王家の秘密
台帳の最初のページに書かれていたのは、日付だった。
建国二百九十五年、冬の初め。ルイーゼが王宮に入った年の日付が、インクの薄れた字でそこにあった。七年前の、自分の手書きだった。
エドワードは何も言わなかった。
机の向こうで、静かに待っていた。ページを覗き込もうとしなかった。ルイーゼが言葉を出すまで待つ、という待ち方だった。
ルイーゼは台帳の縁に指を当てたまま、ページを見た。日付の下に、短い文章が一行ある。七年前の自分が書いた、自分への覚え書きだった。
——これは、私が死ぬまで誰にも言わない話である。
そう書いてあった。
七年間、その通りにしてきた。
「……建国百五十年に」とルイーゼは言った。
声が、思ったより落ち着いていた。炉の火の音が遠かった。
「この王国が建てられたとき、四隅に封印塔が置かれました。ご存知ですか」
「知っている」とエドワードが言った。「王家の歴史書に記述がある。古代魔法陣の遺構だと」
ルイーゼは台帳から目を上げなかった。
「遺構ではありません」
沈黙が、落ちた。
炉の火が一度だけ揺れた。石壁に沿って、何かが薄く広がるような静けさだった。エドワードの息の音が——かすかに、止まった。
「今も動いています」とルイーゼは続けた。「百五十年間、一度も止まったことがない」
「……なぜだ」
「人が、維持しているからです」
月に一度、夜明け前に馬で出た。北の塔に向かう道は冬に凍った。一人で、誰にも言わずに、行って、帰ってきた。それを七年間、繰り返した。
エドワードが何も言わなかった。
「四つの封印塔には、それぞれ術式が刻まれています。建国の時に刻まれた、王国全体の結界を支える陣です。この陣は——定期的に生きた人間の魔力を核として補充しなければ機能を保てない」
言葉が、小屋の中に静かに出た。
七年間、声に出したことのなかった言葉だった。台帳に書いたのは覚え書きだけで、声にしたことは一度もなかった。今、初めて声になっていた。重さが、自分の耳にも届いた。
「……生きた人間の、魔力を」
ルイーゼは台帳から目を上げなかった。頷きだけを返した。
「……王家は、それを知っているのか」
「歴代の王は知っています」とルイーゼは言った。「知った上で、維持してきました」
長い沈黙が来た。
エドワードは動かなかった。椅子の上で、体を固めていた。固めているというより——言葉を受け取るのに、時間がかかっている——そういう静止だった。
ルイーゼは続けた。
「私が王宮に入った年の冬、先代の王妃様が私を呼んでくださいました」
台帳の日付の、一行後に書いた内容だった。「先代王妃、謁見」。それだけ書いた。それ以上は書けなかった。
「人払いをして、二人きりで話してくださいました。その時に、教えていただきました」
「……なぜ、お前に」
「私の魔力の性質が、その陣に適合していたからです」
エドワードが小さく息を吸った気配がした。
「魔法陣の維持を私が担っていたのは、陣の設計図を覚えたからではありません。私の魔力が——その陣に適合していました。先代王妃様は私が王宮に入る前から、それを調べておられました」
「……調べて、いた」
「はい。私の家が財政難になる前から、という話でした」
エドワードが何も言わなかった。
「王宮への奉公は、偶然ではありませんでした。先代王妃様が、私の家に話を持ちかけたとおっしゃっていました」
沈黙が、今度は別の形で降りた。重い沈黙ではなかった。ただ——それまでと空気の種類が変わった、という静けさだった。エドワードの手が、机の上でわずかに動いた気配がした。
「……封印塔の維持は、誰かが担わなければならなかった。補佐役として配置することで、王宮の中に置いておける。七年間の奉公が満了すれば、相応の褒賞を出す約束だった——そうおっしゃっていましたか」
「はい」
「……そうか」
エドワードは、しばらく何も言わなかった。
ルイーゼも、台帳から目を上げなかった。七年前の日付が、インクの薄れた字で、まだそこにあった。
「私は、その話を受けました」とルイーゼは言った。「十五歳でした。家が傾いていて、母が遠縁の家に世話になっていました。断る理由がありませんでした」
「……断れなかった、のではないのか」
「……断らなかった、のだと思います」
エドワードが少しの間、何も言わなかった。
