表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/19

馬車が出る

 石臼の冷たさが、手のひらに残ったままだった。


 朝になっても消えなかった。昨夜、薬草を挽いていた間に体に入り込んだ冷えが、指の節の奥にあった。ルイーゼは水を汲みながら、右手の指を少し曲げた。冬が深くなる前の空気が、桶の縁から上がってきた。




 男が来たのは、朝の仕事が終わった頃だった。


 昨日と同じ時間に、昨日と同じ場所に立っていた。水場の手前、石畳が始まる角。旅装束も変わっていなかった。ただ——昨日より少し、立ち方が違った。背が一寸ほど、前に傾いていた。


「今日も、お仕事があるのですか」


 昨日より声が低かった。問いかけではなかった。確認だった。


「あります」とルイーゼは言った。「ヤヌシュの熱の経過を見に行かなければなりません」


 男は一拍置いた。


「昨日の——子供ですね」


「はい。今日が四日目です。薬を変えてから初めての朝の状態を確かめます」


「好転していますか」


「昨夜から汗が出ています。おそらく」とルイーゼは言った。「確かめに行きます」


「……四日で下がるものですか」と男は言った。


「薬が合えば」とルイーゼは言った。「合わなければ、もう少しかかります」


「都の医師でも同じことをするのですか」


「薬草の種類は違います」とルイーゼは言った。「でも、熱を見て、薬を調えて、経過を確かめる。それは変わりません」


「……なるほど」と男はつぶやいた。


 男はまた黙った。昨日とは違う沈黙だった。昨日の沈黙は計算だった。今日の沈黙は——何か別のものだった。ルイーゼにはそれが何かまだ分からなかった。


「一緒に行っても」と男は言った。


「どうぞ」




 ミナの家は広場から三軒先だった。


 男は昨日より少し近い距離についてきた。ルイーゼは気づいたが、何も言わなかった。石畳の上で二人分の足音が交互に鳴った。


 ミナの扉を叩くと、すぐに開いた。


「ルイーゼさん——昨日より下がってる」とミナは言った。声が違っていた。昨日の声には水底のような重さがあった。今日は少し浮いていた。


「額を触らせてください」


 子供は目を開けて、ルイーゼの顔を見た。薬草の匂いがした。布団が温かかった。ルイーゼは指の腹で額の皮膚に触れた。昨日より柔らかかった。体の中の熱が水になって外に出始めている——そういう柔らかさだった。


「今日の昼から、薄い粥に変えてください。飲み薬はあと二日続けます」


「水は飲めていますか」


「少し」とミナは言った。「さっきも少し飲みました」


「それでいいです」とルイーゼは言った。


「粥でいいの」とミナは言った。「薬草の汁をまぜてもいいですか」


「入れなくていいです。今は消化を助けることが先です」とルイーゼは言った。「お腹が受け付ける量だけ、少しずつ」


「分かりました」とミナは言った。それから声を落として続けた。「昨夜、何度も起きたんです。熱がまだあったから」


「夜は少し高くなることがあります」とルイーゼは言った。「今朝の状態が続けば、今夜は楽になります」


「そうですか」とミナは言った。少し息を吐いた。


「ありがとう」とミナは言った。「本当に、ありがとう」


 子供がルイーゼの手元を見ていた。何かを言いたそうな顔をして、それからやめた。眠そうだった。


「もう一度だけ来ます。あさって」




 外に出ると、男がまだそこにいた。


 空は曇っていた。山の向こうが白かった。雪が降りているかもしれなかった。


「……あなたは本当に、行かないつもりですか」


 男の声が変わっていた。


 ルイーゼは振り返った。男は顎を少し下げて、ルイーゼの顔を見ていた。昨日までの確認の目ではなかった。何か別のものを探している目だった。王命を持ってきた男が、今は王命を忘れたような顔をしていた。


 ルイーゼは少し間を置いた。


「行かない、ではありません」と彼女は言った。「今日も、薬を届けなければなりません」


 男は黙った。


「しかし——」と男は言いかけた。「都には、あなたを必要としている方がおられます」


「ここにも、必要としている人間がいます」とルイーゼは言った。「熱を下げる薬を待っている子供が。膝の腫れを抱えている老人が」


 男はまた黙った。口を閉じたまま、何かを飲み込んだようだった。


「……それが、あなたの答えですか」


「今の仕事の話をしています」とルイーゼは言った。「それだけです」


 男は何かを言いかけた。口が開きかけた。


 それから閉じた。


 二人の間に、遠い山の風の音が入ってきた。葉が少なくなった枝が鳴った。子供の家の煙突から煙が上がっていた。麦藁を燃やしている匂いがした。


 男の右手が、わずかに前へ出た——何かを差し出そうとした動作のように見えた。しかしその手はすぐに自分の腰のあたりに戻り、布地を一度握った。視線がルイーゼの顔から、子供の家の煙突へ移った。煙が風に流されるのを、少しの間だけ見ていた。


