王都へ帰る
リムノを出てから、三日が経った。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていた。畑の色が薄くなり、道の石畳が増え、遠くの空に煙の筋が増えていった。王都クラウゼルが近い、という景色だった。
エドワードは窓の外を見ていなかった。
膝の上に、白い台帳を置いていた。革表紙に手を当てたまま、三日間そうしていた。揺れる馬車の中で、台帳は動かなかった。エドワードの手が押さえているから動かなかった。
クレマンが向かいの座席から、一度だけ視線を向けた。
「……お顔の色が、少し良くなりました」
「そうか」
「はい。出発の日は、青みがありました」
エドワードは台帳から目を上げた。クレマンは窓の外を向いていた。いつもそうだ——言いたいことを言ってから、目を逸らす。目を見て言わない分、言葉が重かった。
「……三日、何も言わなかったな」
「申し訳ありません。口を挟む場面がありませんでした」
クレマンが静かに言った。嫌味でも謙遜でもない声だった。事実だった。
三日間、エドワードは台帳を開かなかった。
リムノを出た初日の夜、宿場の部屋で一度だけ手が蝶番に触れた。革の綴じ目が指先に当たった。それだけで手を引いた。今はまだ読む必要はない——そう思ったのかどうか、自分でも分からなかった。ただ、手が止まった。
台帳の中身は、もう知っていた。辺境で読んだ。建国百五十年の封印。王妃の謀議。ルイーゼの魔力適性。月に一度、夜明け前に北の塔まで行って、誰にも言わずに帰ってきた七年間——その全部が、この白い表紙の中に入っていた。
それでも、手が止まった。
読むことと、引き受けることは、違う。
馬車が一度大きく揺れた。道が悪くなっていた。石畳の継ぎ目が増えてきた。王都が近い証拠だった。
「クレマン」
「はい」
「孤児院の件は、今どうなっている」
クレマンが少し間を置いた。この質問を待っていた、という間だった。
「出発前に確認しました。閉鎖の決定は、まだ出ていません。ただ——今月末の寄付が揃わなければ、食料の手配が止まります」
「今月末まで、何日ある」
「七日です」
エドワードは窓の外を見た。石畳の向こうに、王都の外壁が薄く見え始めていた。
六番目の役割のことは、ルイーゼから聞いていた。
孤児院の資金調達——ルイーゼが七年間管理していた寄付者との関係が、彼女の出奔と同時に機能を止めた。寄付者の名前も、連絡先も、贈り方の作法も、すべて彼女の頭の中だけにあった。
「孤児院の名前は」
「クラウゼル慈恵院です。王都東区の、大通りから一本入ったところに」
「行ったことがあるか」
「……ありません」
クレマンがまた間を置いた。この質問が意外だった、という間だった。エドワードは台帳を手のひらで押さえたまま、窓の外を見続けた。
「着いたら、すぐに行く」
「……本日ですか」
「ああ」
馬車が王都の門を抜けた。
石畳の音が変わった。厚みのある音になった。クラウゼルの石畳は、辺境の道とは種類が違う。密度の高い音が、馬車の底から上がってくる。エドワードが七年間聞いてきた音だった。
窓の外に、王都が広がっていた。
商業区の通りを行商人が通り過ぎていた。屋台で鍋の湯気が上がっていた。子供が二人、路地の向こうを走っていた。いつもの王都だった。
ただ、東区のあたりに目を向けると——照明魔法が落ちたままの区画が見えた。夕暮れに近い時刻だったが、そこだけ灰色に沈んでいた。四ヶ月前から止まっている照明陣だった。エドワードは一度だけ見て、目を戻した。
馬車が王宮の搬入路に入る前に、エドワードが止めた。
「クラウゼル慈恵院の前で降ろしてくれ」
御者が短く返事をした。馬車が方向を変えた。クレマンは何も言わなかった。言わないで、外套を整えた。準備をしている音だった。
エドワードは台帳を手に持ち直した。外套の内側に収めた。革表紙の厚みと重さが、肋骨の近くに当たった。四日間、膝の上に置いていた重さが、今度は胸のところに来た。
——大切にする。
自分が言った言葉が、静かに戻ってきた。戻ってきて、そのまま留まった。
慈恵院は、教えられた通りの場所にあった。
大通りから一本入った路地の奥、石造りの建物が暮れかけの光の中に建っていた。石壁のところどころに黒ずみがあった。長く使われてきた壁の色だった。窓の隙間から煮炊きの匂いが漏れていた。奥の方から、子供の声が一度だけ聞こえた。笑い声だった。
エドワードが扉を叩いた。
しばらくして、老いた女が扉を開けた。エドワードを見て、顔が固まった。
「……王太子、殿下」
「夕刻に申し訳ない」とエドワードは言った。「今月末の寄付について、話を聞かせてほしい」
院長は小柄な老女だった。名をリルカと言った。
事務室に通され、エドワードは対面の椅子に座った。クレマンは立ったままドアの近くにいた。リルカは机の前で背筋を伸ばしたまま、エドワードを見ていた。
「……殿下が直接おいでになるとは」
「問い合わせる順序を間違えていた」とエドワードは言った。「そういうことだ」
リルカが少しの間、沈黙した。品定めをしている沈黙ではなかった。言葉の重さを確かめている静けさだった。
「今月の不足分は」
「銀クロンで四十枚ほどです」リルカは言った。「例年なら、三名の寄付者の方から月初にいただいていました。今年は……七ヶ月前から、連絡が」
