魔法陣修復
封印塔の石段は、朝露で濡れていた。
草が段の端から割り込んでいて、足を滑らせないように気をつけながら登った。薬草の籠を背に負っていたので、重心がいつもより後ろにかかった。塔の入り口まで二十段。ルイーゼはその数を足で確かめながら、上がった。
立ち会いの約束は昼前だった。それまでに周囲の薬草を一回り見ておこうと思っていた。塔の北側の岩陰にしか生えない苦草が今頃ちょうど良い頃合いのはずで、それを確かめたかった。
封印塔は村から歩いて半刻ほどの、丘の上にあった。
石造りの四角い塔で、高さは人の背丈の七倍くらいだった。古い造りで、苔が外壁に貼り付いていた。リムノの住人のほとんどは塔の存在を知っていたが、中に入ることはなかった。入り口の石戸は重く、普段は閉まっていた。
ルイーゼが初めてこの塔に近づいたのは、リムノに来てから二週間ほどが経った頃のことだった。——あれは、秋の初めのことだった。村から見えた塔の影が気になって、一人で歩いてきた。外壁に触れた瞬間、指先に微かな振動を感じた。陣が生きている感触だった。そのとき、薬草の籠を片手に持ったまま、しばらく動けなかったことを覚えている。——
今は指先に石の冷たさが戻ってくる。同じ石の、同じ温度だった。
苦草は岩陰で育っていた。艶のある葉が、霧の水分を含んでいた。指でつまんで確かめると、まだ固さがあった。摘むなら明後日か、三日後だろうと判断して、籠に一本だけ採取した。標本にしておこうと思った。
空はよく晴れていた。丘の上から村が見えた。炊事の煙が細く立ち上っていた。この高さから見ると、村がどれほど小さいかが分かった。同時に、それがどれほど密に繋がっているかも、見えた。
評議会の術者が来ると聞いたとき、ルイーゼはヘンリクからどんな人物が来るのかを確かめなかった。聞いても分からないことの方が多いだろうと思った。来て、会えば分かる。
昼前に、丘の下から声が上がった。
ルイーゼは塔の北側から回って、入り口の石段の前に立った。二人の人物が坂を上ってくるのが見えた。一人は村長ヘンリクで、杖をつきながら歩いていた。もう一人は、見知らぬ人物だった。
背の低い、四十過ぎに見える女性だった。頭に深い色の布を巻いていた。荷物を一つ背負っていて、それが重そうだった。布の端が風に揺れた。評議会の術者は、ルイーゼが想像していたより、ずっと地味な外見をしていた。
ヘンリクが顔を上げた。
「来ておったか」
「先に上がっていました」
「ナーリ術者だ。評議会から来た」
ナーリと呼ばれた女性が、ルイーゼを見た。目が鋭かった。値踏みしているわけではなかった。確かめている目だった。
「村の薬師の方ですか」
「はい。ルイーゼです」
ナーリが頷いた。会釈もなく、すぐに塔の入り口に視線を移した。
「入ってもよいか」
石戸を開けると、冷えた空気が出てきた。
内部は暗く、天井から光を取り込む穴が一つだけ開いていた。床の中央に魔法陣が刻まれていた。半径で人の腕一本分ほどの、複雑な紋様だった。
ナーリが荷物を下ろして、膝をついた。陣の端に指を置いた。指先が光の穴の方を向いた。しばらく、そのまま動かなかった。
ルイーゼは入り口に立って、待った。
「……劣化は二割ほど」とナーリが言った。独り言のような声だった。「ひどくない。ひどくはないが——」
言いかけて、止まった。顔を陣から上げずに、続けた。
「この陣、かなり精緻に刻んである」
「そうですか」
「評議会の標準式より、三段階は上の密度だ。通常、地方の封印塔にここまでの陣は入れない」
ルイーゼは答えなかった。
ナーリが荷物から道具を取り出した。細い棒状の石と、小瓶が幾つかあった。小瓶の中身は淡い光を帯びていた。凝縮した魔力を溶かし込んだものだと、ルイーゼには分かった。
「修復に入る前に聞いてよいか」
「はい」
「この陣の前任者は、誰だ」