「……承知しました」と男はようやく言った。今日も従います、という意味ではなかった。何かを諦めた、というよりは——何かを受け取った、という声だった。




 昼を過ぎてから次の仕事に向かった。


 男はついてこなかった。村の外れの方へ戻っていった。ルイーゼはそれを確かめてから、薬草の束を持って老人の家へ向かった。男がいない午後だった。


 バルタ婆さんの膝の腫れは昨日より落ちていた。外に塗った薬草が効いていた。


「昨日の旅の若者は、もう帰ったのかい」と婆さんは言った。


「まだ村に」


「都から来た人間にしちゃ、妙な目をしてたね」と婆さんは言った。「あんたをずっと見てたけれど、何かしたわけでもなかった」


「仕事の話をしただけです」


「そうかい。それならよかった」と婆さんは言った。「帰り道、気をつけなよと伝えてやって」


「はい」


 帰り道、空が少し暗くなっていた。午後の光が早く落ちる季節だった。




 夕方、ヘンリクが来た。


 珍しく戸を二度叩いた。いつもは一度だった。


「入ってください」


 ヘンリクは戸口に少しの間立っていた。中に入って、椅子を引かずにそのまま立ったまま話した。それもいつもと違った。


「あの若者が、今日の夕刻に何かを受け取ったらしい」と彼は言った。「鳩かもしれない。村の外れで鳥が降りたとドネルが見ていた」


「指示ですか」


「かもしれない」とヘンリクは言った。「明日は来ないかもしれない」


 ルイーゼは臼を持ったまま止まった。


 来ない。男が来ない。


 それはこの数日の緊張が終わる、ということだった。終わる——ただし、その先に何があるかは別の話だった。密偵が引き上げるということは、次の手が来るということでもあった。


「分かりました」


「怖いか」とヘンリクは言った。


 ルイーゼは少し考えた。怖いか。


「次が来るまでは、少し静かになります」とルイーゼは言った。「怖いというより——待つ気持ちです」


「そうか」とヘンリクは言った。「村にいる間は、何があっても一人にしない」


「ありがとうございます」


「礼はいらない」とヘンリクは言った。「ヤヌシュはよくなりそうか」


「あさってまでに確かめます」とルイーゼは言った。「今日の状態は悪くありませんでした」


「何か困ったことはないか」とヘンリクは続けた。


 ルイーゼは少し考えた。困ったこと。困ったことは——なかった。今日も仕事をした。明日も仕事がある。あさってはヤヌシュの最後の診を届ける。


「今のところ、ありません」


「あの男があなたに何か言ったか」とヘンリクは言った。


「仕事の話をしました」とルイーゼは言った。「それだけです」


 ヘンリクはそれ以上聞かなかった。


「そうか」とヘンリクは言った。「明日も来る」


 それだけ言って出ていった。扉が閉まった。ヘンリクの足音が遠ざかった。石畳の上を踏む、確かな音だった。




 王都を出る朝のことを、エドワードは後から記憶として持つことになった——今はまだ、記憶になっていなかった。


 馬車の内側の木の壁が冷えていた。腰掛けの革が硬かった。窓は薄い布で仕切られていて、外の光が白く透けた。クレマンが向かいに座っていた。


「出発します」と声が外から聞こえた。馬車が揺れた。


 エドワードは窓の布を少し持ち上げた。


 王都の屋根が見えた。石の屋根が連なっていた。朝の光が低い角度から石の上に落ちていて、影が長かった。照明魔法が落ちた区画が、朝になっても薄暗いままだった。その区画の輪郭が、高い場所から見るとよく分かった——魔法の光がないと、石の色が違うのだと今頃知った。


 馬車が動いた。屋根の連なりが後ろに流れ始めた。


 連れ戻す——その言葉が、内側にあった。


 処方書の不在を知ったあの夜、初めて口にしたとき、その言葉は王国のためだった。処方書が必要だった。七つの役割が止まっていた。道具を取り戻す、という意味だった。


 今は——違った。


 どう違うのか、エドワードには言葉がなかった。ただ、白い表紙の台帳を読んだ夜から、言葉の中身が変わった。道具を呼び戻す言葉ではなくなった——では何の言葉になったのか、それはまだ分からなかった。分からないまま、馬車に乗った。


