私は戻りません
夜が明けるより前に目が覚めた。
石壁の向こうから風の音がしていた。リムノの冬の風は低く唸り、木の枝を鳴らして通り過ぎる。その音を聞きながら、ルイーゼは天井を見ていた。
昨夜のことが、耳の奥にまだあった。
——すまなかった。
エドワードの声が、薄い眠りの間じゅう戻り続けていた。責める声ではなかった。七年かかって届いた言葉の重さが、今朝になってもまだ、胸の底にひっかかっていた。
炉の火はもう消えていた。冷気が床板の下から這い上がってくる。ルイーゼは起き上がり、薪を入れた。火が戻るまでの間、窓の外を見た。空がまだ暗かった。
エドワードが今日の昼には発つ、とクレマンから聞いたのは三日前のことだった。
「王都に戻る日程が決まりました」とクレマンが言った。小屋の外で、二人になった瞬間に言った。「明後日の朝の馬車を手配しています。王太子殿下も、今日は何も申されませんでしたが——」
ルイーゼは薬草の束を手に持ったまま、聞いていた。
「……承知しました」
それだけ返した。
クレマンが何も言わなかった。言葉を足そうとして、やめた気配がした。クレマンはいつも、余分を言わない。その分、一言が重かった。
三日が経った。
昨日は封印塔の設計図の補足を説明した。台帳の骨格では読めない箇所を、口頭で補った。エドワードは帳面に書き取った。クレマンが追いながら質問した。夕方まで続いた。それが最後の引き継ぎになるはずだった。
それで終わりにするつもりだった。
今朝、火を見ながら考えた。終わりにするとは、何を終わりにすることなのか。処方の伝授は終わった。封印塔の補足も終わった。秘密も渡した。やるべきことはすべてやった。
残っているのは——ただ一つだけ、まだ言葉にしていないことがあった。
陽が出る頃、戸を叩く音がした。
クレマンだった。一人だった。エドワードはまだ来ていない。
「おはようございます」とクレマンが言った。「今日は殿下が少し遅れると申しております。馬車の確認が入ったと」
「そうですか」とルイーゼは言った。「どうぞ、中へ」
クレマンが入った。外套を壁に掛けた。炉の前に手をかざした。
「……昨夜は眠れましたか」
問いは短かった。ルイーゼを正面から見ながら聞いた。
「少し」とルイーゼは言った。「あなたは」
「私は慣れています」とクレマンは言った。「旅が多い仕事ですので」
それから沈黙があった。意地悪な沈黙ではなかった。何かを測っている静けさだった。
「……戻らないと、決めておられるのですね」
クレマンが言った。問いではなく、確認だった。
ルイーゼは炉の方を向いたまま、少しの間何も言わなかった。
「……はい」
クレマンが頷いた。それだけだった。肯定でも否定でもない頷きだった。
「殿下は」とクレマンは続けた。「昨夜は遅くまで起きておられたようです。私は廊下で明かりが消えるのを見ていましたが、二刻以上、消えませんでした」
ルイーゼは炉から目を上げた。
「……そうですか」
「殿下が何を考えておられたかは、私には分かりません」とクレマンは言った。「ただ——今日、殿下は何かを言おうとされると思います。私には、そう見えます」
ルイーゼは何も言わなかった。
クレマンは続けた。「余計なことを言いました。忘れてください」
「いいえ」とルイーゼは言った。「ありがとうございます」
エドワードが来たのは、それから半刻ほど後だった。
戸が開いた。外の冷気が一筋入った。エドワードが外套のまま入って来た。
「おはよう」とエドワードが言った。
「おはようございます」とルイーゼとクレマンが、少し間をずらして言った。
エドワードは机の前に立った。椅子には座らなかった。外套の前を合わせたまま、部屋を見た。昨日まで処方の束が積まれていた机の上が、今日は片付いていた。白い台帳だけが、端に置いてあった。
「……今日で終わりだな」とエドワードが言った。
「はい」とルイーゼは言った。
