名前を知らない子
石を踏む音が、裏口の方から聞こえた。
ルイーゼは薬草を量りながら、その音を数えた。一つ、二つ、止まる。また動く。歩幅が広く、均一だった。村人ではなかった。村人はこの裏道を急がない。
エドワードが今日も、外を歩いていた。
ここ三日、エドワードは朝から夕まで村の中を歩いていた。
ルイーゼとの話が終わると、小屋に帰らなかった。最初の二日は広場の端に立って、子供たちが遊ぶのを眺めていた。三日目からは、村の外れまで足を伸ばしていた。何をしているかを問われたことはなかった。ルイーゼも聞かなかった。
クレマンが一度、困った顔で言いに来た。「殿下が農家の石垣の修繕を手伝おうとして、断られました」と。ルイーゼは「分かりました」と返した。それだけだった。
断られても、エドワードは翌朝また歩いていた。
薬棚の前で、引き出しを一つ開けた。
冬の乾燥した空気の中、乾燥させた金盞花の花びらが指先に触れた。薄く、ほとんど重さのない感触だった。七年間、この花の乾かし方だけで三度やり方を変えた。王都の冬と辺境の冬では、空気の乾き方が違う。辺境の方が乾く。乾きすぎると薬効が飛ぶ。だから今は一日早く仕舞う。
花びらを量りに乗せた。
外の石を踏む音が、今日は南の方へ向かっていった。
昼を過ぎて、ヘンリクが来た。
いつも通り、戸を三回叩いてから入ってきた。白い眉の下の目が、今日は少し別のものを持っていた。ルイーゼは茶を一杯出した。
「ドネルの子供は」とヘンリクは聞いた。
「今日の昼に診ました。咳が引いています。明日には熱も落ちるでしょう」
「そうか」とヘンリクは言った。茶碗を両手で持ったまま、少し間を置いた。「……あの王太子の話だが」
ルイーゼは手を止めずに「はい」と言った。
「今朝、クレマンという書記と少し話した。連れ戻す気はないんだな、と確かめたくてな」
「クレマンが何と言いましたか」
「分からん、と言っておった」とヘンリクは言った。「連れ戻す目的で来たのは間違いない。ただ殿下がどうするつもりなのか、自分にも読めないと。正直な男だな」
ルイーゼは薬草の束を小袋に収めた。紐の端が指に絡んだ。ほどいて結び直した。
「処方の話は続けています」とルイーゼは言った。「それだけです」
ヘンリクは茶を一口飲んだ。「お前が決めたことなら、わしは何も言わん」
その夕方、ヘンリクがエドワードと話したことを、ルイーゼは後から知らなかった。
ヘンリクが広場の端でエドワードを見つけたのは、日が傾き始めた頃だった。エドワードは石の縁に腰を下ろして、広場で遊ぶ子供たちを見ていた。見物しているというより——目で追っている、という感じだった。動くものを追う目の動き方をしていた。
「立ち話でいいか」とヘンリクは言った。
エドワードは立ち上がった。「はい」
二人は少しの間、並んで立っていた。子供たちが石の台の上を飛び移る声が続いた。
「あんたはここで何をしているのか」とヘンリクは言った。責める声ではなかった。ただ、答えを待っている声だった。
エドワードは少しの間、何も言わなかった。
「……教わっています」
「薬師に?」
「……そうだ」
ヘンリクは頷いた。肯定でも否定でもない、受け取った、という頷き方だった。それから、前を向いたまま言った。
「名前を知っているか」
エドワードが少し動いた。振り返りかけて、止まった。
「薬師の名前、ということですか」
「違う」とヘンリクは言った。「この村の人間の名前だ。毎日歩いているだろう。石垣を手伝おうとしたそうだな。声をかけた農家の者の名前を、あんたは知っているか」
エドワードは黙った。
ヘンリクはその沈黙を聞いた。聞き終えてから、続けた。
「お前さんが声をかけた農家はドネルという。嫁はモルカ。子供は今、薬師に診てもらっている。奥の畑で秋に変わった種を試していた男だ」
子供たちの声が広場に続いていた。石の台から誰かが飛んで、砂に着地する音がした。
「……ルイーゼは」とエドワードは言った。「七年間——この村で何年になるのか」
「二年半だ」とヘンリクは言った。「来た初日から、名前で呼んだ。こっちもルイーゼと呼んだ。それだけのことだが——お前さんには、まあそれだけのことが何かを語るだろうと思ってな」