「補佐役を通じていた、ということか」
「はい」リルカが目を伏せた。「どの方も、補佐役さまを通じてお付き合いいただいておりました。ご連絡先も、補佐役さまからお伺いしていたものですから、直接お伺いする術が……」
エドワードは少しの間、机の上を見ていた。
七年間、このやり取りを一人でやっていた。寄付者との関係を保ち、連絡を取り、金を繋いでいた。孤児院が動いていたのは、ルイーゼがそこにいたからだった。
「寄付者の名前を教えてほしい」
「……殿下がご存知ではないのですか」
「知らない」とエドワードは言った。「補佐役がすべて管理していた。私は何も知らなかった」
リルカが、一拍だけ止まった。
「……フェルナン伯爵、グレデル商会のご主人、それとヘーゼル夫人です。三名とも王都にお住まいです」
「連絡先は分かるか」
「グレデル商会は商業区に事務所がございます。フェルナン伯爵はご屋敷へ書簡を——ヘーゼル夫人は、補佐役さまを通じておりましたので、今は私も分かりかねます」
「分かった。分かる分だけで十分だ」
クレマンが手帳を取り出した。書き取る音がした。
「今月末まで七日あります」とエドワードは言った。「先方に連絡を入れる。それまでの間の食料は、私の名で手配する」
「殿下が……」
「子供が何人いる」
「今は二十三名です。幼い子が多い」
「分かった」
エドワードが立ち上がった。リルカも立った。二人の間に、短い沈黙があった。リルカの目が、エドワードの顔を一度だけ真っすぐ見た。老いた目だった。長い年月を見てきた目だった。
「……補佐役さまは」とリルカが言った。「お元気ですか」
一拍、置いた。外套の内側の台帳の厚みが、肋骨に当たっているのが分かった。
「……元気にしている」
「そうですか」
リルカが目を下げた。それだけだった。それだけで、十分なことが伝わった気がした。
外に出ると、夕暮れが終わりかけていた。
空の端が橙から藍に変わっていた。路地の石畳が、夜の色を帯び始めていた。クレマンが外套を引き合わせながら、エドワードの隣に立った。
「フェルナン伯爵への書簡は、私が明朝準備します」
「ああ。グレデル商会とヘーゼル夫人にも同じ形で」
「承知しました」クレマンが少し間を置いた。「……初日にこちらへ来るとは、思っていませんでした」
「何か問題があるか」
「いいえ」とクレマンが言った。「ただ——そう仰るだろうとは、思っていなかった、という意味です」
エドワードは路地の出口を見た。大通りの灯りが、遠くに見えた。石造りの建物の向こうに、照明陣が落ちたままの区画の暗さが見えた。
あの子がやっていたことを——。
口が、一度だけ開いた。閉じた。言葉は出なかった。口に出すには、まだ早い気がした。出さなくても、今日動けばいい。今日動いた、ということが先だった。
「明日は農業試験場に顔を出す。来週中に外交府の書簡の件も手を付ける」
「順番に、ということですね」
「ああ」
クレマンが短く頷いた。歩き出した。エドワードも歩いた。
石畳の音が、二人分、夜の路地に落ちていった。
王宮に戻ったのは、夜が深くなってからだった。
自室に入った。外套を脱いだ。台帳を外套から取り出した。机の上に置いた。
台帳が、机の上に静かに置かれた。白い革表紙が、蝋燭の光を受けた。リムノの小屋で何度も見た光だった。あの場所で見た時とは、台帳の重さが少し変わっていた——いや、重さは同じだった。持っている場所が変わったのだった。
エドワードは椅子に座った。台帳を手前に引いた。
今夜、開くかどうか、まだ決めていなかった。ただ、台帳を机の前に置いて、そこに座っていた。
蝋燭が少し傾いた頃、エドワードは台帳の表紙に手を置いた。
開かなかった。ただ、手を置いた。革の温度が、指先に届いた。馬車の中で四日間押さえていたから、少し温かかった。
慈恵院のリルカの声が耳に残っていた。——補佐役さまはお元気ですか。
老女は、名前で聞かなかった。「補佐役さま」と呼んだ。七年間、そう呼ばれていたのだろう。慈恵院でも、そう呼ばれていた。名前ではなく、役割で呼ばれていた。
それはエドワードも同じだった。
七年間、名前で呼ばなかった。
台帳に手を置いたまま、エドワードは目を閉じた。
今日の出来事が、順番に戻ってきた。慈恵院の石造りの建物。煮炊きの匂い。リルカの背筋。クレマンが手帳を取り出した音。
その一つ一つを、ルイーゼが七年間、一人でやっていた。
フェルナン伯爵の名前を覚えた。グレデル商会の主人の名前を覚えた。ヘーゼル夫人の名前を覚えた。今日初めて覚えた名前だった。ルイーゼにとっては七年前から知っている名前だっただろう。
そういう名前が、いくつあるか、まだ分からなかった。
蝋燭がもう一段細くなった頃、エドワードは目を開けた。
台帳の表紙から手を離した。手を見た。手のひらが、少し赤かった。押さえていた跡だった。
椅子から立った。台帳を手に取った。引き出しを開けた。一番深い引き出しに、台帳を入れた。鍵をかけた。鍵を手に持ったまま、机の前に立った。
——秘密を守ってください。
ルイーゼの声が、静かに戻ってきた。抑えた声だった。七年間、声に出したことのなかった言葉が、初めて声になった夜の声だった。
守る。
それだけは、言葉を出さなくても決まっていた。
エドワードは鍵を机の上に置いた。蝋燭の炎が、窓からの隙間風に一度揺れた。揺れてから、また静かに燃え続けた。




