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孤児院の話

 朝の薬棚から引き出しを引いた瞬間、木の感触が昨日より乾いていた。


 冷えが深くなると木が縮む。縮むと引き出しの滑りが変わる。ルイーゼの指は、その変化を正確に読んだ。今日は昨日より冷えが厳しい。石壁越しに伝わる空気の質と、引き出しの滑りと、朝一番の息の白さが、同じことを言っていた。


 今日で、エドワードが辺境に来て十五日になる。




 クレマンが先に来た。


 いつも通り、ルイーゼが薬棚の前で朝の準備を始めている頃に戸を叩く音がして、「クレマンです」という声がして、入ってきた。今日は手に、見慣れない小さな革袋を持っていた。


「……書状が届きました」


 机の上に置いた。革袋の口に赤い蝋印がついていた。王都の印ではなかった。王都の知人のものか、あるいは私的な連絡か。


「昨夜、村の宿の者が預かっていたようです。王都の方向から来た旅人から、クレマン殿に、と」


 ルイーゼは薬棚の引き出しを閉めた。クレマンが蝋印を割って紙を開いた。読んだ。一度読んで、また読んだ。


 小屋の中の空気が、かすかに変わった。


 変わったのはクレマンの肩の位置だった。内容を読み終えた後の肩が、読む前より低くなっていた。


「……エドワード殿下を待つべきかと思います」


 声が、普段より少し低かった。




 エドワードが来たのは、それから間もない頃だった。


 戸を叩いて入ってきたエドワードの顔は、今日も昨日の続きの顔だった。昨夜まで考えていた何かを、今朝もまだ引きずっている。この十五日間、そういう顔で来ることが増えていた。


「おはようございます」


「……ああ」


 エドワードが机の前に座りかけた。クレマンが書状を手に立っていた。それを見て、エドワードの動きが止まった。


「何か」


「書状が。昨夜届いたものです」


 クレマンが差し出した。エドワードが受け取った。


 ルイーゼは薬棚に向いたまま、今日の患者の分の薬を量り始めた。手が仕事を続けていた。


 沈黙が小屋の中に落ちた。


 しんとした沈黙ではなかった。何かが、静かに重くなっていく沈黙だった。紙が一枚、机の上に置かれる音がした。




 エドワードは、しばらく口を開かなかった。


 クレマンが椅子を引いて座った。ペンを出さなかった。書き取る気配がなかった。


 ルイーゼは小袋に薬を移した。ひとつ、またひとつと。指先が仕事を続けた。背中でエドワードの沈黙を聞いていた。


 何を読んだのか、ルイーゼにはまだ分からなかった。ただ、その沈黙の重さは、「悪い知らせ」の重さだった。良い知らせとは違う静かさがあった。どこか、かさがある静かさだった。


「……ルイーゼ」


 呼ばれた。


 低い声だった。問うでも命じるでもない声だった。ただ、名前を呼んだ。


 ルイーゼは薬棚から振り返った。




 エドワードは書状を机の上に置いたまま、ルイーゼを見ていた。


「孤児院との関係も、お前か」


 短い問いだった。


 ルイーゼは少しの間、答えなかった。問いの意味を確かめていた。孤児院——王都クラウゼルに一軒だけある、三十人ほどの子供を預かる施設だった。最初は一通の手紙だった。院長に頼まれて、寄付者への礼状を代筆した。それが続いた。名前が残った。気づけば七年間、その名前を表には出さずに動かし続けてきた。


「担当は私ではありませんでした」とルイーゼは言った。「運営は院長と複数の職員が行っています。ただ——寄付者の方々は、私の名前で連絡を取っていました。年次の報告書も、私が取りまとめていました」


 エドワードは動かなかった。


「お前が、院の運営を」


「いいえ」とルイーゼは言った。「一度も足を運んでいません。手紙だけです。名前だけです」


「……何年間」


「王都にいた間、全部です」


 沈黙が、またひとつ降りた。


 クレマンがペンを持たずに机の上を見ていた。書き取るべきことが何かを決めかねている様子だった。




 クレマンが口を開いた。


「孤児院には、現在何人の子供が」


「三十一人だったはずです。最後の報告書が届いたのは秋でした」とルイーゼは言った。「建て増しをしたのが昨年の春です。それで受け入れが六人増えました」


 クレマンがペンを取った。書き取った。


「春の建て増しの費用は」


「商会三軒からの合同拠出です。取りまとめは私がしました。見積もりの確認も、施工後の報告も」


「……それも手紙で」


「全て手紙です」


 エドワードが机の縁に手を置いた。




 七年間。


 その言葉が小屋の中にあった。


 年次報告書。寄付者への礼状。孤児院が建て増しを検討したとき、費用を出した商会への打診。冬の食材が不足したとき、農村部の協力を取り付けた手紙。どれも、ルイーゼの名前が入っていた。ルイーゼの名前が、その全てを動かす鍵になっていた。