「断ったとしても、家の状況は変わらなかった。受けることで、王宮に居場所ができた。先代王妃様は、丁寧に話してくださいました。強制ではなかった。ただ——十五歳の私には、選択の重さを測る目がありませんでした」
「封印塔の維持は、月に一度行っていました」とルイーゼは続けた。「馬を使えば王都から半日の場所に、北と南に一塔ずつあります。東西はさらに遠い。年に四回、他の二塔にも行きました」
「……私は知らなかった」
「殿下には、申し上げておりませんでした」
「……なぜだ」
「先代王妃様との約束でしたから」
エドワードが、一拍、間を置いた。
「……王妃様との」
「はい。先代王妃様がご存命のうちは、王妃様を通して行動してほしいと言われました。王妃様が亡くなられてからは——私一人になりました。誰に言う相手もいなかった」
沈黙が、また来た。
炉の火が細くなっていた。薪を入れた方がいい。そう思いながら、ルイーゼは動かなかった。台帳の日付を見ていた。建国二百九十五年、冬の初め。十五歳の自分が書いた字が、七年経っても、ここにあった。
「……先代王妃様が亡くなられたのは」
「私が王宮に入って三年目の冬でした」
「……四年間、一人だったのか」
ルイーゼは答えなかった。答えは、もう出ていた。
エドワードが何も言わなかった。言えなかった、という沈黙に聞こえた。
沈黙が石壁に沿って薄く広がった。炉の火の音だけが、低く、部屋の底にあった。
「……封印塔は、今も」
「私が王都を去ってから、劣化が始まっているはずです」とルイーゼは言った。「魔法陣の維持が止まれば、段階的に機能が落ちます。完全に崩壊するまでには時間があります。ただ——」
「ただ?」
「陣が完全に崩れれば、王国の結界が消えます」
エドワードが、固まった。
「結界が消えると、王都の大型魔法陣がすべて連動して止まります。照明だけではありません。水路、食料保存、病院の衛生維持——王都の基盤を支えている陣が、順番に落ちます」
「……いつだ」
「私が去ってから七ヶ月が経ちます。三月以内には、塔の劣化が臨界に達するかと思います」
沈黙が、今度は長く続いた。
エドワードは何も言わなかった。声が出なかった——という沈黙だった。
ルイーゼは台帳の縁から指を離した。両手を膝の上に置いた。台帳は机の上にある。最初のページが、まだ開かれたままある。
「……なぜ、去った」
エドワードが、しばらくして言った。「封印塔のことを知っていて、なぜ——」
「宴席で、不要だと言われたからです」
「……それは、知っている。だが——」
「道具に名前はいらない」とルイーゼは言った。「七年間、そう言われてきました」
エドワードは黙った。
「不要だと言われた翌朝、私は王都を出ました。七年間の奉公が終わった、と思いました。封印塔の維持は私の役割でした。その役割を担っていた人間が不要になったのなら——もう、担う立場がありません」
「……それは」
エドワードが言いかけて、止まった。
「おかしいことを言っているとは思っています」とルイーゼは言った。「封印塔が崩れれば、王都の人が困る。私には関係のないことではありませんでした。分かっていました」
「……では、なぜ」
「七年間、ひとつのことだけを考えていました」
ルイーゼは炉の方を見た。火が細かった。
「恩を返すことです。行き場のない私を王宮に迎えてくれた。場所を与えてくれた。その恩を返すために、七年間働きました。封印塔の維持も、薬の調合も、外交文書も——全部、恩を返すための仕事でした」
エドワードは何も言わなかった。
「不要だと言われた瞬間、恩を返す立場が消えました。もう関係のない場所になった、と思いました。論理が壊れているとは思います。ただ——その時の私には、それしか分かりませんでした」
長い沈黙が来た。
今夜で一番長い沈黙だった。炉の火が揺れなかった。石壁が冷えを押し出してくる音も、今夜は遠かった。エドワードの椅子が、かすかに動いた。体重をずらした音だった。
「……今、それを話してくれたのは」
「封印塔のことは、誰かが知っておかなければならない話です」とルイーゼは言った。「先代王妃様がお亡くなりになってから四年間、誰も知らなかった。私だけが抱えていました。私がここにいる間は、それでよかった。でも——」
「……お前が、戻らないなら」
「はい」
エドワードは、また黙った。
