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そうではない話

 朝の石壁に手を当てた瞬間、昨日より冷えが深いと分かった。


 指の腹が、石の温度を読んだ。冬の深さを、目より先に手が知った。小屋の中に炉の温かさがあっても、石の芯はそれとは別の時間で冷えていた。今日は雪が続くかもしれなかった。


 「昨日の続きを聞いていいか」という言葉が、まだ小屋の空気に残っているような気がした。




 エドワードは定刻より少し早く来た。


 クレマンが先に入っていた。机の上に昨日の書き取りを広げ、清書の確認をするつもりでいた。戸を叩く音がして、エドワードが入ってきた。今日の顔には、昨夜からの考えの跡があった。昨日の朝と同じ跡だったが、中身は違う。決めた後の顔ではなく、まだ決めていない顔だった。


 ルイーゼは薬棚の前で手を止めた。


 エドワードは椅子に座らなかった。壁際に立って、少しの間、部屋の中を見ていた。


「……続きを」


「はい」とルイーゼは言った。「処方の話ではないとのことでした」


 クレマンがペンを置いた。書き取りの構えをやめた。




 エドワードは窓の外を一度見た。雪が細く降っていた。昨日の続きの雪だった。


「なぜ、ここを選んだのか」


 ルイーゼはすぐに答えなかった。


 引き出しの把手を持ったまま、少しの間を置いた。問いの意味を確認していた。「ここ」というのが村のことであると、文脈からすぐ分かった。


「偶然です」とルイーゼは言った。「馬車が止まった場所がここでした」


 エドワードが動かなかった。


「偶然で、留まったのか」


 ルイーゼは引き出しを閉めた。それから、エドワードの方を向いた。


「……最初の三日は、次の村へ行くつもりでした」


 クレマンがペンを持ち直した。それから、置いた。書き取るべきかどうかを迷った末、置いた。


「三日目の朝、アシャの父親が薬草採りを手伝ってくれました。ドネルといいます。名前を聞かれました。ルイーゼと答えました」


「薬師だと言わずに?」


「言いました。ただ、名前の方を先に聞かれました。薬師かどうかより、名前の方が先だった」


 短い間があった。


「翌朝、また来ました。それだけです」


 エドワードは何も言わなかった。


 クレマンがかすかに、椅子をずらす音を立てた。立ち上がった。「少し外の空気を」と小さく言い、戸を開けて出ていった。足音が石畳の上で遠くなった。




 二人だけになった小屋の中に、雪の静けさが降りた。


 軽い沈黙だった。圧迫する沈黙ではなかった。ただ、クレマンの書き取る音がなくなっただけで、空気の質が変わった。ルイーゼはその変化を皮膚で受け取った。


「名前を聞かれた、か」


「はい。ここに来るまで、名前で呼ばれたことがなかった」


 エドワードの顔が、かすかに動いた。変わったというより——受け取った、という動きだった。


「三日目に来たドネルが、翌朝また来た。それで留まった」


「それだけではありませんでした」とルイーゼは言った。「ただ——最初は、それだけでした」


 エドワードは窓の方に目を向けた。雪が降り続いていた。




 少しの間、話が止まった。


 ルイーゼは薬棚の前に戻った。今日の朝の診察の準備をしながら、エドワードが次の言葉を選んでいるのを聞いていた。言葉が選ばれる前の静けさを、背中で感じていた。


「王都を出てから——戻ろうと思ったことはあるか」


 ルイーゼは手を止めた。


 今度は、すぐに答えが出なかった。


 出なかったのは、答えを知らなかったからではなかった。答えを確認するのに、少し時間が要った。王都を出てからの日々の何かを、今改めて触れるような感覚があった。


 炉の火が、静かに燃えていた。薬草の乾いた匂いが空気の中にあった。


「……呼ばれなかったから、考えませんでした」


 エドワードは動かなかった。


 沈黙が小屋の中に置かれた。軽くはなかった。形のある沈黙だった。天井の高さまで満ちるような、質量のある沈黙だった。


 ルイーゼは棚の引き出しに手を当てたまま、動かなかった。答えを取り消したいとは思わなかった。言った言葉は言った言葉だった。


 呼ばれなかったから、考えなかった。それが、ルイーゼの事実だった。


 エドワードが、長い間を経て言った。


「……そうか」


 それだけだった。


 「そうか」という声の中に何かがあることは、ルイーゼには分かった。ただ何であるかを、ルイーゼは問わなかった。


「……あなたは、呼ぶつもりがあったのですか」


 問いが、口から出ていた。