 ルイーゼ自身が院の子供たちと会ったことは、一度もなかった。


 名前だった。名前だけが、七年間そこで動き続けていた。


「……書状の内容は」とルイーゼは言った。


「年明けで閉鎖になる可能性があると」とエドワードが答えた。「主要な寄付者が複数、連絡が取れなくなっているそうだ。連絡先を誰も把握していない」


「はい」


「連絡先は——」


「王都に資料があります。私が管理していた書類の中です」


 それだけ言った。




 少しの間、誰も口を開かなかった。


 冷えた空気が、石壁越しに滲んでいた。炉の火は燃えていたが、壁の冷えはその温もりとは別の時間で進んでいた。引き出しの木が朝より乾いていた、あの感触と同じ時間の中に、この小屋は置かれていた。


「戻らなくても、解決できるか」


 エドワードが言った。


 声が——少し、変わっていた。問う声というより、可能性を確かめる声だった。命令でも要求でもなかった。


 ルイーゼは引き出しに手を当てた。今日ここまで触れてきた木の感触があった。


「名前を書いた手紙を一通出せば、寄付者は動きます」とルイーゼは言った。「七年間、私の名前で連絡を取り続けた方々です。今から出せば、年明けには間に合います」


「……名前を書くだけで」


「私の筆跡と封印があれば、動きます」


 間があった。


 クレマンが机の上で指を組んだ。組んだまま、下を向いた。




 エドワードが、机の上の書状を見た。


 見て、少しの間そのまま動かなかった。書状の文字を読んでいるわけではなかった。その奥にある何かを、今確かめているような時間だった。


 七年間。名前だけが動いていた。本人は一度も行かなかった。子供たちは、ルイーゼという名前の人間が誰であるかを知らない。ただ、その名前から手紙が来るたびに、冬の食材が届いた。建て増しの資金が動いた。報告書を手渡す相手がいた。


 名前が、人の代わりに機能していた。


 七年間。


「……それを、頼んでいいか」


 エドワードが言った。


 静かな声だった。流暢でも余裕でもなかった。七年間ルイーゼが聞き続けてきたエドワードの声とは——少し、違う声だった。


 ルイーゼは少しの間、引き出しに当てた手を動かさなかった。


 木の感触があった。朝より乾いた、この場所の木の感触。七年間分と今日分が、同じ手のひらに置かれたような気がした。


 命じられたことには、ずっと「はい」と答えてきた。今のは——違う。


「はい」


 言った。




 短い答えだった。


 クレマンが顔を上げた。エドワードが、かすかに目を細めた。何かを受け取った、という動きだった。


 ルイーゼは薬棚に向き直した。今日の準備の続きを始めた。手が動いた。頭が別のことを考えていても、指先は仕事を覚えていた。


「紙と封蝋を。昼前に書く」


「……分かりました」とクレマンが言い、鞄の中を確認した。


「……封蝋は王都の印か、お前の私印か」とエドワードが言った。


「私の印は持っていません。王都に置いてきました」


 置いてきた、というより——置いていった、という感覚に近かった。戻るつもりのないものは、持って出なかった。


 エドワードは少しの間、黙った。


「私の印を貸す。それで動くか」


「動きます」とルイーゼは言った。「私の筆跡と、エドワード殿下の封印があれば、どちらの名前に対しても動きます」


 エドワードが、かすかに頷いた。


 小屋の中に、静かさが戻った。重くない静かさだった。何かが決まった後の、少し軽くなった静かさだった。それでも——完全に軽いわけでもなかった。


 三十人の子供の名前を、ルイーゼは知らなかった。


 一度も会ったことのない子供たちが、年明けを迎える。そのための手紙を、今日、書く。ここに座って書く。王都に戻らなくても、名前が届く。名前が動かす。


 七年間ずっとそうだったのだから、今日もそうなる。




 クレマンが紙を広げながら、小さな声で確認した。


「寄付者は何人ほどおられますか」


「定期的に連絡を取っていた方が八名、不定期が十二名です」とルイーゼは言った。「このうち三名が、年内の支援を約束してくれていた方です。その三名に宛てれば充分です」


「三名で足りますか」


「足ります。一人の支援額が大きい。今まではそういう設計でした」


 クレマンが書き取った。エドワードは窓際で静かに聞いていた。




 午前の患者が来る前に、ルイーゼは薬棚の確認を終えた。


 引き出しをひとつひとつ、今日の分量を頭に入れながら閉めた。木の感触が、一つずつ手のひらの中を過ぎていった。


 クレマンが机の上に紙と羽根ペンを用意した。封蝋の棒が、小さく並んだ。


 エドワードは窓際に立っていた。外を見ているようで、どこも見ていなかった。


 手紙を書く前の時間があった。患者が来るまでの、短い静けさがあった。


 その静けさの中に、「頼んでいいか」という声がまだあった。


 七年間、エドワードはルイーゼに何かを頼んだことがなかった。命じたことはあった。要求したことはあった。「頼む」という形を取ったことは——なかった。


 ルイーゼは最後の引き出しを閉めた。


 今日から冬が一段深くなるかもしれなかった。引き出しの木が、明朝はもう少し乾いているかもしれなかった。手紙が届くには、雪道を越えていく馬が要った。年明けまで、まだ間があった。


 封蝋の棒が、朝の光の中でひっそりと光っていた。



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