孤児院から始める
書簡が三通、机の上に並んでいた。
朝の光がまだ薄い時間に、クレマンが置いていった。エドワードが着替えを終える前に、すでに準備されていた。羊皮紙の折り目が均一で、封蝋の押し方が一定だった。長年の習慣から生まれる手際だった。
エドワードは椅子に座り、一通ずつ確認した。
宛名が三通とも、昨日初めて知った名前だった。フェルナン伯爵。グレデル商会主人。ヘーゼル夫人。七年間、孤児院を支えてきた人間の名前——ルイーゼが七年間知っていて、エドワードが昨日初めて知った名前。
「ヘーゼル夫人の連絡先は、どうした」
クレマンが朝食の湯気の向こうから答えた。
「昨夜、少々手を回しました。夫人は外交府の前長官のご遺族で、現在も王都東区に邸宅がございます。書簡はそちらへ届けます」
「昨夜か」
「リルカ院長に伺えれば早かったのですが——昨日はお時間がありませんでした」
クレマンがそう言いながら、パンを皿の端に寄せた。言い訳ではなく、事実の確認だった。
「明日には着くか」
「届け人に直接走らせれば、本日の夕刻には」
「ならそうしてくれ」
エドワードは書簡を手に取った。フェルナン伯爵宛てを先に確認した。クレマンの文章は簡潔で礼を失していなかった。差出人の名前が、エドワードの名前だった。
——七年間、この名前は使われなかった。
そういう考えが、静かに通り過ぎた。
グレデル商会の事務所は商業区の通り沿いにあった。大きな建物ではなかった。間口は三間ほど、石造りの外壁に木製の看板が掛かっていた。王都の商業区に長く店を構えてきた者の、質の良い地味さだった。
エドワードが扉を押すと、店の奥で帳簿を繰っていた老人が顔を上げた。
七十に近い年齢だった。白髪を短く整え、縁なしの眼鏡をかけていた。エドワードを見た瞬間、眼鏡の奥の目が細くなった——驚きでも怯えでもない、値踏みをする目だった。
「……王太子殿下が、直々に」
「書簡を出す前に来た。先に話を聞いた方が早い」
グレデルが少し間を置いた。それから、立ち上がった。
「奥へどうぞ」
応接の小部屋は、商品見本の棚と丸卓だけの質素な場所だった。クレマンは扉の外に立った。エドワードとグレデルが向かい合って座った。
「七ヶ月になります」とグレデルは言った。「連絡が途絶えてから」
「知っている」
「あの方が来なくなった翌月から、こちらも動けませんでした。寄付を止めたかったわけではありません。ただ——窓口がなくなれば、こちらも連絡の仕様がない」
エドワードはグレデルの目を見た。老人は視線を外さなかった。
「七年間、補佐役を通じてやり取りしていたのか」
「はい。年に一度、秋に来られていました。その折に次年度の寄付額をお伝えし、毎月初めに商会の者が慈恵院へ届ける形で」
「その場で金を決めていたのか」
「金額の話はしませんでした」とグレデルが言った。少し口元が動いた。「あの方が、その年の院の事情をご存知でした。子供が増えたとか、建物が傷んだとか。一通り聞いてから『どうかお力添えを』と言われると——こちらも断れませんでした」
エドワードは机の上を見た。
「断れない、とは」
「圧力という意味ではありません」グレデルが静かに言った。「事情を聞かされた後では、額を落とすのが恥ずかしかった、ということです。あの方はそういうやり方をなさる方でした」
少しの沈黙があった。
窓から外の音が入ってきた。商業区の通りを行く人と荷馬車の音。エドワードには聞き覚えのある音だったが、今日は少し遠く聞こえた。
「今月末までに慈恵院が必要としている額は」とエドワードは言った。「銀クロンで四十枚だ」
「承知しました」
「来月以降については、今後相談したい。今は今月を先に動かしたい」
「では、本日中に商会の者を慈恵院へ」
グレデルが立ち上がった。エドワードも立った。老人が手を伸べて、エドワードの手を握った。商人の手だった。長年帳簿を繰ってきた硬さがあった。