空気が止まった、というより、その問いが室内の石の壁に吸い込まれた。ヘンリクが入り口の近くで杖を両手で握り直した。
「……私が、管理していました」
「あなたが刻んだのか」
「いいえ。刻んだのは別の人間です。私は維持を担っていました」
「王都の術者か」
「……はい」
ナーリが陣に視線を戻した。指先で紋様の一つをそっとなぞった。
「王都からこの辺境の塔まで、定期補充に来ていたと?」
「来ていたわけではありません。私が王都にいた時に補充していました。七年間」
ナーリの手が止まった。
しばらく、塔の中は静かだった。
天井の穴から光が一本だけ落ちていて、それが陣の中央に当たっていた。光の中に埃が浮いていた。ゆっくりと動いていた。
「七年間」とナーリが言った。「それで、今は」
「ここに、います」
「辺境に来た、ということか」
「はい」
ナーリがルイーゼを見た。今度は少し違う目だった。何かを計算している目ではなく、情報を受け取ってそれを処理している目だった。
「評議会の記録では、王都の封印塔四基と辺境の補助陣十七基——その維持記録が半年以上前から空白になっている。王都基点の術者が補充を担っていたが、その術者が不在になった後から劣化が始まった、とある」
「そうです」
「その術者が、あなたか」
ルイーゼは一拍、置いた。
「私が担当していた部分は、そうです」
ナーリが小瓶を手に取った。栓を抜いた。淡い光が漏れた。
「修復を始める。補充だけで済む箇所と、刻み直しが必要な箇所がある——五割が補充、残りは刻み直しだ。今日中に終わるかどうか」
「終わらない場合は」
「明日また来る。急ぐことではない——崩壊まではまだ時間がある。ただ」
ナーリが手を止めて、ルイーゼを見た。
「前任者の記法を見たい。あなたは記録を持っているか」
ルイーゼは少し考えた。
「記録は持っていません。ただ、陣式そのものなら、ある程度分かります」
「……どの程度」
「この塔の陣については、全部、把握しています」
ナーリの目が、また変わった。今度はただ確かめているのではなかった。
作業は昼過ぎから夕方まで続いた。
ナーリが刻み直す箇所を問い、ルイーゼが答えた。全部を答えたわけではなかった——刻む作業はナーリの仕事だった。ルイーゼが担えるのは、どこがどう繋がっているかを伝えることだけだった。
それだけで十分だった、とナーリが言った。
「評議会の修復班が来ると、最初の一日を「この陣は何の記法か」の解析で終わることがある。この陣式は、評議会の標準からかなり離れている。解析だけで二日かかると思っていた」
「……そうですか」
「あなたが来てくれなければ、今日中に終わらなかった」
ルイーゼは答えなかった。
蝋燭一本の光の下で、ナーリの手が陣を刻み直していた。細い棒が石の上を走る音が、低く響いた。集中した沈黙が室内に充ちていた。ルイーゼはその音を聞きながら、ただ立っていた。
夕暮れ近くに、修復が終わった。
ナーリが立ち上がって、腰を伸ばした。陣に光を当てた。紋様が均一に光を反射していた。補充した箇所と刻み直した箇所の継ぎ目が、ほとんど分からなかった。
「……よく続いていたな」とナーリが呟いた。「半年以上、補充なしで」
「陣の密度が高かったからだと思います。元々の刻みが」
「あなたが言う「前任者」の技術か」
「はい」
ナーリが荷物を片付けながら、言った。
「評議会の記録に、その術者の名前が残っていない。王都に確認したが、技術者の登録簿に一致する人物が見当たらないと言われた」
ルイーゼは黙っていた。
「名前を、聞いてよいか」
しばらく、答えなかった。
天井の穴から見える空が、橙色に変わっていた。塔の中は暗くなっていた。ナーリの顔の輪郭が、蝋燭の光の中で揺れた。
「……名前が、あったかどうか、分かりません」
ナーリが手を止めた。
「……そういうことか」
ナーリは荷物の整理に戻った。手が小瓶を一つ、布に包んだ。それ以上、何も言わなかった。塔の中は、また静かになった。
