王都の芽
農業試験場に、芽が出た。
それを報告しに来たのは、試験場の老管理人だった。「殿下、出ました」と言っただけで、それ以上は続けなかった。目が、少し赤かった。
エドワードは報告書から顔を上げた。
「いつです」
「今朝です。三列目の畝から」
試験場は王都の南端にあった。
馬車で半刻の距離で、エドワードが足を運んだのは今日が三度目だった。最初に来たのは、ソーニャが「引き継げていない業務リスト」を読み上げた翌日のことだった。農業計画の担い手がいない、と言われて、自分の目で確かめなければ話にならないと思った。
試験場は、廃れていたわけではなかった。建物は残っていた。人もいた。ただ、計画がなかった。どの品種を、どの条件で、どの区画に——そういう判断を誰かが毎年していたはずだった。去年の試験場は、補佐役がいなくなった後も惰性で動いていた。今年の種まきは、管理人たちが去年の記録を引き写して、ひとまず始めていた。
「記録を引き写した、ということは」とエドワードが聞いた時、管理人の老人は一拍置いてから言った。「補佐役さまの字を、なぞっただけでございます」
芽の列を見た。
細い、緑の線だった。土から出て間もない葉は、まだ折りたたまれているような形をしていた。三列目の畝は、五十株ほど。それが一列に並んで、地面から出ていた。
クレマンが後ろで控えていた。何も言わなかった。
エドワードは、芽を踏まないように気をつけながら、畝の端まで歩いた。
「補佐役は、ここに、どれくらいの頻度で来ていたのか」
「毎月でございます、殿下。春は二度来ることもありました。種まきの前の計画を直接渡しに来て、芽出しの頃にもう一度来て、状態を確かめて」
「報告書は」
「毎年、三冊出ておりました。春・夏・秋に。私どもが書いたのは数字だけで——どこに問題があるかの分析は、補佐役さまが書いてくださいました」
エドワードは芽を見ていた。
三冊の報告書の分析欄を書いていた。毎年春と夏と秋に。七年間。
王宮に戻ると、ヴァレリが待っていた。
二十八の女で、外交府書記官出身だった。外交文書の書式には詳しかったが、補佐役が何年もかけて隣国の外交官と積み上げてきた文脈は、書式の中には入っていなかった。
「殿下、今日届いた返書です」
書状が三通あった。二通は形式的な返礼だった。一通は内容があった。
「……ヘールマン侯爵から」とエドワードは読みながら言った。「三年前の通商条約の更新期限が来月だと書いてある」
「はい。今の外交府では、更新の手順書が見当たらないと言っています」
「手順書がない」
「補佐役さまが頭で覚えておられたのか、あるいは——どこかに記録があるとしたら、補佐役さまだけが場所を知っているか」
ヴァレリは感情を乗せずに言った。責める口調ではなかった。ただ事実を並べる言い方だった。その事実の並びが、重かった。
「ヘールマン侯爵の前任の担当者は、誰だ」
「クルツ前書記官です。三年前に引退されました」
「連絡を取れるか」
「……取れるかどうか、確認します」とヴァレリが言って、手帳を開いた。
夕方、ソーニャが部屋に来た。
二十四の女で、四人の中で一番字が細かかった。帳面の中身を見て分かった——一冊のページを人の三倍使えるような書き方をする。
「魔法陣評議会から連絡がありました」
「何だ」
「辺境の封印塔を確認した術者から、報告が上がっているそうです。塔の陣式が評議会標準より高密度で刻まれており、刻んだのは王都から来た術者とのことで——ただ、その術者が誰なのかが分からないと」
エドワードは手を止めた。
「評議会の技術者台帳に、記録がないそうです。辺境補助陣の維持担当者として登録されている名前が、どこにも」
沈黙が、室内に張った。
クレマンが窓際に立っていた。壁の蝋燭が一本、炎を揺らした。
「……評議会は、何と言っている」
「担当者の特定を続けたいと。術師の記法から推測できるかもしれないが、時間がかかると」
「そうか」
「それから——」とソーニャが続けた。「辺境の封印塔を確認した術者から、もう一点報告があります。現地で、陣の情報を提供してくれた人物がいたと。村の薬師の女性で、陣式を全て把握していたと」
エドワードの手が、もう一度止まった。
今度は長く止まった。
ソーニャが出ていってから、クレマンだけが残った。
二人になると、クレマンは口を開かなかった。それがクレマンの仕事の仕方だった——言うべき時に言い、聞く時に待つ。七年前からそうだった。
「農業試験場に芽が出た」とエドワードが言った。
「存じております。報告を受けました」
「補佐役は、試験場に毎月来ていた」
「……はい」
「七年間」
「はい」
机の上に書状が三通あった。ヘールマン侯爵の書状の封蝋が、灯りに光っていた。来月が更新期限。手順書はない。
「ヴァレリに、クルツ前書記官への連絡を急ぐよう伝えろ」
「承知しました」
クレマンが一礼して、部屋を出た。足音が廊下に遠くなった。
