王都:処方書なし
患者の数が、三日で倍になった。
宮廷医師から報告が届いたのは朝だった。昼には下町の診療所から追加の報告が来て、夕方には衛兵の詰め所から「発熱で当直を欠いている者が数名いる」と届いた。クレマンは書類を重ねながら、数字がまだ動いている、と感じていた。
季節が変わる頃の疫病は、毎年来た。去年も、一昨年も来た。それでも王都で大流行にはならなかった——なぜなら、来ていたからだった。
クレマンは外交府の執務室で、台帳を三冊並べていた。
補佐役様が残した台帳は七冊ある。そのうちの二冊——外交文書の記録と社交界の人脈台帳——はすでに解読を試みていた。三冊目を開いたのは今日が初めてだった。表紙には細い字で「疫病対策・処方記録」とあった。表紙の色は青かった。
「開けますか」と若い書記官が言った。
クレマンは既に表紙をめくっていた。
最初のページに、目次があった。年度別に処方書の名前が並んでいた。ページ番号が振られていた。書式は整然としていた。これは読める、とクレマンは思った。
二ページ目に進んだ。
処方書があった。
材料の名前があった。分量があった。調合の手順が書いてあった。記号の混じっていない、普通の言葉で書かれた手順だった。魔法陣台帳とは違った。読める。
ただ——。
手が止まった。
「どうされましたか」と書記官が聞いた。
「読める」とクレマンは言った。「ただ」
「ただ?」
「手順が書いてある。分量が書いてある。しかし材料の欄に『薬師に確認』と書いてある箇所が三か所ある」
書記官が横からのぞき込んだ。
「薬師に……どの薬師にでしょうか」
「書いていない」
沈黙があった。書記官がページをめくった。クレマンもめくった。どの処方書にも、同じ言葉があった。「薬師に確認」「実地で調整」「前年の配合を参照——補佐役殿のご判断による」。
調合の骨格は書いてある。それを実際に薬に仕上げる最後の工程が、どこにも書いていない。
それはなぜか。
書記官が静かに答えを言った。「……補佐役様ご本人が調合されていたからでしょうか」
「そのようだ」とクレマンは言った。
台帳を閉じた。青い表紙が、執務室の光の中で静かだった。
昼過ぎ、宮廷医師のバルターが来た。
五十代の男で、顎鬚が白くなりかけていた。書類を小脇に抱えていた。顔に疲労があった。
「患者数の更新を持ってきました」とバルターは言った。「下町だけで四十名を超えています。熱と咳の症状が主です。季節型と思われますが」
「対処できますか」
「それで参りました」とバルターは少し口調を変えた。「例年はこの時期、補佐役様から処方書をいただいていたのです。今年は——まだ届いておりませんで」
クレマンは手を止めた。
「処方書を、補佐役様からいただいていた」
「はい。毎年秋になると、その年の流行型に合わせた配合で処方書を作成されて、こちらへ。三年前の大流行の際も、彼女の処方で患者数を抑えることができた——」
「今年はまだ届いていない」
「えぇ。例年この時期には届いているはずなのですが、今年は」
「補佐役様は七ヶ月前に王都を離れておられる」とクレマンは言った。「七ヶ月前から、ずっと届いていない」
バルターは言葉に詰まった。
「存じませんでした」と彼は言った。「てっきり、どこかの部署に届いているのかと——」
「どこにも届いていない。台帳に処方書の骨格はある。しかし最終的な配合は、彼女が毎年直接調整されていたようです」
診療所の代表が、低い声で聞いた。「では、今年は——」
「今年の処方書は存在しない、ということになります」
部屋の中に静けさが落ちた。バルターの手にあった書類の束が、音もなく揺れた。
執務室の窓の外に、王都の屋根が見えた。
秋だった。空が白く濁っていた。遠くに見える魔法灯の柱のうち、消えているものが三本あった。先月より一本増えていた。
七年間。