塔を出ると、外は夕暮れの中だった。
空の端が深い橙で、村の方角から炊事の煙がまた上がっていた。丘の草が風に揺れた。一度揺れて、また静まった。
ヘンリクが石段の下で待っていた。ナーリが礼を言って、丘を下り始めた。明日、別の塔の確認がある、と言っていた。
ルイーゼはヘンリクと並んで、しばらく塔を見ていた。
「終わったか」とヘンリクが言った。
「はい」
「ナーリ術者は」
「明日、また来ます。別の塔を確認するそうです」
ヘンリクが頷いた。杖を地面に突いた音が、草の中に消えた。
「……お前が答えたのか。陣のことを」
「分かる範囲で」
「それで良かったのか」
ルイーゼは少し考えた。
「……分かりません」とルイーゼは言った。「ただ、塔が崩れていくのを放置することはできませんでした」
「それはそうだ」
ヘンリクが先に歩き始めた。杖の音が規則的だった。ルイーゼはその後ろを、少し間を空けて歩いた。
丘を下りながら、考えていた。
ナーリに名前を問われたとき、「前任者」という言葉で答えた。「前任者の名前が分からない」と言った。嘘ではなかった——七年間、呼ばれたことがなかった。名前を登録した覚えもなかった。評議会の技術者台帳に載っていないのは、正しかった。
ただ、陣は残っていた。
自分が補充した魔力が、王都を去った後も半年以上、陣を保っていた。記録がなくても、名前が台帳になくても、刻んだものは消えなかった。
それが何を意味するのかを、今日うまく言葉にすることはできなかった。
村に戻ると、コラが水場で洗い物をしていた。
「薬師さん、今日は遅かったね」
「封印塔の立ち会いがありました」
「評議会の人が来たって、ヘンリク様から聞きました。大丈夫でしたか」
「問題ありませんでした」
「そうか」とコラが言った。「ならいいや。今日の夕飯、分けましょうか。パンが余っているから」
ルイーゼは少し間を置いた。
「……いただきます」
「じゃあ、あとで持っていくね」
コラが洗い物を続ける音が、水場に戻った。ルイーゼは籠を片手に、小屋への道を歩いた。
夜になって、小屋の中は静かだった。
炉に小さな火を入れた。薬研を机の端に置いて、記録帳を開いた。今日の立ち会いの内容を書こうとして、ペンを持ったまま少し止まった。
ナーリが「前任者は誰か」と問い、ルイーゼが「管理していた」と答えた。ナーリが「王都の術者か」と言い、ルイーゼが「はい」と答えた。記録に残すとしたら、その事実だけだった。
しかし書き始めると、手が少し遅くなった。
陣は今日、補修された。ナーリの技術で、刻み直された箇所があった。それはもう、ルイーゼが補充した陣ではなかった——一部は、別の手に移っていた。
移った、ということだった。
それでよかったと思った。それ以外にないとも思った。ただ、それとは別のところで、何か小さな感触があった。何と呼ぶか分からないものだった。
コラがパンを持ってきた音に気づいたのは、それから少し経ってからだった。
戸を叩く音がして、ルイーゼは席を立った。
「どうぞ」
コラがパンを二切れ、小皿に乗せて持ってきた。
「今日、大変だったんじゃないかと思って」
「いいえ。ありがとうございます」
「ナーリ術者、どんな人でしたか」
「……仕事が速い人でした」
「へえ」とコラは言った。「術者っていうから、もっと威張った人かと思っていました」
「そういう人ではありませんでした」
「よかった」
コラが帰った後、ルイーゼはパンを一口食べた。薄い塩味がした。コラの家の焼き方の癖で、端が少し固かった。
炉の火が低くなってきた頃、記録帳を閉じた。
今日書いたことは、三行だった。立ち会いの日付。修復が完了した旨。明日もナーリが別の塔を確認すること。
一行足そうと思って、やめた。
ペンを机に置いた。炉の火の音だけが、室内に残った。薪が一度だけ爆ぜた。それきり、静まった。
記録帳の表紙が、灯りに照らされていた。




