薬師の認定
薬草を砕く薬研の音が、朝の小屋に響いていた。
石の上を石が転がる、くぐもった摩擦音。乾いた薬草が粉末に変わっていく感触が、掌の根元に伝わってくる。七年間ずっとそうしてきたように、力のかけ具合を変えながら、ルイーゼは薬研を押した。
春の朝は早い。窓の外はもう明るく、リムノの村から鶏の声が聞こえてきていた。
エドワードが発ってから、三ヶ月が経った。
冬が終わり、地面が泥に戻り、やがて固まった。麦の芽が畑に出て、今は膝の高さまで来ている。季節が変わるあいだ、ルイーゼはずっと同じ仕事を続けていた。薬草を刈って、乾かして、砕いて、届ける。それだけのことを、繰り返していた。
王都の話は届いていない。届けようとする者もいなかった。
それでいいと思っていた。エドワードがどう動いているかは、ルイーゼの知るべきことではない。自分がここで何をするかだけが、今の問いだった。
薬研を止めた。粉末になった草の匂いが、小屋の中に広がった。青みがかった、少し苦い香りだった。
陶器の小瓶に移していると、戸が叩かれた。
「開いています」
引き戸が開いて、女の声が入ってきた。
「薬師さん、来ました」
コラだった。三十手前の、日焼けした顔の女だった。去年の麦刈りでルイーゼに鎌を教えてくれた人だった。今日は腕に布を巻いている。
「どうしました」
「昨日から、刺し傷が赤くなってきて。畑仕事で草を引いたときに」
ルイーゼは手を洗って、コラの腕を見た。傷口の周りが腫れていた。熱を持っている。
「座ってください」
布を丁寧にほどいた。傷は浅かったが、泥が入ったまま一日置いてしまったらしかった。
「少し沁みます」
洗浄してから、膏薬を塗った。新しい布を当てて、巻き直した。コラが小さく息を吐いた。
「ありがとうございます、薬師さん」
ルイーゼは顔を上げた。
コラが「薬師さん」と言う。それはもう、どこにも引っかかりなく、ただそう聞こえた。
最初にそう呼ばれたのは、いつのことだったか。
——あれは、エドワードが来る前の話だった。秋のことだった。老婆が熱を出して、連れてこられたのがルイーゼのところだった。その時、後ろにいた子供が「薬師のおねえさん」と言った。ルイーゼは一瞬、誰のことか分からなかった。それが自分を指していると気づくまで、少し間があった。
——薬研の重さが手に戻ってくる。今の感触に、あの子供の声が重なった。
子供はもう来春には学齢になる。あの日から半年以上が経っていた。
コラが帰ってから、次の患者が来た。老人で、膝が痛むと言った。その次は、七つくらいの男の子だった。母親に連れられて来て、腹が痛いと言ったが、問診すると食べすぎだった。
母親が帰り際に言った。「薬師さんに診てもらうと、安心します」
ルイーゼはそれに答えた。「また気になることがあれば来てください」
当たり前のやり取りだった。七年前の自分なら、こういう当たり前のことが、どうやって成立するのかを知らなかった。王都では、誰かに名前で何かを頼まれる経験がなかった。
昼前に、村長ヘンリクが来た。
杖をついた老人の足音は、近づいてくると分かる。ルイーゼは戸の前で待った。
「邪魔するぞ」
「どうぞ」
ヘンリクが入った。戸口で杖を壁に立てかけた。白髪の老人で、動きは遅いが目が鋭かった。ルイーゼが最初にリムノに着いた日から、変わらない目をしていた。
「座ってください」
「ああ」
椅子に腰を落とすと、ヘンリクが机の上を見た。薬草の束が乾かされていた。処方の記録帳が端に置いてあった。
「今日は薬師の話で来た」
「……はい」
「正式な話だ」
ヘンリクが懐から折り畳まれた紙を取り出した。机の上に広げた。インクで文字が書かれていた。ルイーゼは視線を落とした。
地域の医療組合——王都の制度ではなく、辺境の三村が共同で作っている自治の仕組みだった——から出された証書だった。
「ロダン医療組合の連名で、お前を薬師として認定することにした」
ルイーゼは文書を読んだ。「リムノ村薬師、ルイーゼ」と書いてあった。
「……去年の秋から、お前はここで薬を出してきた。今年の春には子供の熱も二件診た。処方の記録はドネルの農業帳を参考に整えてもらった——それで問題がなかったと、三村の長が話し合って決めた」
ルイーゼはしばらく、文書を見ていた。
「異議はあるか」
「……いいえ」
「では印を押す」
ヘンリクが羽根ペンと印章を取り出した。組合の判を文書の下に押した。乾いた音がした。
「これがお前の認定書だ。持っておけ」
証書を受け取った。革を漉いた紙の手触りが、指先に届いた。細かい字が三段に並んでいた。
手が、一瞬止まった。息を一度だけ、静かに吐いた。
「薬師、ルイーゼ」。
その文字を指でなぞってから、ルイーゼは机に置いた。
王都では七年間、名前がなかった。「補佐役」と呼ばれた時もあったし、何も呼ばれずに指示だけ来ることも多かった。調薬の仕事をしていたが、薬師と呼ばれたことはなかった。職名も、役割名も、全部「道具」という一言の下に吸収されていた。
ここに書いてある文字は、仕事の名前と自分の名前が、並んで書いてある。
「……ヘンリク様」
「なんだ」
「この認定は、私が出かけていった場合にも有効ですか。他の村に、必要があって向かった場合」
ヘンリクが眉を動かした。思案するときの表情だった。
「組合の証書だからな。三村の範囲内では通る。それ以外は、その都度の話になる」
