三人でも足りない
クレマンが三枚の履歴書を机の上に並べた。
朝の光が斜めに差していた。窓の外で馬車の通り過ぎる音がして、それが遠ざかってから、室内に静けさが戻った。エドワードは三枚を順番に手に取った。
「全員、面接済みか」
「はい。昨日の午後に、それぞれ個別に」
「お前の所見は」
クレマンが少しの間、答えなかった。考えているわけではなかった。言い方を選んでいる沈黙だった。
「……三名とも、有能です。ただ——」
「ただ」
「有能、という点においては、三名合わせても、補佐役さまの半分か、どうか」
エドワードは書面から目を上げなかった。
一枚目はヴァレリという男で、二十八歳だった。外交府の書記官を六年務めた経歴があった。文書の扱いに長けており、隣国の書簡形式にも習熟していると書いてあった。
二枚目はレオンという男で、三十二歳だった。商家の出で、王都の商業区の人脈が広く、折衝事に向いているとクレマンの所見に書いてあった。目鼻が利く、という評だった。
三枚目はソーニャという女で、二十四歳だった。貴族家の家政を五年管理した経験があった。記録と整理が得意で、複数の仕事を同時に管理することに慣れていると本人が言ったとある。
「三人で、何を担当させるつもりだ」
「それを、今日ご相談しようと思っておりました」
クレマンが椅子を引いて、向かいに座った。手帳を開いた。
「まず、業務のカテゴリーを整理させていただきます」
クレマンが手帳を見た。几帳面な字が、縦に並んでいた。
「外交文書——書簡の代筆・形式の管理・返書の確認。こちらはヴァレリが引き継げます。経歴から見て、問題はないかと」
「問題はないか」
「書けます。ただ——補佐役さまが書いていたものとは、少し違うかもしれません」
エドワードは何も言わなかった。
「次に、孤児院・寄付者との関係維持。こちらはレオンが向いているかと。人当たりが良く、数字の話も進められます」
「グレデルへの秋の訪問は、私が行く」
「承知しています。ただ、月次の連絡・窓口対応については、レオンに担ってもらう形が良いかと」
クレマンが続けた。
「社交人脈の管理——貴族方面の人脈記録と連絡。これもレオンが兼任できます。ただし補佐役さまの頭の中にあったものは、台帳に移す作業から始める必要があります」
「台帳は残っているのか」
「外交関係の一部は残っています。社交方面は——ほぼ、残っていません」
沈黙が、机の上の空気に重く降りた。
手帳のページが風もないのに、少し揺れた。クレマンが手で押さえた。
「薬草管理と調薬記録は」とエドワードは言った。
「ソーニャが医薬の心得があります。ただし調合の知識は基礎的なもので——処方書は」
「処方書はない」
「……はい」
季節性疫病の処方。台帳の三冊目に骨格はあったが、最終配合工程は書かれていなかった——それは半年以上前に、クレマンの報告で知っていた。知っていたが、今日また言葉にすると、改めて壁のように立った。
「魔法陣の維持記録は」
「ソーニャが記録の管理を担います。ただし陣そのものの維持は——評議会が修復を進めていますので、そちらとの連絡係という形になります」
「維持ではなく、連絡係、か」
「はい」
エドワードは三枚の履歴書を机の上に戻した。
三名の名前が、並んでいた。ヴァレリ。レオン。ソーニャ。今日初めて知った名前だった——先週、クレマンが候補を持ってくるまで、知らなかった名前だった。
「孤児院の記録」とエドワードは言った。「院長リルカとの定期連絡、寄付者三名との年間スケジュール管理——これはどこに入る」
「レオンです。ただし、補佐役さまが院長と七年間かけて築いたものを——」
「農業試験場の作付け計画は」
クレマンが少し止まった。
「農業試験場については、試験場の担当者が自分で動けるようになっています。今年の収穫期の記録はソーニャが引き取れますが——来年の種麦配給の計画書は」
「それは誰が書く」
「……まだ、手が届いていません」
窓の外で、風が一度だけ吹いた。
