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七年間の重み

 橘皮きっぴの乾いた香りが、指先に残った。


 布の結び目を確かめた。きつすぎず、緩すぎず。蝋燭の炎が一度だけ揺れた。石壁の隙間から入る気流だった。炎はすぐに戻った。




 夜の小屋に二人でいるのは、珍しかった。


 今日の処方の話が長くなり、クレマンが先に宿へ戻った。


「手紙の返事を書いておきます」とクレマンが言い置いて出て行った。エドワードはまだ帳面を読んでいた。「もう少しだけ」と言って、読み続けていた。ルイーゼは薬の仕分けを続けた。


「……邪魔か」


 エドワードが帳面から目を上げずに言った。


「いいえ」


「……蝋燭を変えるか」


「まだ大丈夫です」


「そうか」


 また帳面に目を落とした。ルイーゼも手を動かした。


 明日の患者に出す薬草を、三つの種類に分けていた。熱に使うもの、浮腫みに使うもの、痛みに使うもの。指が動くだけで、頭はほとんど使わない作業だった。


「これは黄連おうれんの話か」とエドワードが言った。


「はい。昨日の分です」


「……升麻しょうまの前」


「そうです」


 ページをめくる音がした。ゆっくりとめくった。書き込んだ文字を読み返している音だった。


「この橘皮の保存——陶器でなければならないのか」


「王都では金属の缶でも代用できます。ただし辺境では職人がいない。陶器で代用します」


「……先日聞いたな」


「昨日も、同じことを書かれています」


「そうか」とエドワードが言った。小さな声だった。読み返しながら、確認していた。


 沈黙が続いた。重い沈黙ではなかった。空気が同じ温度のまま、変わらずそこにある——そういう静けさだった。ルイーゼは薬袋を一列に並べた。橘皮、黄連、升麻。並べながら、炉の火が細くなっていることに気づいた。




「……これを全部、頭の中に入れたのか」


 エドワードが帳面を見たまま言った。独り言のような言い方だった。


「仕事でしたから」とルイーゼは言った。


「七年間」


「はい」


「……苦労したか」


「覚えることは好きでした」


「苦労したかと聞いた」


「……そうですね」とルイーゼは言った。「最初の三年は、手が追いつかないことがありました」


 エドワードは帳面のページに目を戻した。


「ここに書いてあることだけで——この村の患者全員に処方できるか」


「今の季節の患者には、だいたい対応できます。夏になれば薬草が変わります」


「王都での処方とは違うか」


「気候が違います。辺境は乾燥が強い。同じ薬草でも産地が違えば効きが変わります」


「……それも、七年間で覚えたか」


「二年半です」とルイーゼは言った。「ここに来てからは、まだ」


「……七年間の知識が、二年半で使えるようになるものか」


「土台があれば」とルイーゼは言った。「七年間が、土台になっています」


「……処方を体系化したのはお前か」


「はい」


「……そうか」


 またページをめくる音がした。沈黙が戻ってきた。




 蝋燭が一段細くなる頃、エドワードが口を開いた。


「……一つ聞いていいか」


 ルイーゼは手を止めなかった。橘皮の袋を棚に戻した。


「どうぞ」


 エドワードが何を問うのか、考えなかった。七つの役割の話か、処方の確認か——どちらでも答えられる。


 エドワードは少しの間、何も言わなかった。


 帳面の上にペンを置く音がした。置いただけで、何も書かなかった。


「……七年間のことを」


 エドワードが言いかけた。少し間を置いた。


「聞いていいか」


「……何でも」


 手が止まった。


 黄連の袋を持ったまま、止まった。七年間のこと、という言葉が、小屋の中で少しの間だけ、形を持った。


 ルイーゼが言った。


 エドワードは少しの間、動かなかった。




「辛かったか」


 エドワードが言った。


 静かな声だった。命じる声でも、確かめる声でもなかった。問うことに、少し時間がかかった——そういう言い方だった。


 沈黙が落ちた。


 今度の沈黙は、違う重さだった。炉の火の音が遠のいた。ルイーゼは黄連の袋を棚の前に持ったまま、動かなかった。


 辛かったか。


 エドワードが問うたことの意味が、少しずつ届いた。七年間の役割についての問いではない。処方の話でも、役割の数でも、崩壊の経緯でもない。これは——ルイーゼのことを問うている。ルイーゼ自身の、七年間を。