「……来年のことを、また話しに来ていただけますか」
エドワードは一拍、置いた。
「秋になったら来る」
グレデルが眼鏡の奥で、一度だけ目を細めた。
商会を出ると、昼過ぎの光が石畳に落ちていた。
クレマンが外套を引き合わせながら、エドワードの斜め後ろに続いた。しばらく二人とも黙って歩いた。商業区の人通りの中を、抜けていった。
「グレデル商会からは出ます」とクレマンが言った。「フェルナン伯爵のお返事は明後日以降になるかと」
「ヘーゼル夫人は」
「夕刻に届け人が戻ります。夫人本人が受け取られれば、早ければ明日には」
「今月末まで、あと六日だ」
「間に合います」
クレマンが静かに言った。断言だった。根拠を言わずに言い切るのは、クレマンが確信しているときだった。エドワードは一度だけ頷いた。
フェルナン伯爵からの返書は翌日の昼前に届いた。
短い文章だった。要点だけ書かれていた。慈恵院への寄付は継続したい。今月分を含め、来週中に届ける。連絡先を改めて教えてほしい——最後の一行だった。
エドワードは返書を読んで、クレマンに渡した。
「連絡先を院長に伝えてくれ」
「すでに書いております」
クレマンが手帳を開いた。フェルナン伯爵の屋敷の連絡先が、慈恵院のリルカへの伝言と一緒に書き取られていた。昨日のうちに準備してあったものだった。
エドワードは手帳を一度見た。
ルイーゼが七年間、頭の中でやっていたことだった。クレマンは手帳でやっていた。それだけの違いだったが、その違いが七年間あったかなかったかで、慈恵院の状態は変わっていた。
ヘーゼル夫人から返書が来たのは、三日目の夕刻だった。
便箋が二枚あった。一枚目は当たり障りのない挨拶文だった。二枚目は短かった。
「——先日、補佐役さまをお訪ねしようとしたところ、お姿が見えなくなったと伺いました。いろいろとご事情があることは存じますが、慈恵院の子供たちのことは引き続き案じております。今月の分は明日届けさせます」
エドワードは便箋を手に持ったまま、少し間を置いた。
「ヘーゼル夫人は、補佐役——ルイーゼと直接知り合いだったのか」
「おそらくは」とクレマンが言った。「夫人は前外交長官のご遺族です。補佐役さまが外交文書を担当されていた時期から、お付き合いがあったかもしれません」
エドワードは便箋を机の上に置いた。
七年間の人脈の広がりが、今になって少しずつ形になって見えてきた。孤児院の寄付者だけではなかった。外交と孤児院と人脈が、一本の糸のように繋がっていた——ルイーゼの頭の中で、ずっとそうなっていた。
今月末まであと三日の夕刻、エドワードは慈恵院を再び訪ねた。
扉を叩くと、今度は子供が一人、扉を開けた。六つか七つの男の子だった。エドワードを見上げて、黙っていた。
「……院長はいるか」
男の子が振り返って、奥へ走った。すぐにリルカが出てきた。エドワードを見て、一度だけ頭を下げた。
「おいでくださいました」
「三名とも、今月中に届く見込みだ」
リルカの顔が、わずかに変わった。言葉が出る前に、顔が先に変わった。七十に近い老女の顔が、一瞬だけ柔らかくなった。
「……本当に、ございますか」
「グレデル商会からはすでに届いているはずだ」
「はい」とリルカが言った。手が、椀の縁をそっと押さえた。「昨日、商会の方が来てくださいました。七ヶ月ぶりでした」
事務室に通された。前回と同じ椅子に座った。クレマンは今日も扉の外に立っていた。
リルカが茶を持ってきた。磁器ではなく素焼きの椀だった。中身は麦茶だった。椀が少し欠けていた。長く使われてきた欠けだった。
「三名のうち、フェルナン伯爵とは直接お会いしていないのか」とエドワードは言った。
「書簡のやり取りだけでした。補佐役さまが間に入ってくださって——お顔は存じ上げません」
「来月以降は、直接連絡できるように窓口を作る。今後は院長のところに届く形にしたい」
リルカが少し驚いた顔をした。
「私のところに、直接、でございますか」
