最初の手紙
朝一番の薬草採取から戻ると、小屋の戸口に封書が一通、立てかけてあった。
指で触れた。羊皮紙の質が、村で流通するものとは違った。厚く、表面が滑らかだった。重さがあった。手のひらに乗せると、その重さが指先の骨まで届くような感触だった。
宛名を見た。
「ルイーゼへ」。
ルイーゼは籠を土間に下ろして、封書を机の上に置いた。
水を一杯飲んだ。薬研を定位置に動かした。それから、また封書を見た。羊皮紙の縁が、朝の光の中に白く光っていた。
差出人の欄は、なかった。ただ、封蝋の紋様に覚えがあった。王家の紋章ではなかった。王太子の執務室で使われていた、補佐役向けの私的な封蝋と同じ形だった。
七年間、その封蝋を使う側だった。
開けなかった。
午前中はいつもどおりの仕事があった。
ドネルの畑に薬草の種を届ける約束が、先週からあった。村の外れに住む老婆の関節の薬を調合して、週に一度持参することになっていた。コラの子供の熱は三日前に引いていたが、念のため状態を確認しておこうと思っていた。
机の上に封書を置いたまま、小屋を出た。
村の道は乾いていた。秋の終わりに近かった。木の葉が一枚、道の真ん中に落ちていた。ルイーゼはそれを踏まないように、少し横に足をずらして歩いた。
ドネルの畑に着くと、ドネルは畝の間で腰をかがめて作業していた。
「薬師さん、来てくれたか」
「はい。種を持ってきました」
「助かる。これはどの畝に入れる?」
「北側の、日当たりが弱い列に。冬越しが出来る品種なので、日陰でも大丈夫です」
ドネルが頷いて、ルイーゼから種の包みを受け取った。大きな手だった。畑仕事で固くなった指が、包みをしっかり握った。
「……今日は顔が違うな」とドネルが言った。
「そうですか」
「何かあったか」
「いいえ」
ドネルは深く聞かなかった。種の包みを見て、どの列に入れるかを考え始めた。ルイーゼはその横で、北側の畝の土を指で確かめた。湿り気があった。種を入れるにはいい状態だった。
老婆のもとへの道は、村の外れを曲がって森の手前まで入る。
道が細くなるあたりで、コラと行き合った。
「薬師さん、どこ行くの」
「フォルタばあさんのところへ」
「あたしも今から別の用で村の外れまで行くところ」
二人で並んで歩いた。コラの足音は軽かった。ルイーゼより半歩先を歩きながら、砂利の上を踏む音が細かく続いた。
「なんか、考えてる顔してる」とコラが言った。
「……そうですか」
「昨日も考えてる顔してたけど、今日はもっと」
ルイーゼは少し間を置いた。
「手紙が来ました。朝、小屋の戸口に」
「誰から?」
「……差出人の名前は書いていませんでした」
コラが横を向いた。ルイーゼの顔を見た。
「それ、怖くない?」
「怖くは、ありません。誰からか、大体分かります」
「じゃあ、なんで開けないの」
ルイーゼは答えなかった。
コラは二呼吸ほど待ってから、前を向いた。
「まあ、開けたくなったら開ければいいんじゃないかな」
「……そうですね」
フォルタばあさんは、森の手前の小さな家に一人で暮らしていた。
戸を叩くと、「入りなさい」と声が返ってきた。声に力があった。体は弱っていても、返事だけは村で一番早かった。
ルイーゼが入ると、ばあさんは椅子に座って羊毛を手でほぐしていた。窓から光が入って、羊毛の白さが際立っていた。
「来てくれたね」
「関節の具合はどうですか」
「今朝は少し楽だった。昨日の夜が良くなかったね。冷えると締まる」
「今日、少し配合を変えました。摩擦熱を長く保てるものを入れてあります。試してみてください」
薬の小瓶を渡した。ばあさんが受け取って、蓋の具合を確かめた。爪で押して、固すぎないか確かめる仕草だった。開けやすいかどうかを試していた。
「……薬師さん」とばあさんが言った。
「はい」
「今日はずっと、空のどこかを見てる目をしてるよ」
ルイーゼは少し驚いた。
「……そうですか」
「考え事?」
「少し」
「遠くのことかい」
ばあさんが羊毛に視線を戻した。ほぐす手が、ゆっくり動いた。問いを重ねてくる気配はなかった。ただ、ルイーゼが答えたければ聞くという間があった。
「……遠いのかどうか、分からないんです」とルイーゼはやがて言った。
「遠くから来たものかい」
「はい」
「じゃあ遠いね」
ばあさんがそう言って、また羊毛に集中した。それ以上でもそれ以下でもなかった。
村に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
ヘンリクが広場の端で、若い村人の男と話をしていた。ルイーゼの姿を見て、男のほうが会釈して立ち去った。ヘンリクが杖をついて近づいてきた。
「薬師」
「村長」