クレマンは椅子に腰を落ち着け、紙を一枚取り出した。自分のための覚書として、事実だけを書こうとした。
「疫病対策:処方書の骨格は台帳三冊目(青表紙)に存在する。ただし最終配合の工程は書かれておらず、毎年補佐役様が直接判断していた模様。今年の処方書は存在しない」
書いて、止まった。
七年間、宮廷で補佐役様の傍で仕事をしていた。それがどういうことかは、今更言うまでもなかった——はずだった。
しかし自分も知らなかった。彼女が毎年秋に処方書を届けていたことは、今日バルターから聞いて初めて知った。七年間、宮廷医師の手に処方書が届くまでの過程を、クレマンは一度も意識したことがなかった。疫病が来て、処方書が来て、患者が減った。それが毎年の秋だった。
誰が処方書を作っているかを、誰も気にしなかった。
クレマンはペンを置いた。
廊下から足音が聞こえた。書記官が報告書を抱えて走っていた。また患者数の更新だった。
エドワードへの報告は夕方にした。
王太子の執務室は、いつも整然としていた。書類が積まれていても、積み方に秩序があった。エドワードは窓際の椅子に座り、クレマンが入ると顔を上げた。
「疫病の件か」
「はい」とクレマンは言った。「事実として申し上げますと——今年の処方書が、存在いたしません」
エドワードは少し止まった。
「処方書が」
「台帳の三冊目、青い表紙の台帳に疫病対策の骨格は記録されております。ただし毎年の最終配合は補佐役様がご本人で調整されておりました。台帳はあくまでも骨格の記録であり、実際に効く薬を作るための最終工程は——彼女の頭の中にしかない形式知でございました」
エドワードは何も言わなかった。
窓の外に夕暮れがあった。建物の影が長くなっていた。遠くの廊下の窓が、また一部だけ暗かった。
「つまり」とエドワードは言った。「処方書を置いてきたはずなのに、置いてきていなかった」
「置いてきた、という認識がそもそも成立しない形だったかもしれません」とクレマンは言った。「台帳には記録があります。ただ、記録を実際の薬に変えるための知識は、記録できる形になっていなかった——という方が正確かと存じます」
エドワードが窓の外に目を向けたまま、ゆっくりと言った。
「七年間、毎年彼女が作っていたのか」
「宮廷医師バルター殿のお話では、例年この時期に処方書が届いていたとのことです。三年前の大流行の際も、彼女の処方で患者数を抑えた——」
「三年前も彼女だったのか」
「はい」
エドワードは立ち上がった。窓のそばに近づいて、外を見た。背中を向けた姿勢で、しばらく何も言わなかった。クレマンは次の言葉を待った。
沈黙があった。部屋が暗くなり始めていた。秋の日が短かった。
「クレマン」とエドワードは言った。「七つの役割リストを覚えているか」
「はい」
「先月、書こうとした。四つで止まった」
「存じております」
「五つ目を」とエドワードは続けた。「疫病対策——と書いてから消した。役割の名前になっていない気がした」
「……そのようでございますね」
「今なら分かる」とエドワードは静かに言った。「名前を付けられなかったのは、役割が一つに収まっていなかったからだ。処方書を作ること。調合の最終判断をすること。毎年の流行型を観察して処方を変えること。それが全部で一つの役割だった——という認識が、私にはなかった」
クレマンは何も言わなかった。
「六つ目と七つ目も、おそらく同じだ」とエドワードは続けた。「私が名前を付けられなかったのは、彼女が何をしているかを一度も正確に知らなかったからだ」
言葉が、部屋の中で少し重くなった。
クレマンは書類を持ち直した。言うべきことがあった。事実として述べるべきことがあった。
「一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「言え」