沈黙が来た。三人の間に、音のない間が広がった。炉の火が低く燃えていた。
クレマンが静かに立ち上がった。
「……少し外に出ています」と言った。「荷の最終確認をします」
エドワードは何も言わなかった。ルイーゼも言わなかった。
クレマンが外套を取った。戸が開いて、冷気が入った。戸が閉まった。
小屋に、二人だけになった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
エドワードが外套のまま机の端に手を置いた。白い台帳の表紙を、一度だけ見た。
「……封印塔の件は」と言った。「王都に戻り次第、評議会に掛ける。お前の魔力の特性の記録も、一緒に渡す」
「はい」
「術者が見つかるまでの間、劣化が進む。塔が臨界に達する前に——」
「間に合います」とルイーゼは言った。「評議会に適性者がいれば、三月以内に塔を安定させることができます。台帳の骨格と、昨日の補足があれば、最初の維持は私が立ち会わなくても進められます」
エドワードは少しの間、黙った。
「……立ち会えなくなっても、ということか」
「……最初の維持は、私が立ち会う方が速い、と昨日申し上げました。それは変わりません」
「では——」
「ただ」とルイーゼは言った。「立ち会うことと、戻ることは、別の話です」
エドワードが、止まった。
外套のまま、手を机の端に置いたまま、止まった。
ルイーゼは炉の方を向いたまま言った。振り返って言う必要があった。振り返った。
「エドワード殿下」
名前で呼んだ。七年間の宮廷作法では呼ばない呼び方で、呼んだ。それが正しいと思った。
「……私は戻りません」
声が、落ち着いていた。叫ぶ言葉でもなければ、詫びる言葉でもなかった。七年間、ゆっくりと固まってきた事実を、今日初めて声に出しただけだった。
エドワードは何も言わなかった。
すぐには言えなかった。手が机の端から離れた。外套の胸のあたりで、指が静かに握られた。
「……それは」とエドワードがやっと言った。「決定か」
「はい」
「……考え直す余地は」
「ありません」
短く言った。断言した。感情が揺れたとき、逆に言葉が短くなる——自分でもそれを知っていた。短くなっていた。
「……なぜだ」とエドワードが言った。「七年間のことを怒っているのか」
「怒っていません」
「では——」
「怒る、というものではなかったです」とルイーゼは言った。「怒りが先に出たことは、七年間、一度もありませんでした」
エドワードが沈黙した。
「あなたは私を道具と呼びました。七年間そう呼んだ。でも私は、そのことを恨んで王都を出たのではありません」
「……では何のために」
「恩を返す立場が消えたから」とルイーゼは言った。「それだけです。あなたが私を不要だと言った瞬間、私が立っていた場所がなくなりました。場所がなくなったから、出ました」
エドワードは少しの間、何も言わなかった。
窓の外から風の音がした。低く、遠くを通り過ぎていく冬の風だった。
「……それは」とエドワードが言った。「私が、戻ってくれと言ったとしても、か」
「はい」
「……戻ってくれ」
エドワードが言った。
静かな声だった。命令ではなかった。いつもの流暢さがなかった。余裕をなくした声だった。
「戻ってきてくれ。頼む」
ルイーゼは、少しの間だけ目を閉じた。
一拍だけ。一拍の間に、七年間のことが順番に戻ってきた——戻ってくる前に消えた。顔を上げた。
「殿下」
「……なんだ」
「あなたが今、私に言っている言葉は」とルイーゼは言った。「道具として戻ってくれということですか。それとも、人間として戻ってくれということですか」
沈黙が来た。
この問いは三十七日前、最初の対話でも出た問いだった——エドワードはその時答えられなかった。今も、すぐには答えられなかった。
答えようとしていた。それは分かった。昨夜、二刻眠れなかったのもその理由だろう、とルイーゼは思った。