エドワードは何も言わなかった。
ヘンリクは茶碗を持っていたわけでも、帳面を持っていたわけでもなかった。ただ立っていた。子供たちを見ていた。
「村の者の名前を覚えてから、また話しかけてみるといい」とヘンリクは言った。「それだけだ。急がんでいい」
そう言って、村長は広場を歩いて戻っていった。
エドワードは、その後しばらく石の縁に座り直した。
膝の上に手を置いた。指が指を押す動きをしかけて、止まった。
名前を知らない。
その言葉が、胸の奥で思ったより重かった。
声をかけた男の名前を、知らなかった。石垣を修繕していた、日焼けした手の男。断られた。「結構です」と言われた。断られた理由を、エドワードは手伝いを申し出た自分が不審者だったからだと思っていた。
そうではなかった、とも言えなかった。
ただ——断る相手の名前を、エドワードは今日まで気にしていなかった。
ドネル、とヘンリクは言った。
エドワードはその名前を、頭の中で一度繰り返した。ドネル。石垣の男。農家。秋に変わった種を試していた。
ルイーゼが、ドネルの妻が来たとき薬棚の前に立った。引き出しを開けた。迷わなかった。三日前から診ている、と言った。三日前、というのは——患者の名前と顔と日数が、ルイーゼの頭の中に揃っていた、ということだった。
自分には、揃っていなかった。
広場の声が続いていた。子供が一人、石の上から飛んで砂の上に転がった。泥がついたが、笑い声を上げた。仲間が走ってきた。名前で呼んでいた。
エドワードは、その声を聞いていた。
ルイーゼはその夕方、帳面の前に座っていた。
今日の診察の記録を書いた。ドネルの子供の熱の数値と、変えた薬草の組み合わせ。明日の朝に確認すべきこと。書き終えてから、ペンを置いた。
窓の外が、少しずつ暗くなっていた。
石畳の上に薄い夕焼けの橙が伸びて、それが消えた。冬の日暮れは早い。エドワードが今日歩いた道を、ルイーゼは知らなかった。聞いてもいなかった。聞く理由もなかった。
明日の処方の話の続きを、頭の中で整理した。
第三段階から先。薬草の品種の話が終わったら、保存方法に移る。保存方法は辺境と王都で変える必要があった。湿度が違う。その話をするのに、クレマンが書き取れる速さで話す必要があった。早く言っても残らない言葉は、言ったことにならない。
帳面の表紙に手を当てた。
冷えた革の感触が、指の腹から伝わってきた。夕方の小屋の空気が、少しずつ冷えていた。
翌朝、石臼の音の前に、戸を叩く音がした。
まだ朝の早い時間だった。ルイーゼは薬棚の前に立っていた。引き出しを開けていた。振り返って「はい」と言った。
「エドワードです。邪魔なら出直す」
「入ってください」
エドワードが入ってきた。今日は昨日より少し早い時間だった。顔に昨夜考えた跡があった。目の下の影が、薄く残っていた。
ルイーゼは手の中の薬草を机の上に置いて、椅子を一つ引いた。エドワードは座らなかった。立ったまま、少しの間、何かを選んでいる様子だった。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「ドネルの子供の名前は——何というのか」
ルイーゼは少し、止まった。
止まった自分に、気づいた。何を聞かれたかは分かった。なぜ聞くのかは、分からなかった。ただ——聞かれた、という事実が、朝の小屋の空気の中にあった。
「アシャといいます」とルイーゼは言った。「八歳です。昨日の昼から熱が引いています。今朝、また診に行くつもりです」
エドワードは「そうか」と言った。
短い返事だった。それだけだった。
ただ、その声に何かがあった。「そうか」という言葉の中に、受け取った重さがある声の出方だった。
「今朝、診に行くときに——私も一緒に行っていいか」
ルイーゼは少し、間を置いた。
「……邪魔はしないか」
「しない」
「では構いません」
ルイーゼはエドワードを見た。エドワードは今度はすぐに視線を返さなかった。窓の外の、まだ暗い朝の石畳の方を見ていた。
小屋の中に、朝の冷えた空気があった。薬草の乾いた匂いが底に残っていた。
ルイーゼは机の上の薬草に手を戻した。指先に、乾いた金盞花の花びらの薄い感触があった。