「補佐役を通じるのは、もうできない。中継ぎなしでやる必要がある」
リルカは少しの間、机の上を見た。それから顔を上げた。
「……分かりました。よろしくお願いいたします」
帰り際、玄関に子供の声が増えていた。夕食の時間が近いのだろう、廊下の奥から煮炊きの匂いが強くなっていた。昨日の食材の匂いではなく、今日の匂いだった——それだけで何かが少し違う気がした。
エドワードが扉に向かったとき、リルカが一歩ついてきた。
「殿下」
振り返った。
「……先日も申し上げましたが」とリルカが言った。「補佐役さまは、お元気ですか」
先日も同じことを聞かれた。エドワードは一拍、置いた。
「元気にしている」
「そうですか」リルカが目を伏せた。それから、また顔を上げた。「——七年間、補佐役さまがいてくださって、ここは続きました。それだけは、お伝えしたかったです」
エドワードは何も言わなかった。
言えなかった、というより——言葉を探す前に、胸のあたりが重くなった。外套の内側に台帳の感触はなかった。今日は机の引き出しに入れてきた。それでも、重さは残っていた。
路地に出ると、夕暮れが始まっていた。
空の端が薄く橙になり始めていた。石畳が夕光を受けて少し明るかった。クレマンが外套の前を閉じながら、エドワードの隣に出た。
「今月は揃います」とクレマンが言った。
「ああ」
「来月以降の段取りも、今のうちに動かしておきますか」
エドワードは少しの間、石畳を見た。
「動かしてくれ。ただ——段取りだけでなく、来年の秋は私が直接グレデルのところへ行く」
クレマンが一拍、置いた。
「……グレデル商会へ直接、ですか」
「ああ。事情を聞いた後では断れない——あの老人がそう言っていた。それがどういうことか分かった」
クレマンは何も言わなかった。手帳を開いて、何かを書き取った。書き取る音だけが、夕暮れの石畳に落ちた。
王宮への道を歩きながら、エドワードは一度だけ足を止めた。
東区の方角に、照明陣が落ちたままの区画が見えた。夕暮れの中でそこだけ暗かった。四ヶ月以上、そのままだった。魔法陣の修復には評議会が動いており、今年の冬前には一部が戻る見込みだとクレマンから報告を受けていた。ただ、今はまだ暗かった。
視線を戻して、歩き出した。
秋に、グレデルのところへ行く。フェルナン伯爵とは来月までに直接会う。ヘーゼル夫人への返書は明日書く。農業試験場の件は来週。外交府の書簡は——それから先は、まだ順番が見えていなかった。
ただ、今日動いた。昨日動いた。一つずつ順番に動いている。
——あの子がやっていたことを、今度は私がやる。
口には出なかった。出さなくても、今日は分かった気がした。言葉ではなく、グレデルの手の硬さで分かった。リルカの椀の欠けた縁で分かった。七ヶ月ぶりの煮炊きの匂いで分かった。
やっていた、というのは——こういうことだったのだ。
人の名前を覚えて、事情を聞いて、秋になったら行く、と言う。それを七年間続ける。続けると、子供二十三人の夕食の匂いが途切れずに続く。途切れると、七ヶ月の空白が生まれる。
歩調が、一拍だけ遅れた。息を一度、深く吐いた。それだけだった。
エドワードは足を止めずに歩いた。石畳の音が夕暮れの路地に響いた。
王宮に戻ったのは、街の灯りが一つずつ点き始めた頃だった。
自室に入った。外套を脱いだ。机の前に座った。引き出しを開けて、台帳を取り出した。机の上に置いた。
今夜は開かなかった。ただ、手を置いた。革の表紙が、いつもの温度だった。
フェルナン伯爵への返書を書かなければならない。ヘーゼル夫人への礼状も。来週の農業試験場の訪問の日程をクレマンと合わせる必要がある。
やることが、昨日より少し増えていた。増えた分だけ、先が少し見えていた。
蝋燭が一段細くなった頃、エドワードは台帳から手を離した。
引き出しに戻した。鍵をかけた。鍵を机の端に置いた。今夜はここまでだ、と思った。明日の分は、明日始まる。