「私が戻っても、戻らなくても——この話は、あなたが知っておくべき話です」とルイーゼは言った。「七年間、私が持ち続けてきた話を、今日お渡しします」
「……渡すと、言ったか」
「はい」
「……戻ることと、話すことは、別なのか」
「別です」
ルイーゼは、エドワードの方を見た。
エドワードは机の向こうで、ルイーゼを見ていた。琥珀色の目が——七年間で、ルイーゼが見た中で、最も静かな光をしていた。怒りでも焦りでも、命じる光でもなかった。ただ、そこにある——という目だった。
「封印塔の維持ができる術者を、早急に探してください。魔法師評議会に問い合わせれば、適性を持つ者が見つかるかもしれません。私の魔力の特性については、台帳に記録があります。照合の参考になると思います」
「……分かった」
「陣の設計図は——私の独自改良が多く、そのままでは他の者には読めません。解読には時間がかかります。でも、骨格は白い台帳に書いてあります」
「……この台帳に」
「はい」
エドワードは台帳を見た。
開かれたままのページを、静かに見た。手を伸ばさなかった。まだ触れなかった。台帳はルイーゼの手の届く場所に置かれたまま、炉の光の中にあった。
「……七年間」
エドワードが言った。低い声だった。
「……これを、一人で抱えていたのか」
沈黙が来た。ルイーゼは台帳の縁を、指先で押さえた。
エドワードは何も言わなかった。
言葉が出ない、という沈黙ではなかった。言葉が、出てくる前に何かに押し当たって——そこで止まっている、という沈黙だった。
「……すまなかった」
エドワードが言った。
短かった。それだけだった。
ルイーゼは少しの間、何も言わなかった。
すまなかった、という言葉が、小屋の中に静かに残っていた。謝罪の形をしていたが、謝罪とは少し違う重さだった。何かが——七年かかって、今夜ここに来た——そういう言葉の重さだった。
「……ありがとうございます」
自分の言葉が出てから、少し驚いた。出てくると思っていなかった言葉だった。
七年間、怒りはなかった。怒る理由が、自分でも分からなかった。ただ——この人が「すまなかった」と言った時、ありがとうという言葉が出た。なぜその言葉が出たのかは、まだ測れていなかった。
「ありがとうございます、というのは」とルイーゼは言った。「聞いてくださったことに対してです」
「……そうか」
「七年間、これを誰かに話せる日が来るとは、思っていませんでした」
エドワードは何も言わなかった。
沈黙が、今夜の中で一番柔らかい温度で、部屋に降りた。
どれだけの時間が過ぎたか、分からなかった。
炉の火が、さらに細くなっていた。薪を入れなければ、もうすぐ消える。ルイーゼは炉の方を向いた。薪を一本取った。火の中に入れた。炎が小さく揺れてから、戻った。
「……封印塔の話を、王都の評議会に伝えれば」
「台帳の骨格で、ある程度は動けます」とルイーゼは言った。「ただ——最初の維持だけは、私が立ち会った方が速いかもしれません」
「……辺境から、塔まで来てくれるか」
「それは」とルイーゼは言った。「封印塔の問題が解決してから、考えます」
エドワードは何も言わなかった。
立ち会うことと、戻ることは別だ——そう言っている意味を、受け取った沈黙だった。
夜が深くなっていた。
エドワードが外套を手に取る気配がした。立ち上がった。ルイーゼは炉の前で、薪を持ったままだった。
「……今日は、ありがとう」とエドワードが言った。
「はい」
「……明日も来る」
「お待ちしています」
戸が開いた。冷えた夜気が一筋、小屋の中に差し込んだ。戸が閉まった。エドワードの足音が石畳の上に出た。夜の中に、静かに沈んでいった。
一人になった。
ルイーゼは炉の前に立っていた。火が少し大きくなっていた。部屋が、今夜少しだけ温かかった。
机の上に、白い台帳があった。最初のページがまだ開いていた。蝋燭の光の中に、建国二百九十五年という日付が、薄いインクで見えた。
七年間、誰にも話さなかった。今夜、初めて話した。
台帳を閉じた。
革表紙が合わさった。かすかな音がした。閉じてから手を離した。白い台帳が、机の上に静かに置かれた。
炉の火が、揺れなかった。七年間の夜よりも、今夜だけ、少し温かかった気がした。
机の上で、白い台帳は、ただそこにあった。閉じられたまま、炉の光を受けて、ただそこにあった。




