表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
35/50

秘密を渡す前に

 橘皮きっぴの小袋を棚に戻したとき、指先に革の感触が残った。


 厚くなめした革だった。何年も使い込まれた道具の触れ心地だった。棚に置いて、手を離した。


 今日で、エドワードが辺境に来て十九日になる。




 戸を叩く音がした。


 クレマンだった。エドワードはすでに机の前に座っていた。今日も、わずかに早く着いていた。


「おはようございます」とクレマンが言った。


「昨日の続きから始める」とエドワードが言った。帳面を開きながら言った。


「浮腫みへの処方、組み合わせの比率からです」とルイーゼは言った。


 ルイーゼは棚から昨日の続きの束を引き出した。クレマンが帳面を膝に置いた。ペンを取った。


 こうして三人で始まる朝が、十九日続いていた。




 浮腫みと冷えへの処方を、伝えていた。エドワードが帳面に書き取り、クレマンが補足を加えた。


「……比率は患者によって変わるか」


「年配の方は利尿薬の比率を落とします。体重や年齢で変わります。大外れはしない目安があります」


「……書き足しておいてくれ」


「後で追記します」


 一通り伝え終えた。


 ルイーゼは次の薬草束を棚から引き出しながら、昨日のことを——「辛かったか」という声を——考えた。


 考えていた、というより、また戻ってきていた。今朝、目が覚めたときも、そこにあった。白い台帳が机の上に置いてあるのを見て、また戻った。


 七年間。誰にも聞かれなかった問いを、昨夜、聞かれた。


 今日、何かが変わる——と思っていた。ぼんやりとではなく、はっきりと。




「……少しお時間をいただけますか」


 ルイーゼが言った。


 自分の声が思ったより落ち着いていた。棚を向いたまま、言った。エドワードのペンが止まった気配がした。クレマンの方でも、気配が動いた。


「処方の話は、一区切りついています。その前に——」


「どうぞ」とエドワードが言った。


 クレマンが立ち上がった。


 ルイーゼは振り返らなかった。振り返らなかったが、クレマンが何も言わずに帳面を閉じ、外套を取ったことが分かった。


「少し外に出てきます」とクレマンが言った。「昨日届いた薬草の仕分けを確認してきます」


 それだけだった。


 戸が開いて、冷気が一筋差し込んだ。戸が閉まった。クレマンの足音が石畳の上に出て、静かになった。




 小屋に、二人だけになった。


「……用意ができたら」とエドワードが言った。


「……はい」


 沈黙が降りた。重くはなかった。ただ——変わった。クレマンのいた場所の空気が、わずかに薄くなった。それだけの違いが、小屋を小さく感じさせた。


 ルイーゼは棚の前を離れた。


 机の方に歩いた。エドワードが静かに待っているのが、背中に届いた。椅子の上で姿勢を変えていなかった。待つことに慣れた人間の待ち方だった。


 机の端に、白い台帳があった。


 昨夜、この台帳を見て、眠れなかった。眠れないというより——眠るよりも考えていたかった。「今日、言えるかもしれない」という気持ちを確かめながら夜を過ごした。


 白い台帳を手に取った。


 革表紙の重さが、両手に届いた。昨日と同じ重さだった。変わっていなかった。ただ今日は——手が、昨日より止まらなかった。


 机の上に置いた。


 エドワードの前に、置いた。




「七つ目の役割について」とルイーゼは言った。


 棚の方を向いたまま言おうとして、やめた。この話は、棚を向いて言う話ではなかった。振り返って、白い台帳を指先で押さえて、エドワードの机の上に載せたまま言った。


「……話せると思います」


 エドワードは何も言わなかった。


 白い台帳を見た。見て、ルイーゼの顔を見た。何かを言いかけた気配があった。言いかけて、止まった。


 黙って、待っていた。


 その待ち方が——七年間とは違う、待ち方だった。七年間、エドワードの待ち方は「答えを出せ」という待ち方だった。今の待ち方は——ルイーゼの言葉を、受け取ろうとしている、待ち方だった。


 沈黙が、部屋に静かに降りた。


 炉の火が低く燃えていた。石壁の冷えが、じわりと空気に滲んでいた。




 一呼吸、置いた。


 意図して置いた。七年間、自分の中に閉じておいた話を、今日出す前の——最後の一呼吸だった。


「……七年間」とルイーゼは言った。「これだけは人に言えないと思っていました」


「……そうか」


「はい」


 エドワードは動かなかった。


「言えないと思っていた、というより——言う必要のない話だと思っていました。七年間、私が持っていれば、それで機能していた。誰かに渡す話ではなかった」


「……持っていた、とは」


「知識としても、ということです。七つ目の役割は——処方や外交文書のように、台帳に書ける話ではありませんでした。形のない話でした」


「……この台帳には何が書いてある」


「……入口だけです」とルイーゼは言った。「本体は、私の中にあります」


 エドワードが少しの間、何も言わなかった。


「……それを、今日は言える」


「今日は、言えます」


「……今日でなくてもよかった」


「……今日がよかったです」とルイーゼは言った。




「……なぜ今日か」


 静かな問いだった。責める声でも、急かす声でもなかった。本当に聞いている声だった。


 ルイーゼは台帳の表紙から目を上げた。


 窓の外、石壁の向こうに、冬の朝の光が薄くある。今日も雪は降っていない。リムノの冬は乾いていた。空気が薄くて、音がよく通った。


「……昨日」とルイーゼは言った。


 声が、思ったより細くならなかった。七年間、口にしたことのない言葉だった——それでも、声は落ち着いていた。


「あなたが『辛かったか』と聞いてくれたからです」


 沈黙が来た。


 かたちのある沈黙が、石壁の間にゆっくりと広がった。炉の火の音も遠のいた。エドワードの息の音が——かすかに、途切れた。




 エドワードは何も言わなかった。


 言いかけた気配はあった。口が、わずかに動いた。そこで止まった。


 ルイーゼはその様子を見ていた。見ていて——止まった理由が、分かる気がした。七年間、エドワードは「辛かったか」という問いを一度も出さなかった。昨日、初めて出した。その言葉の意味を、今朝になってルイーゼから返された。


 受け取り方の形が、まだ定まっていないのだろう、とルイーゼは思った。


 それは、昨夜ルイーゼも同じだった。「今、聞いている」という言葉の受け取り方を、一晩かけてまだ測り続けていた。


 どちらも、まだ測り終えていない。


 それでも——ルイーゼは台帳の表紙を、指先でそっとなぞった。革の冷えが、指先に届いた。手が、止まらなかった。




「……では」


 ルイーゼが言った。


 台帳に手をかけた。革表紙の縁を、指先で押さえた。


「話します」


 開いた。


 紙が、かすかな音を立てた。冷えた空気の中で、革表紙の内側が白く広がった。炉の火が一度揺れた。


 白い台帳の最初のページが、ルイーゼの手の下に開かれた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