石畳に木の葉が一枚落ちる音がして、それきり消えた。エドワードは机の上の三枚の紙を見た。三人分の名前と経歴と所見が、整然と並んでいた。
「整理してみてくれ」とエドワードは言った。「三人に割り振れるものと、割り振れないものを、分けて」
クレマンが手帳を開いた。ペンを走らせた。少しの間、ペンだけが動く音が続いた。
結果は、こうだった。
ヴァレリに回せるもの——外交文書の書簡代筆、形式管理、隣国との文書連絡。
レオンに回せるもの——寄付者への連絡・窓口対応、社交人脈の記録整備(台帳に移す作業から始まる)、孤児院との月次連絡。
ソーニャに回せるもの——記録全般の整理・保管、農業試験場の収穫記録、魔法陣評議会との連絡代行。
そして——どこにも割り振れないもの。
「読み上げる」とクレマンが言った。
「調薬処方。薬草の季節管理と配合知識。評議会の陣修復で再現できていない箇所の記録。農業試験場の来年度計画立案。社交人脈のうち補佐役さまの頭の中にしかなかった部分——連絡先・経緯・人間関係の地図。孤児院の寄付者のうち直接面識のなかったヘーゼル夫人との関係づくり。それと——」
クレマンが一拍、置いた。
「外交府に残っている書簡記録の照合。補佐役さまが代筆された書簡の書き方の癖を、ヴァレリが掴むまでの橋渡し。来年の疫病シーズンに向けた備蓄方針の決定」
読み上げが止まった。
止まっても、まだリストが続いているような静けさだった。クレマンが手帳を机の上に置いた。
「三人で足りないな」
エドワードが言った。
静かな声だった。怒っているわけではなかった。驚いているわけでも、嘆いているわけでもなかった。ただ、数えたら出た数字のように、口から出た。
「……足りません」とクレマンが言った。「三人では、補佐役さまがされていたことの、六割か七割、というところです」
「残りの三割か四割は」
「今のところ、担い手がいません」
エドワードは机の上の手帳を見た。クレマンの整然とした文字が、二列に分かれていた。右の列——割り振れないもの——の方が、長かった。
昼前に、三人を呼んだ。
会議室に通した。長卓の一方にエドワードが座り、反対側にヴァレリ、レオン、ソーニャが並んだ。クレマンはエドワードの右後ろに立った。
ヴァレリは背が高く、礼儀正しかった。書記官の仕事が染み付いた姿勢をしていた。レオンは少し丸みのある体型で、座っても肩から力が抜けていた。商人の気配だった。ソーニャは二人より若く、黒髪を耳の下で短く切っていた。手元に手帳を一冊持っていた。
「採用する」とエドワードは言った。「三名とも、今週から来てくれ」
三人が顔を上げた。ソーニャが手帳を膝の上に押さえた。
「仕事の内容は、クレマンから説明させる。ただ——一つ言っておく」
エドワードは三人の顔を順番に見た。
「以前ここでこの仕事を担っていた者は、一人だった。あなた方三人で引き継ぐものは、その一人がしていたことの一部だ。全部ではない」
室内に、沈黙が落ちた。
ソーニャが手帳の表紙を一度だけ指先で押さえた。レオンが頭を少し傾けた。ヴァレリは視線を机の上に落としてから、またエドワードの方へ向けた。
「……どれくらいの、部分でしょうか」
ヴァレリが聞いた。控えめな声だったが、真っ直ぐな問いだった。
「六割か七割、とクレマンは言っている」
ヴァレリが頷いた。頷いてから、一度だけ隣のレオンと目を合わせた。レオンが肩を小さく動かした——驚いているわけでも、気後れしているわけでもない動きだった。事実を受け取った動きだった。
「残りの部分は、どうするのですか」とソーニャが言った。
エドワードは少しの間、答えなかった。
「今のところ、担い手がいない」
ソーニャが手帳を開いた。ペンを取り出して、何かを書いた。
「記録させてください」とソーニャは言った。「引き継げていない部分を。把握しておかないと、穴がどこにあるか分からないので」
エドワードはクレマンを見た。クレマンが頷いた。
クレマンが先ほどの二列のリストを、声に出して読み上げた。ソーニャが書いた。ヴァレリが時折、細かいことを聞いた。レオンは黙って聞いていた。黙って聞きながら、指で机を一度だけ叩いた。考えているときの癖のような動きだった。