「今朝、王都方面からの荷馬車が村を通った。御者に頼んで届けさせたものがある。お前の小屋に」
「……見ました。朝、戻ったときに」
ヘンリクが少し間を置いた。
「開けたか」
「まだです」
ヘンリクは何も言わなかった。杖の先を地面に押しつけた。小石を一つ、少しだけ動かした。
「……誰からか、分かっているか」
「大体は」
「そうか」
ヘンリクがゆっくりと広場の方へ歩き始めた。ルイーゼはその横に並んだ。
「急ぐことはない」とヘンリクが言った。「届いたものは届いた。それだけのことだ」
「……はい」
「ただ」
ヘンリクが足を止めた。
「届けた相手が、封を開ける前と開けた後とで、顔が変わることがある。それが何を意味するかは——お前が決めることだが」
ルイーゼは一拍、立っていた。
「……はい」
ヘンリクが再び歩き始めた。杖の音が、乾いた広場の石畳に落ちた。規則的だった。
小屋に戻ると、机の上に封書があった。
朝と同じ場所に、朝と同じ向きで置いてあった。
ルイーゼは椅子を引いて、机の前に座った。封書を手に取らなかった。ただ、見た。
「ルイーゼへ」。
——七年間、宛名を書く側だった。外交文書の草稿。孤児院への寄付依頼書。農業試験場への指示書。どれも自分が書いて、王太子の署名が入った。自分の名前は、どこにもなかった。——
封書の角に、指を一度だけ当てた。
羊皮紙の厚さが、指先に残った。
開けなかった。
夕方になって、炉に火を入れた。
薬草の仕分けが残っていた。朝の採取分をまだ処理していなかった。乾燥させるものと、生のまま使うものを分けて、棚に並べた。作業をしながら、手が動いた。指が薬草を触れるたびに、それぞれの感触があった。葉が違えば表面が違う。根の部分と茎の部分では固さが違う。ルイーゼは感触で品種を確かめながら、棚を整えた。
封書は机の上にあった。
夜になって、記録帳を開いた。
今日のドネルの畑のこと。フォルタばあさんの関節の状態。コラの子供の経過が良好であること。書くべき事項を順に書いた。ペンを持つ手が、いつもどおりに動いた。
書き終えて、ペンを置いた。
封書がある。
開けない理由を、言葉にしようとして、止まった。言葉にすると違う気がした。「まだ開けたくないから」が最も近かったが、それも正確ではなかった。開けたくないのではなかった——開ける前でいたかった、のかもしれなかった。
開ける前と開けた後とで、顔が変わる。ヘンリクがそう言った。
今、自分の顔がどんな顔をしているかは分からなかった。
ルイーゼは封書を手に取った。向きを変えた。宛名の面を上にして、また机に置いた。
「ルイーゼへ」。
その文字を、もう一度見た。
七年間。一度も、その人間に名前で呼ばれなかった。外交文書に、補佐役として機能した年数だけが残っていた。台帳に、名前なしで記録が残っていた。陣に、魔力だけが残っていた。
今、自分の名前が封書の宛名に書いてあった。
それがどういうことなのかを、今夜すぐに判断する必要はなかった。
——そう思った。
炉の火が、落ちてきた頃、コラが小さな包みを持って来た。
戸を叩く音がして、ルイーゼは席を立った。
「どうぞ」
「今日、フォルタばあさんのとこ行ったでしょ。帰りに会ったからばあさんに聞いたら、薬師さんが来てくれたって言ってたよ」
「はい。薬を渡してきました」
「それより、手紙、どうなった?」
コラが少し目を細めた。探ってはいなかった。ただ気にかけていた。
「……まだ開けていません」
「そっか」
「明日か、明後日か——少し待ってから開けようと思っています」
「うん、それでいいと思う」とコラが言った。「急がなくていいやつってあるじゃん、世の中に」
ルイーゼは少し考えた。
「……そうですね」
「はい、これ。豆の煮込みが余ったから」
小さな包みを受け取った。まだ温かかった。布の上から伝わってくる熱さが、手のひらに均一に広がった。
「ありがとうございます」
「ばあさんも、今日は薬師さんの顔がいつもと違ったって言ってたよ。でも「良い顔だった」とも言ってた」
「……そうですか」
「じゃあ、またね」
コラが帰った。足音が遠くなった。
豆の煮込みを食べた。
温かかった。コラの家の煮込みは、いつも塩が少し強かった。それがルイーゼには好ましかった。味がはっきりしていた。
食べ終えてから、椅子に戻った。
封書は机の上にあった。
今夜は開けない。
それだけが決まっていた。
ルイーゼは封書の隣に、今日書いた記録帳を重ねた。記録帳の表紙の角が、封書の端にぴたりと揃った。偶然だった。ただ揃った。
炉の薪が一度だけ爆ぜた。
明日か、明後日か——まだ決めていなかった。
「ルイーゼへ」と書かれた封書が、机の上にあった。