 クレマンが何かを言いかけた。エドワードは窓から目を離さなかった。


「……殿下」とクレマンはようやく言った。「辺境まで四日かかります。準備は整っております」


「分かっている」とエドワードは言った。「何も聞くな」


 クレマンは静かになった。


 屋根が尽きた。王都の外壁が見えた。城門を過ぎた。石の道が土の道に変わった。馬の蹄の音が少し変わった。


 エドワードは布を戻した。


 窓の外はもう、野原だった。




 夜が深くなっていた。


 臼は今日は早く終えた。ヘンリクの話を聞いてから、頭の中が少し静かだった。明日、男が来ないかもしれない。その静けさが、今夜は早く来た。


 ルイーゼは記録帳を開いた。


 日付を書いた。今日の仕事を書いた。ヤヌシュの熱が下がり始めたこと。バルタ婆さんの腫れが引きつつあること。明日の薬草の仕込みの予定。あさってヤヌシュを最後に診ること。


 書きながら、男の声を思い出した。


 ——あなたは本当に、行かないつもりですか。


 その声に、怒りはなかった。命令もなかった。ただ——確かめたかっただけのような声だった。何かを探している人間の声だった。王命を持ってきた男が、最後には王命を忘れた声で話していた。


 ルイーゼは答えを思い出した。


 行かない、ではありません。今日も、薬を届けなければなりません。


 拒絶の言葉ではなかった。今日もここにいる、という言葉だった。明日もここにいる、という言葉だった。ここが、今のルイーゼの場所だった——追われてもなく、逃げてもなく、ただここにいた。


 ペンが止まった。


 しばらく、ページの白いところを見ていた。


 手のひらの指の節が、今日もまだ少し冷えていた。朝から続いていた。石臼の冷たさが一日かけて体に入り込んだ、その感触が、夜になっても指の奥にあった。


 ルイーゼはページの末尾に、一行書いた。


 記録ではなかった。備忘でもなかった。以前の夜と同じように、ただ書いた。


 ——ここに、いる。


 インクが乾くのを待った。乾く間、指先の冷えがあった。朝から続いていた冷えが、今夜も指にあった——それが、今夜はなぜか証明のように感じた。この手がここに在る。今日も動いた。今日も届けた。今日も、ここにいた。


 蝋燭の炎が静かだった。


 小屋の外、遠くに何かの気配があった。密偵が村の外れにいる気配か、あるいは別の何かか——ルイーゼには判断がつかなかった。ただ今夜は、それを確かめに行かなかった。


 帳を閉じた。


 今夜の仕事は終わった。




 翌朝、男は来なかった。


 ルイーゼは臼を引きながら待った。来るとしたら朝の仕事が始まる頃だった。水を汲みに行った。石畳の角に誰もいなかった。村の外れの廃屋を遠くから確かめると、煙が出ていなかった。火を入れた痕跡が消えていた。


 男は引き上げた。


 水場の近くで、ドネルが薪を割っていた。


「今朝は来なかったな」とドネルは言った。振り向かずに言った。


「そうですね」とルイーゼは言った。


「ヘンリク村長が言ってた通りだ」とドネルは言った。「しかし次が来るんだろう」


「そうかもしれません」


 ドネルは斧を振り下ろした。木が割れる音がした。それ以上何も言わなかった。


 ルイーゼは桶を持ち直した。水の重みが両手にあった。空が白かった。山の向こうの雪がまだ遠かった。


 静かだった。


 密偵が来なくなった静けさが、今朝の空気の中にあった。ただ——その静けさは昨日の静けさとは違った。昨日の静けさは「今夜か」という予感の静けさだった。今朝の静けさは——何かが始まる前の静けさだった。


 水場から村の入り口の方へ、道が続いていた。その先に山越えの道があった。王都方向からの道だった。


 音がした。


 最初は風の音かと思った。木の枝が鳴る音に似ていた。ただ、一定だった。周期があった。遠かった。まだ山の向こうか、あるいは山を下り切った手前か——車輪が地面を叩く音が、そこにあった。


 ルイーゼは立ち止まった。


 桶を両手に持ったまま、村の入り口の方向を見た。建物の陰で、その先の道はまだ見えなかった。音だけがあった。馬の蹄の音ではなかった。車輪の音だった。一台——いや、二台か。


 村の犬が一度だけ吠えた。


 ルイーゼは動かなかった。


 手のひらの中に桶の取っ手があった。冷たかった。朝から続いていた冷えが指の節にあった。


 音は近づいていた。


 ゆっくりと。確かに。


 桶の取っ手の冷たさが、急に指の奥まで戻ってきた。朝からそこにあった冷えが、今この瞬間だけ、くっきりと感じられた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