていた。コラはいつもそうだった。待つのでも急かすのでもなく、ただそこにいた。
「評議会って、名前を探すんだね」
「……探すのが仕事なのだと思います」
「名前があるから記録できるんだって感じ?」
「そうかもしれません」
コラが膝の上で手を組んだ。火の音が低く続いた。
「薬師さんって、ここではルイーゼさんだけどさ」
「はい」
「前はどこかでちがう呼ばれ方してたりした?」
ルイーゼは少し間を置いた。
「……名前では、呼ばれていませんでした」
コラが顔を上げた。ルイーゼの顔を見た。何かを言おうとして、やめた。やがて、「そっか」とだけ言った。
その一言が、ルイーゼの中のどこかで静かに降りた。驚かなかった。ただ、正確に届いた気がした。コラはそれ以上聞かなかった。
炉の火が、すこし揺れた。
コラが帰ってから、ルイーゼは記録帳を開いた。
グロス書記員の来訪。確認事項。「分からない」と答えた旨。次の訪問があるかどうかは未定。
ペンを動かしながら、手が止まった。
机の上に、封書があった。
三日前から同じ場所にある。「ルイーゼへ」と書かれた宛名が、斜め向こうにあった。
外から来た者は、陣を刻んだ「何者か」を問うた。台帳に名前がない術師を探している。その人間が誰かを、評議会は知りたい。
封書は、「ルイーゼへ」と書いてある。
「何者か」という問いと、「ルイーゼへ」という呼びかけは、同じ方向を向いていなかった。評議会が探しているのは記録の上の名前で、封書に書かれているのは——自分が名乗った名前だった。
ルイーゼは記録帳にペンを戻した。「翌日の往診予定」を書いた。「フォルタばあさんの経過を確認」「ドネルの畑の霜対策について相談」。書くべきことが、順に出てきた。手が動いた。
書き終えてから、ペンを置いた。
封書はまだそこにあった。
開けなかった。
開けない理由を、もう言葉にしようとは思わなかった。三日前はまだ言葉にしかけていた。今は——ただ、まだではない気がした。「まだ」が何日続くかも、考えていなかった。
何かが、すこしずつ動いている感触があった。評議会が名前を探している。封書に名前が書いてある。外側から問われることと、内側で待っていることが、同じ一点へ向かっていくような——ただ、まだその一点に着いていない。
夜が深くなって、炉の薪がひとつ、音もなく崩れた。
灰の中に埋もれながら、赤い芯が残った。
ルイーゼはしばらくその光を見ていた。火箸を取って、崩れた薪をすこし寄せた。空気が通った。赤い芯が、息を吹き返したように明るくなった。
封書は机の上にある。明日も、そこにあるだろう。
——いつになるかは、まだ分からなかった。ただ、それでもいいと、今夜は思えた。
ルイーゼは火箸を元の場所に置いた。
火箸の金属が、炉の明かりをすこし受けて、光った。