 七年間。どう答えればいいか、分からなかった。


 辛かったか、という問いを、七年間誰かに問われたことがなかった。問われることを想定して備えていたわけでもなかった。だから——答えの形が、まだない。




「……そうではないと思っていました」


 棚の方を向いたまま言った。声は静かだった。


「今も、そう思っていたいです」


「……なぜ」


「辛かったと言ってしまったら——あの時間が、別のものになってしまう気がします」


 エドワードは何も言わなかった。


 言い終えてから、自分の言葉の形を確かめた。本当のことだった。「辛かった」という言葉で七年間を括りたくなかった——それも、本当のことだった。


 エドワードは答えなかった。


 帳面を閉じる音がした。静かに閉じた音だった。読み終えたから閉じたのではなく——置いた、という音だった。




 長い沈黙が来た。


 炉の火が細く燃えていた。蝋燭の炎が一度揺れて、また戻った。ルイーゼは薬袋の並びを整えた。整えながら、手が少し遅かった。


 空気が、それまでと少し違っていた。エドワードが帳面を閉じてから、小屋の中に何かが残っていた。問いの残響のようなものが、石壁に沿って静かにあった。


 ルイーゼは次の袋を取らなかった。


 棚の端に片手を置いたまま、炉の方を見た。火が細い。もう一本薪を入れた方がいい。そう思いながら、動かなかった。




「……でも」


 自分の声が、小屋の中に出た。


 エドワードが何も言わなかった。続きを待っていた。


「……七年間、誰にも聞かれなかった」


 棚の端を持ったまま、言った。声が想定より静かだった。訴えているわけではなかった。ただ——事実として、言葉が出た。


 七年間辛かったかと問われたことはなかった。困ったかと問われたことも、疲れたかと問われたことも、一度もなかった。処方は機能したか、役割は果たせるか——そういう問いだけが七年間あった。ルイーゼ自身のことを問う声は、一度もなかった。


 言ってから、引っ込めたくなった。引っ込めることはできなかった。言ってしまった言葉は、小屋の空気の中にある。




「……今、聞いている」


 エドワードが言った。


 静かな声だった。短い言葉だった。


 手が木を離せなかった。棚の端の、今夜の温度が、指先に届いた。


 今、聞いている——弁明でも謝罪でもなく、ただ今夜ここにある言葉として、受け取った。


 炉の火が揺れた。


「……薪を、入れます」


 ルイーゼが言った。炉の方に向かった。薪を一本取った。火の中に入れた。炎が少し大きくなった。それだけのことだった。それだけのことを、した。


「……ああ」とエドワードが言った。


 沈黙が続いた。しばらくして、エドワードが言った。


「……ここまで来るのに、時間がかかった」


 ルイーゼは炉の前で、薪を持ったまま止まった。


「……そうですね」


「……遅かったか」


「……いいえ」とルイーゼは言った。「来ていただいたことに変わりはありません」


「……そうか」


 また沈黙が来た。




 どれだけの時間が過ぎたか、分からなかった。


 蝋燭がもう少し短くなっていた。ルイーゼは棚の端から手を離した。


 何かが——変わったのかどうか、まだ測れなかった。


 七年間誰にも聞かれなかった、という言葉を、ルイーゼは今夜初めて声に出した。声に出すまで、それが自分の中にある言葉だとは知らなかった。知らないまま、抱えてきた。抱えていたことにも、気づかないまま。


 七年間辛かったかどうか——今もまだ、分からなかった。


 分からないまま、今夜エドワードが問うた。今、聞いていると言った。その言葉が、ルイーゼの中でまだ動いていた。測ろうとして、測れなかった。受け取り方が定まらないまま、どこかで静かに動いていた。




 椅子を引く音がした。


 エドワードが立ち上がった気配がした。外套を手に取る音がした。


 ルイーゼは振り返らなかった。


「……今日は長くなった」


「はい」


「……外は冷えているか」


「雪はまだです」


「……遅くまで付き合わせた」


「仕事です」


「……仕事ではなかった」


 ルイーゼは少しの間、何も言わなかった。


「……はい」


「……明日も来る」


 エドワードが言った。


「……お待ちしています」


 ルイーゼが答えた。


 戸が開いた。夜の冷気が一瞬小屋の中に差し込んだ。戸が閉まった。エドワードの足音が石畳の上に出て、静かに夜の中に沈んでいった。




 一人になった。


 ルイーゼは棚の前に立っていた。薬袋が一列に並んでいた。今日の仕分けは終わっていた。


 机の上に、白い台帳があった。蝋燭の光の中で、表紙が薄く光っていた。


 ルイーゼはそれを見た。


 見たまま、近づかなかった。


 「辛かったか」という声が、まだ小屋の中にあった。「今、聞いている」という言葉も、まだそこにあった。答えの出なかった問いと、それに続く短い言葉が、石壁の間に静かに残っていた。


 七年間、誰にも聞かれなかった。


 今夜、初めて聞かれた。


 それが何なのかを——まだ、ルイーゼには分からなかった。




 蝋燭が燃え続けていた。


 火は揺れなかった。小屋の空気が落ち着いていたから、揺れなかった。


 白い台帳が、蝋燭の光の中で、ただそこにあった。



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