「殿下が七年間、彼女の仕事の全容を知らなかったことは、事実でございます。ただ——私も知りませんでした。外交府で毎日書類の整理をして、台帳を抱えて廊下を歩いていたのに。台帳の読み方を一度も聞かなかった。処方書がどこから来るかを、一度も確かめなかった」
エドワードは背中を向けたまま動かなかった。
「七年間、私も同じ場所にいた。それが事実でございます」
部屋の暗さが増していた。
蝋燭に火がまだ点いていなかった。窓から差し込む夕陽が、机の上の紙を斜めに照らしていた。その紙には、四つの項目が書かれていた。
一つ目。外交文書の代筆。
二つ目。社交界の人脈管理。
三つ目。魔法陣の維持。
四つ目。農業試験場の運営支援。
一か月前に書いて、そこで止まった紙だった。
エドワードは机に戻り、紙を手に取った。
五つ目を書こうとした。ペンを持った。
「疫病対策の調薬処方」と書いた。
今度は消さなかった。書いてから、その文字を見た。八文字で書けた。しかし実際にはその言葉の中に、七年分の観察と判断と経験が詰まっていた。エドワードが名前を付けたのは、皮袋だけだった。
六つ目——孤児院の資金調達、とクレマンが以前の報告で言っていた。書いた。
七つ目。
ペンが止まった。
七つ目は何か。鍵のかかった台帳。まだ開けていない白い表紙の台帳。七ヶ月間、机の端に置いたまま、触れていない。
エドワードはペンを置いた。紙を見た。六つ書いた。一つが空欄だった。
外交が止まった。社交界が崩れた。魔法陣が消えた。農業試験場が方針を失った。疫病の処方書が、ない。孤児院の資金調達が——どうなっているかを、エドワードは今日初めて「確認しなければならない」と思った。七ヶ月間、誰も確認していなかった。
六つ失った。
七つ目は、何か。
蝋燭に火を点けなければならなかった。部屋が暗くなっていた。しかしエドワードはしばらく、暗い部屋で紙を見ていた。
クレマンは執務室に戻る廊下で、足音を数えた。
自分の足音だった。石の床に、規則正しく響いていた。三十年近く歩いてきた廊下だった。補佐役様がいた七年間も、この廊下を歩いていた。彼女とすれ違ったことが何度かあった。書類を抱えて、静かに歩いていた。こちらが声をかけると、少し止まって答えた。用件が終わると、また歩き出した。
一度も聞かなかった。
何を持っているか。どこへ行くのか。この台帳は何の記録か。
問いが浮かばなかったのではない。浮かばなかったとは言えなかった。ただ——彼女は道具だと思っていた。動いて当然の道具を前に、なぜ動くかを問う習慣が、自分にも染みついていた。
廊下の端の魔法灯が一つ、また薄くなっていた。先月より光量が落ちている。台帳に記録があるが読めない。補充のやり方を知る人間が、王都にいない。
足音だった。廊下だった。灯りだった。
クレマンは執務室の扉を開けた。机の上に書きかけの覚書があった。「疫病対策:処方書は存在しない」。
その続きを書くべきことが、今夜はある、と思った。
夜、エドワードは使者に関する書類を手に取った。
誰かを辺境に送ることができる。情報の確認のために。密偵はすでに動いている——先週の報告で、現地に到着したとあった。次の指示を待っている段階だった。
エドワードは書類を机の中央に移した。
連れ戻す。
その言葉が、頭の中で一度だけ音を立てた。王族らしくない言葉だった。道具に対して使う言葉ではなかった。しかし他に言葉が出てこなかった。
机の上に紙があった。六つの項目が書かれた紙だった。七つ目の欄が空のままだった。
あの道具は、いったい何をしていたのか。
今夜初めて——それが問いとして成立した。七ヶ月前、エドワードはその問いを持っていなかった。問いが生まれる前に彼女は去っていた。
使者の指示書に、エドワードはペンを取った。
窓の外に王都の夜があった。灯りの消えた廊下の窓が、遠くに暗く見えた。患者の数は今夜も増えているはずだった。処方書はどこにもない。
ペンが動いた。