それでも——答えが出るまでの時間が、答えそのものだった。
沈黙が続いた。炉の火が一度、音もなく揺れた。
「……両方だ」
エドワードが言った。
「役割として必要だし——お前が、必要だ」
言い切ってから、少し黙った。外套の前を握っていた手が、一度だけ締まった。
「……その二つを分けて言えない自分が、今もいる。それは、分かっている」
ルイーゼは聞いていた。聞きながら、エドワードの声が七年間で一度も出なかった音をしていると思った。余裕でも焦りでもなく、ただそのままの声だった。
「……その正直さは、ありがたいです」とルイーゼは言った。
「だが、戻らないのか」
「はい」
もう一度、沈黙が来た。
今度の沈黙は長くなかった。エドワードが外套の前を引いた。背筋を伸ばした。何かを、決めた時の姿勢だった。
「……分かった」
言葉が短かった。怒りでも諦めでもなかった。受け取った、という声だった。
「封印塔の立ち会いは——」
「できます」とルイーゼは言った。「塔の場所は王都から遠くない。術者が評議会で見つかり次第、連絡をください。ここに届く方法を、クレマンさんに渡します」
「……分かった」
「それと」
ルイーゼは机の端に置いてあった白い台帳を手に取った。
両手で、持った。革表紙の重さが、手のひらに届いた。七年間、一人で持っていた重さだった。
エドワードの前に、差し出した。
「秘密を守ってください」
エドワードが、台帳を見た。
「この台帳を、お持ちください」とルイーゼは言った。「私の頭の中にあるものは、これだけでは全部は写せません。でも——ここにある分は、あなたが持っていてください。王家の秘密は、王家が持つべきものです」
エドワードが台帳に手を伸ばした。受け取った。両手で受け取った。
重さが、エドワードの手に移った。
「……これを、私が持つ」
「はい」
「……そうか」
エドワードは台帳を見た。白い革表紙を、一度だけ手で押さえた。昨夜、ルイーゼが閉じた時の音と同じ音がした。
「……七年間、一人で持ってくれていた」
「はい」
「……大切にする」
それだけだった。それで十分だった。
戸の外でクレマンの足音がした。石畳の上を、一度行って戻る音だった。まだ入ってこなかった。
エドワードが外套の内側に台帳をしまった。
「……馬車の時間がある」
「はい」
「……何か、持っていくものはあるか。薬でも、食料でも——」
「あります」とルイーゼは言った。「道中の薬草を包んであります。クレマンさんに渡します」
「……そうか」
エドワードが机から離れた。戸の方に向いた。足が一歩出た。そこで止まった。
「……ルイーゼ」
名前で呼んだ。
七年間、呼ばれなかった名前だった。昨日も呼ばれていなかった。今日、初めて呼ばれた。
足が、一歩も動かなかった。息を一度止めて、止めたまま聞いた。振り返らなかった——振り返れなかった。エドワードの背中に、声だけが届いていた。
「……達者でいてくれ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
戸が開いた。冷えた朝の空気が小屋の中を一度なでた。戸が閉まった。
エドワードとクレマンの声が、外に出た。低く短い言葉が交わされた。馬車の側で何かが動く音がした。それから、車輪の音が始まった。
ルイーゼは小屋の中に立っていた。
炉の火が燃えていた。台帳が机の上から消えていた。重さが手から消えていた。七年間分の重さが、今朝、エドワードの手に移った。
車輪の音が、石畳から土の道に変わった。遠くなっていく。リムノの外れを越えると、音が消える。消えるまで、ルイーゼは聞いていた。
消えた。
ルイーゼは炉の前に戻った。薪を一本手に取った。入れなかった。ただ手に持ったまま、立っていた。
沈黙が、冬の小屋に静かに満ちた。質量のある静けさだった。音のなくなった空気が、ゆっくりと部屋の形に落ち着いていった。
炉の火だけが、低く揺れていた。