「ヘーゼル夫人の件は」とレオンが言った。「私が挨拶に伺えますが——まずは書簡で先触れを出す方が良いですか」
「書簡を先に出す。フェルナン伯爵経由で紹介状を頼めるかもしれない——お前が直接伺う際の、先触れになる」
「それは繋ぎをつけてきます。伯爵のご屋敷へ来週——いや、今週中に」
クレマンが手帳に書き取った。
正午を過ぎた頃、会議が終わった。
三人が部屋を出た。レオンとヴァレリが廊下で何か話しながら歩いた。ソーニャは手帳を開いたまま、立ち止まって書き足していた。廊下の先で消えた。
エドワードは長卓の前に一人残った。
クレマンが向かいの椅子に書類を集めながら言った。
「……思ったより、動ける方たちです」
「そうだな」
「特にソーニャは——補佐役さまの手帳を見せた方が良いかもしれません。残っている記録だけでも、把握してもらえれば」
「台帳を整理して渡せるか」
「今週中に、できる分だけ」
エドワードは机の上を見た。三人分の履歴書が、まだ並んでいた。
夕刻になってから、エドワードは一人で執務室に戻った。
机の前に座った。引き出しを開けた。白い台帳を取り出した。机の上に置いた。今日は開くつもりではなかった。置いただけだった。
今朝、クレマンが読み上げたリストが、まだ頭の中にあった。
割り振れたもの。割り振れなかったもの。
割り振れたものは、名前がついていた。「外交文書」「連絡管理」「記録整理」——役割の名前があった。ヴァレリ、レオン、ソーニャという人間に、その名前ごと渡せた。
割り振れなかったものには、名前がついていた。「調薬処方」「人脈の地図」「計画立案」——名前はあったが、渡す先がなかった。三人に分けようとして、手が止まった。
七年間、それが一人の人間の頭の中にあった。
名前ではなく、仕事そのものが。目盛りのない小瓶の配合の分量と、薬草の産地ごとの匂いの違いと、季節の変わり目の関係が。人の名前と顔と経緯と、次に何を頼めばいいかが。陣の修正箇所と、どこを先に直せば全体が保つかが。
エドワードは台帳に手を置いた。革の表紙の温度が、指先に届いた。
一人の人間の重さが、三人の人間で六割か七割になった。残りの三割か四割には、まだ名前をつけた人間がいない。
それが——数字になった、ということだった。
夜が深くなった頃、クレマンが扉を叩いた。
「本日の分は、一通りご確認いただけましたか」
「ああ」
「明日、三名が改めて参ります。ソーニャが、引き継げていない部分のリストを今夜整理すると言っていました」
エドワードは少し間を置いた。
「……あの三人は、よく使えるだろう」
「おそらく」
「それでも」
クレマンが静かに待った。
「それでも、三人では足りない」
クレマンが何も言わなかった。
一度、唇が動きかけた。閉じた。手帳のペンが、机の上で静かに置かれた。七年間そばにいた人間の、その沈黙だった。
「来週、農業試験場に行く。その前に外交府の書類整理に着手する。ヴァレリには明日から試験場の昨年の記録を読ませてくれ」
「承知しました」
「種麦の配給計画は——今から動いても、間に合うか」
「時期から逆算すると、残り一ヶ月です。骨格だけであれば、今年中に」
「ソーニャに試験場の担当者を引き合わせてくれ。記録を見ながら、骨格を作れるか聞いてみる」
クレマンが手帳を開いて書き取った。
扉が閉まった。
室内に、静けさが戻った。蝋燭の炎が、窓の隙間からの空気に小さく揺れた。
エドワードは台帳から手を離した。
三人で六割。残りの三割には、まだ誰もいない。では今日は六割から始まる、ということだった。六割ではなく十割になるには、どれだけかかるか——それは今夜の問いではなかった。今夜は、六割が動き始めた、ということで十分だった。
台帳を手に取った。引き出しに戻した。鍵をかけた。
机の上に、三枚の履歴書だけが残った。
ヴァレリ。レオン。ソーニャ。
今日から知っている名前だった。