 エドワードは少しの間、答えなかった。


「……あった」とエドワードは言った。「ただ、方法が分からなかった」


 ルイーゼは何も言わなかった。それ以上聞かなかった。聞いてもいい問いだったが、今日はそこで止めた。




 それからしばらく、二人は別々のことをしていた。


 ルイーゼは今日の診察の準備を続けた。薬草の分量を測り、小袋に移し、引き出しに仕舞った。指先が仕事を覚えていた。頭が別のことを考えていても、手は動いた。


 エドワードは、窓際に立っていた。外を見てもいなかった。どこも見ていない目をしていた。


 患者が来たのは、その間だった。


 村の老人が一人——背中の痛みが続いているという、先月も来た農夫だった。


「先月と同じものを」と老人は言った。「あれが一番効く」


「少し薬草が変わっています」とルイーゼは言った。「秋のものより今の方が効きが強い。少し量を減らします」


「分かった。頼む」


 ルイーゼは薬を渡した。老人が出て行くと、また二人だけになった。


 エドワードはその間、黙っていた。ただ見ていた。




 クレマンが戻ってきたのは、昼前だった。


 戸を開けて入りながら、「失礼しました」と言った。ルイーゼは「いえ」と言った。


「寒くはなかったか」とエドワードが言った。


「大丈夫です」とクレマンは言った。「少し歩いていました。雪が積もり始めていました」


 クレマンは鞄の中から紙を取り出して机の上に広げ、何かを確認し始めた。


 部屋の中が三人になって、空気がまた変わった。


 エドワードが椅子を引いた。座った。机の上のクレマンの紙に少し目を落とした。それから、ルイーゼの方を見た。


「一つ、聞いていいか」


「はい」


「なぜ私がそれを聞くのか——と思うか」


 ルイーゼは少し止まった。


 エドワードが言った問いは、ルイーゼが口に出す前に先手を取った問いだった。なぜそれを聞くのか——と、ルイーゼ自身も考えていた。聞く手前まで来ていた言葉だった。それをエドワードが先に言った。


 クレマンがペンを持ったまま、止まっていた。


「……聞こうとしていました」とルイーゼは言った。「なぜ、そういうことを聞くのかと」


 エドワードは少しの間、黙った。それから、窓の外を見た。


「……分からない」


 ルイーゼは、その答えを受け取った。


「分かりたいから、聞いている」


 短い声だった。告白でも説明でもなく——ただ、事実を言っている声だった。


 ルイーゼは少しの間、その言葉を受け取った。


「……私も、分からないことがあります」とルイーゼは言った。「なぜここに留まったのか——今も、はっきりとは言えません」


「それでも留まった」


「はい」


 クレマンがペンを紙の上に置いた。今度は書き取るつもりはないようだった。ただ手を置いた。




 午後になって、雪が少し強くなった。


 ルイーゼは薬棚の引き出しを確認した。雪の日は空気が締まる。湿度が変わる。昨日の朝にも思ったことだった。昨日と今日で、小屋の中の空気の重さが違っていた。


 エドワードは帰る前に、鞄を肩に掛けた。クレマンが先に立ち上がった。


 エドワードが戸に手を掛けた。それから、止まった。


「一つだけ、言っていいか」


「はい」


 振り返らなかった。戸に手を掛けたまま、外を向いたまま言った。


「あなたがここでやってきたことは——王都では誰も知らない」


 ルイーゼは何も言わなかった。


 エドワードが少しの間を置いた。


「知らせるべきだったと思っている」


 それだけ言って、戸を開けた。


 クレマンが後に続いた。二人の足音が石畳の上に出て、遠くなった。エドワードの足音が重かった。クレマンの足音が少し早かった。やがて両方が、雪の静けさに飲まれた。




 小屋の中に、一人になった。


 ルイーゼは薬棚の前に立ったまま、動かなかった。


 「知らせるべきだったと思っている」という声が、まだ小屋の中にあった。


 思う、という言葉だった。後悔でも謝罪でもなかった。ただ——そう思っている、という声だった。


 雪が外で降り続いていた。石壁の冷えが、じわりと小屋の内側に滲んでいた。


 ルイーゼは引き出しに手を当てた。今朝と同じ、石の冷えより少し温かい木の感触だった。ここに来てから触れ続けた引き出しの、今日の温度だった。


 「知らせるべきだった」と言った声の重さが、手のひらにあった。引き出しの木の温度と、同じ場所にあった。



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