一人になった。
蝋燭が二本。机の上が、書状と帳面で半分ほど埋まっていた。窓の外は夕暮れで、王都の屋根が橙に染まっていた。
農業試験場の、三列目の畝。細い芽が五十株、土から出ていた。
あの芽は、補佐役が七年前に書いた計画書の写しから出ていた。惰性で引き写された計画の通りに、土が応えたのだった。去年書いた者はもういない。今年の計画書は存在しない。にもかかわらず、芽は出た。
窓の外では、王都の屋根が夕暮れに橙に染まっていた。エドワードはそこから目を離して、机の上の書状に視線を落とした。ヘールマン侯爵の封蝋が、灯りを受けていた。
七年間積まれた仕事は、その人間が消えた後も一年は形を保つ。土の中に、計画書の写しが——エドワードが何もしていない間も——根付いていた。
辺境の封印塔に、村の薬師が陣式を全て把握していた女性がいた。
エドワードは机の端に手をついた。指先が冷たかった。
翌朝、レオンが社交人脈の調査結果を持ってきた。
三十二の男で、商家出身だった。人の顔と名前を繋げる仕事が向いていると自分で言っていた。
「殿下、まずご報告を。ヘーゼル夫人への連絡が取れました」
「早い」
「フェルナン伯爵から紹介状をいただきまして——ただ、夫人からの返書に、少し込み入ったことが書いてありまして」
「言え」
「……ヘーゼル夫人は、外交府の前長官の遺族です。補佐役とは外交府の仕事を通じて十年以上の付き合いがあったと。夫人いわく、「補佐役さまの近況を教えていただけますか。今どちらにいらっしゃるのか、存じたく」と」
レオンが手紙を差し出した。読まなかった。
「どう返すか、少しお時間をいただけますか」
エドワードは顎を引いた。「一時待つ」
一時後、返書の文面をヴァレリと組んだ。
「補佐役は現在、職を辞し所在不明でございます」という一文を、エドワードは二度書き直した。「職を辞し」という言葉が、正確でなかった。辞したのではなかった。告げた側は「不要だ」と言った。告げられた側は何も言わず去った——それが事実だった。
結局、ヴァレリが書いた「補佐役は王都を離れ、現在連絡が取れない状況でございます」という文面で送ることにした。
「これで問題ないか」とエドワードが聞くと、ヴァレリが少しの間を置いてから言った。
「……正確ではないかもしれません。ですが、今は最も誠実な書き方だと思います」
エドワードは何も言わなかった。ヴァレリが書状を封じた。
三日後、孤児院に顔を出した。
リルカ院長が麦粥の鍋をかき混ぜていた。子供が二人、足にまとわりついていた。エドワードが顔を出すと、リルカが顔を上げた。
「殿下、今日は急に」
「報告を聞こうと思って来ました。今月の資金は足りましたか」
「はい。おかげさまで。グレデルさまからも、今週届きました」
「子供は変わりないか」
「全員元気です。昨日はピードが新しい歯が生えたと言い張って大騒ぎで——」
リルカが笑いながら子供の頭を撫でた。
子供が二人、エドワードを見上げた。七つか八つか、それくらいの年だった。一人がそっと袖を引いた。
「ルイーゼさんは」と子供が言った。「また来ますか」
エドワードは答えに詰まった。何か言おうとして、言葉が見つからなかった。喉の奥で、いくつかの言葉が形になりかけて、消えた。
「ルイーゼさん、薬を作ってくれる人でしょう。来年また来るって、言ってました」
リルカが子供の名前を呼んで、手招きした。子供は行きながら、まだエドワードを見ていた。
孤児院を出ると、夕方の空気が肺に入った。
冷えた石畳の上を、クレマンと並んで歩いた。
「来年また来ると言っていた」とエドワードは言った。
「……孤児院には、一度だけ足を運ばれたことがあるそうです、補佐役は。子供たちとも話をされていたと聞いています」
「知らなかった」
「はい」とクレマンが言った。
夕暮れの王都を、二人で歩いた。商業区の屋根の向こうに、陽が落ちかけていた。照明魔法が、少しずつ戻り始めていた区画でもまだ、灯りが安定していない場所があった。
「評議会は、辺境の術者台帳の調査を続けるのか」
「続けると言っています。時間がかかるとも」
「そうか」
何かを決断するには、まだ材料が足りなかった。いや——材料は足りているかもしれなかった。ただ、何を言えばいいのかが分からなかった。七年間名前も呼ばなかった人間が、今更どんな言葉を持てるのか。
クレマンが何も言わなかった。石畳の音だけが、二人の間に続いた。
その夜、辺境では薬研の音がしていた。
ルイーゼは炉の前に座って、処方記録を読み返していた。コラの傷の経過確認から三日が経った。明日の往診の前に、念のため処方を見直しておこうと思っていた。
「三日目。発赤なし。経過良好」と書かれた行の上で、ペンが一度止まった。念のため、もう一度目を通した。問題はなかった。
王都のことは届いていなかった。届けようとする者も、今は来なかった。
炉の火が、低く燃えていた。




