王都の最初のひび
外交府の廊下は、朝でも暗かった。
窓が少ないせいだ。節約のため魔法灯の数が削られて久しく、廊下の角には常に翳がある。七年間、ずっとそうだった。
クレマン書記官は、その翳の一つを背にして立っていた。補佐役様の執務室——正確には「補佐役用執務室」と台帳に記載された部屋——の扉の前に。
七時だった。約束は七時だった。
扉は閉まったままだった。
「……部屋に、誰もいないのですが」
廊下の端に立っていた新人書記官が、気まずそうに戻ってきた。
「鍵がかかっていないのか」とクレマンは聞いた。
「はい。開けてみたところ——荷物が、ほとんどなくて」
「荷物が」
「書類棚は空で。机の上には七冊の台帳だけ。鍵束が台帳の上に置いてありました」
クレマンは少し間を置いた。
「台帳に何か書いてあったか」
「確認はしていません」
「見てきてくれ」
新人が再び戻ったとき、蝋燭が一本細くなる時間が経っていた。
「台帳の表紙に、索引だけが書いてありました。外交文書。社交人脈。魔法陣維持記録。農業試験。調薬処方。孤児院収支。それから——最後の一冊だけ表紙が白紙で」
「中は?」
「紐が結んであって、開きませんでした」
第一報を受けたのは外交府長官だった。
長官は文書の束を机に置き、クレマンの顔を見た。
「補佐役が、いなくなった?」
「今朝から部屋が空です。昨夜の宴席には出席されていたと確認が取れています。それ以降の足取りは——」
「逃げた、ということか」
「それが」とクレマンは言葉を選んだ。「業務の引き継ぎ書類が、どこにも見当たらないのです」
「引き継ぎ書類?」
「来月の条約更新のスケジュール、隣国各担当者への返書の一覧、今週処理待ちの書簡——補佐役様がいつも準備されていたはずの書類が、書庫にも、執務室の棚にも」
長官は眉を寄せた。
「……では誰が書くのだ、返書を」
沈黙があった。
外交府に十七人いる書記官のうち、六人がその場に立っていた。長官は一人ひとりを見回した。
「隣国の文体規則——ミルフェラとの書簡の形式は、誰が把握している」
誰も手を挙げなかった。
「アルドリア侯国との条約交渉は。来週に回答期限があるはずだが」
また沈黙。
「補佐役様が担当されていました」と若い書記官が小声で言った。「窓口も、文体見本の準備も、全部」
「全部?」
「はい。私たちは——補佐役様が準備してくださった草稿に、確認の署名をするだけで」
長官は何も言わなかった。
クレマンは天井の魔法灯を見た。薄い青白い光が、少し揺れた。気のせいかもしれなかった。
王太子への報告は夕刻になった。
大臣が執務室の扉を開けたとき、エドワードは別の書類を広げていた。
「補佐役の件でございます」
「ああ、聞いた」とエドワードは書類から目を離さずに言った。「どこかに行ったのだろう。書記官が十七人いるではないか。誰かを充てればいい」
「それが殿下——来週の条約更新の対応書簡を書ける者が、外交府に一人もいないのです」
「書けないのか」
「根拠となる書類は全て残っています。ミルフェラの交渉窓口担当者の名前も、署名の形式も、相手方が要求してきた文言の変遷も——記録は全部あります。ただ、書簡一通を書くためには、過去十七年分の往復書簡と三種の条約原本と今年の外交日誌を同時に照合する必要があって——書記官三人で試みましたが、四日かかっても草稿ができておりません」
エドワードは書類から目を上げた。
「……書記官が十七人いて、三人掛かりで四日か」
「はい、殿下」
少し沈黙があった。
「では補佐役は、七年間いったい何をしていたのだ」
大臣は答えなかった。
答えられなかった——というより、どう答えるべきか、大臣自身もわかっていなかった。「補佐役様は何をしていたか」。その問いの答えを、この王宮で正確に把握している者が、果たして何人いたのか。
「誰か調べろ」とエドワードは言った。「何を担当していたか。引き継げるものから引き継げ」
「わかりました」
「それだけのことだ。一人いなくなったくらいで外交が止まるわけがない」
大臣は深くお辞儀をして、扉を閉めた。
夜、外交府に燭台が増えた。
書記官たちが残って書簡の草案を作ろうとしていた。クレマンもその一人だった。羊皮紙を広げ、ペンを取り、インクを付けた。
「ミルフェラ王国外交部担当閣下へ」
そこで止まった。
「担当閣下」。その名前が、わからなかった。七年間、ミルフェラとの書簡はいつも補佐役様の書き方で来ていた。返書も補佐役様が書いていた。誰の名前に宛てれば、返事が届くのか——クレマンは知らなかった。七年間、知らなかった。
ペンを置いた。
「補佐役様は何をしていたか」。エドワードの問いが、耳に残っていた。
七年間、廊下で「補佐役様、条約の件を」「補佐役様、席次の確認を」と声をかけ続けた。そのたびに「わかりました」と返ってきて、翌日には書類が整っていた。いつも整っていた。
どうやって、と考えたことが一度もなかった。
隣の席では若い書記官がミルフェラとの過去の書簡をひっくり返していた。書庫から引っ張り出してきた束は三年分で、どれも同じ形式、同じ署名の配置、同じ文体だった。
「これを全部、補佐役様が書いたんですか」と若い書記官は呟いた。独り言に近かった。
「そうだろう」とクレマンは言った。
「うちの書記官、何をしていたんですかね」
クレマンは答えなかった。
何をしていたか。書記官は書類を確認し、署名をし、長官に報告していた。補佐役様が準備した書類を。補佐役様が整えた情報を。七年間そうだった。おかしいとは思わなかった。誰かが整えてくれているなら、それがどのように整えられているかを気にしなかった。
廊下の燭台が揺れた。空気が動いたのか、あるいは魔法灯の光がほんの少し弱くなったのか——どちらかわからなかった。
翌朝、ミルフェラ王国から書簡が届いた。
封を開けた若い書記官が、少し黙った。
「どうした」とクレマンは言った。
「宛名が」と書記官は言った。
クレマンは書簡を受け取った。
羊皮紙の上段、宛先の欄に、丁寧な筆致で書かれていた。
「アルヴェイン王国外交補佐役、ルイーゼ様へ」
外交府が静かになった。
ルイーゼ、という名前を——クレマンは七年間、一度も口にしたことがなかった。
「補佐役様」と呼んでいた。七年間、ずっとそう呼んでいた。名前があることを、知らなかったわけではない。ただ、必要だと思ったことが、なかった。
書簡の差出人欄を見た。「ミルフェラ王国外交部第三局、アンドレース副長官」とあった。副長官の名前を、クレマンは知らなかった。しかしルイーゼは知っていた。だからこそ、副長官は「ルイーゼ様」と書いた。
七年間、ミルフェラはアルヴェイン王国の「補佐役」と交渉していた。それは「エドワード殿下」でも「外交府長官閣下」でもなく、「ルイーゼ」だった。
「……どうすればいいでしょう」と若い書記官が言った。
クレマンは書簡を机に置いた。返事を書く相手の名前はわかった。しかし書く側の名前が、もうなかった。
窓の外で、王都が朝の音を立てていた。馬の蹄、荷車の軋み、市場の声——すべてがいつも通りに聞こえた。
ただ外交府の机の上だけに、返事の書けない書簡が一枚、置かれていた。