「……わかりました」
「何か予定があるのか」
「……封印塔の件で、評議会の術者と立ち会いが必要になるかもしれません。近いうちに連絡が来ると思います」
ヘンリクが少しの間、黙った。密偵が来た時のことも、エドワードが来た時のことも、ヘンリクは知っている。事情を聞いていなくても、見ていた。
「そういうことか」
「はい。ただ、往復で数日の話です。長く空けるつもりはありません」
「村の仕事を先にするのは変わらないな」
「変わりません」
ヘンリクが頷いた。それで十分だという頷きだった。
ヘンリクが帰ってから、ルイーゼはしばらく小屋の中に一人でいた。
机の上に証書が置かれていた。インクの匂いがまだかすかにしていた。
王都での七年間のことが、思い出される順番があった——思い出されそうになっても、今はそれを止められるようになっていた。思い出すのは、夜になってからでいい。今は昼前で、午後には山際の集落まで薬を届けに行く予定がある。
証書を折り畳んだ。引き出しに入れた。
薬研に戻った。
午後、ドネルの畑の傍を通った。
ドネルは背が高い、四十がらみの男だった。農業試験場の記録を整えた経験があって、ルイーゼの処方記録の台帳を作るのを手伝ってくれた人物だった。
畑の端で手を振ってきた。
「薬師さん、認定書、受け取ったか」
ルイーゼは足を止めた。
「受け取りました」
「そうか。ヘンリクのじいさんが早くから言い出しておったが、組合の連中が段取りに時間をかけてな」
「……いつから、話していたのですか」
「冬の前から。去年の秋にコラの子の熱を診てから、村の連中は決まっとったよ。ただ証書を作るのに、書記が腰を上げんかっただけで」
ルイーゼは少しの間、何も言えなかった。
去年の秋。子供の熱。あの時ルイーゼは、自分がこの村に迷惑をかけていないかを考えながら処方していた。余所者が薬を出すことへの遠慮が、まだあった。
「……そうでしたか」
「お前は変なところで遠慮するな」とドネルは言った。笑ってはいなかった。怒っているわけでもなかった。ただ事実として言う口調だった。「もう村の薬師だ。冬の前からそうだった」
荷物を持ったまま、歩み出せなかった。足が一拍、地面に留まった。周りでは麦が揺れていた。
山際の集落まで、一刻ほど歩いた。
道の両側で麦が育っていた。風が通るたびに、一斉に揺れた。音が波のようだった。
ルイーゼは歩きながら考えた。
王都では七年間、何者であるかを問われたことがなかった。問われなかったということは、決まっていたということだった——「道具」だった。道具に別の名前は要らない。何ができるかより、何をするかだけが問われていた。
「薬師、ルイーゼ」という文字は、二つのことを並べている。何をするかと、誰であるか。その二つが、初めて同じ場所にある。
山際の集落には老夫婦が住んでいた。足が悪くなってから、村まで出てこられなかった。
薬を渡すと、老婆が声をかけた。
「薬師のルイーゼさん、今日もよく来てくださったねえ」
奥で老爺が顔を上げた。「足が悪くなってから、ずっと難儀をかけている。助かっておるよ」
老婆は最初からそう呼んでいた。「ルイーゼさん」と。それが違和感なく聞こえてから、どれくらいが経っただろうと、今日は数えてみようとした。数えられなかった。気づかないうちに、普通になっていた。
「次の薬は十日後です。麦の刈り入れが始まる前に届けます」
「ありがとうございます。どうか無理をしないでね」
「はい」
帰り道、ルイーゼは来た道を戻った。同じ麦畑の間を、今度は西向きに歩いた。夕暮れの光が麦穂を黄色く染めていた。
小屋に戻ると、日が傾いていた。
竈に火を入れて、夕の支度をした。薬草の束をひとつほどいて、乾きを確かめた。まだ湿りがあるものは棚に戻した。
夕食を終えてから、記録帳を開いた。
今日の処方と、患者の名前と、次の診察の予定を書いた。コラの傷の経過確認——三日後。老夫婦への次の薬草——十日後。それを書き記して、ページをめくった。
去年から今年にかけての記録が、積み重なっていた。名前と、日付と、処方と、備考。すべて、ルイーゼが一人で書いた記録だった。
王都の台帳は、別の誰かの手に渡っていた。あの台帳に何が書かれていたかは、今でも頭の中にある。でも今日、ルイーゼが書いたのはこの帳面の方だった。
帳面を閉じてから、しばらく机の上を見ていた。それから、引き出しを開けた。
折り畳まれた証書を取り出した。炉火の揺れが、紙の表を動いた。広げた。
「リムノ村薬師、ルイーゼ」。
王都では「道具」だった。道具に名前はいらない、と言われていた。名前があっても呼ばれなかった。七年間そうだった。
今日、ヘンリクがこの証書を机に広げた。コラが「薬師さん」と言った。ドネルが「お前はもう村の薬師だ」と言った。老婆が「ルイーゼさん」と呼んだ。
その一つひとつが、特別な出来事ではなかった。
そうでないことが、今日は少しだけ——ほんの少しだけ——重かった。重いというより、質量があった。いつもの一日より、少し確かな手触りがした。
証書を折り畳んで、引き出しに戻した。
炉の火が低く燃えていた。薬草の匂いが小屋に満ちていた。
外で風が通り過ぎた。春の終わりの風で、麦の穂が揺れる音がした。
ルイーゼは炉の前に座ったまま、その音を聞いていた。
薬研が、机の端に置かれていた。




