辺境の秋
朝、霜が降りていた。
小屋の戸を開けると、草の上に白いものが薄く積もっていた。触れると水になった。霜というものを最後に見たのはいつだったか——王都の石畳では、霜はすぐに踏み消された。ここでは草の間に残っていた。
ヘンリクが来たのは、それからしばらく経った頃だった。
「今日から麦を刈る」と彼は言った。「手が多いほどいい。来るか」
ルイーゼは少し考えた。断る理由がなかった。
「行きます」
ドネルの畑は村の東の端にあった。
ヘンリクが前を歩き、ルイーゼはその後ろを歩いた。道の両側に麦が揺れていた。秋の陽に光っていた。麦穂の重みで茎が少し傾いていた——よく実った証拠だった。農業試験場で見た数値が一瞬頭をよぎって、すぐに消えた。
「今年は出来がいいな」とヘンリクが独り言のように言った。
「……そうですね」
「ドネルが喜ぶ」
畑の端に人影があった。ドネルと、その妻と、息子が二人いた。それからミナがいた。コラも来ていた。手に小さな籠を持っていた。
「ルイーゼさんも来た」とコラが言った。
「来ました」
「一緒に刈るの」
「刈り方を教えてもらえるなら」
コラが少し胸を張った。「教えてあげる」
鎌の持ち方を教えてもらった。
コラが手を添えながら「こうやって」と言った。茎を束ねて根元から刈る。
「力を入れすぎると手首が疲れる」とコラは言った。「角度が大事」
「角度」
「うん。斜めに入れるの。真っ直ぐだと引っかかる」
実際にやってみると、引っかかった。コラが「もう少し斜め」と言った。角度を変えると、すっと通った。
「そう、そんな感じ」
七歳の子供が言う「角度が大事」は、きちんと正しかった。
最初の一束を刈ったとき、思ったより重かった。
二束目からはコツが分かった。茎が手のひらに擦れた。鎌の柄が木の匂いをしていた。
ドネルが横を通り過ぎながら「飲み込みが速い」と言った。
「コラが上手く教えてくれました」
「それはそれで結構なことだ」
隣でドネルが刈り進んでいた。ヘンリクが束を縛っていた。ミナが運んでいた。それぞれが黙って動いていた。言葉を交わさなくても、誰かが止まれば誰かが補った。長年の勝手知ったる動きだった。
王都の書類仕事も似ていると思った。誰かがどこかで詰まれば補う。役割を割り振らなくても自然に動く。ただ、王都では補う人間がいつもルイーゼだった。
麦を一束刈った。
ここでは、ルイーゼは補う一人でしかなかった。
昼に、畑の端で食事をした。
ミナが持ってきたパンと、ドネルの妻が作ったスープがあった。みんなで石に腰かけて、器を持って食べた。椅子はなかった。テーブルもなかった。スープは少し冷めていた。
うまかった。
なぜうまいのか、ルイーゼには言葉にできなかった。冷めているのに、それが不満ではなかった。外で食べているせいか、手を動かした後だからか——分からなかった。ただ、スープが冷めていることより、器が温かいことのほうが先に手に届いた。
「ルイーゼさんは上手いな」とドネルが言った。「初めてにしては」
「コラに教えてもらいました」
コラが「そう」と言って、誇らしそうに器を両手で持った。ミナが「あら」と言って笑った。
「字は読めるんだろ」とドネルが言った。
「はい」
「じゃあ来年の種麦の配給、書類の読み方教えてくれないか。毎年ヘンリクじいさんに頼んでるんだが——」
「読めます」とルイーゼは言った。「種麦の配給の書類なら」
少し間があった。
「……詳しいんだな」
「少し」
「王都にいたのか」とドネルが聞いた。
ルイーゼはパンを持ったまま少し止まった。
「前はいました」
「そうか」とドネルは言った。それだけだった。スープに戻った。ルイーゼも戻った。
「スープ、おいしい」とコラが言った。
「そうですね」とルイーゼは言った。
午後も刈り続けた。
陽が傾いてくると、影が長くなった。麦の束がいくつも並んだ。
「ルイーゼさん、そっちの列をお願いできる」とミナが言った。
「わかりました」
ミナが示した列は少し細かった。間隔が狭くて、鎌を入れにくかった。
「ここは去年からそういう育ち方なの」とミナが隣に来て言った。「細いけど実はちゃんと入ってる。ドネルが言うには土が違うんだって」
「土が」
「そう。この一角だけ少し深いらしい。だから丈が違う」
ルイーゼは足元を見た。確かに、土の色が少し濃かった。農業試験場で見た土の記録を思い出したが、言葉にはしなかった。
「なるほど」とだけ言った。
ミナが「ね」と言って、別の列に戻った。
ドネルの息子のひとりが「今年は去年より二割多い」と言った。ドネルが「そうか」と答えた。その「そうか」には、様々なものが入っていた。
刈り終えた畑の端に立った。
刈り取った後の麦の切り株が、整然と並んでいた。地面が見えていた。土の匂いがした。王都の石畳の下には土があったが、匂ったことはなかった。
コラが「終わったね」と言った。
「終わりましたね」
「疲れた」
「私も少し」
「ルイーゼさんも疲れるんだ」
ルイーゼは少し考えた。
「疲れます」
「王都の人は疲れないのかと思った」
「疲れます。同じように」
コラは「ふうん」と言って、手の土を服で拭いた。
「来年も来る」
来年。
ルイーゼは少し止まった。来年という言葉が、王都にいた七年間には違う重さを持っていた。来年もまた続く、という重さだった。ここでは来年という言葉が、また麦を刈る、という明るい予告だった。
「来ます」とルイーゼは言った。
帰り道は一人だった。
ドネルたちは片づけがあった。コラがミナに手を引かれながら「またね」と言った。
「またね」とルイーゼは言った。
ヘンリクだけが、しばらく残っていた。
「助かった」とヘンリクは言った。「手が増えると段違いだ」
「私は足手まといだったかもしれません」
「そんなことはない」とヘンリクは言った。「来年また来るか」
「コラにも聞かれました」
ヘンリクが少し笑った。「で、何と答えた」
「来ます、と」
「そうか」とヘンリクは言って、先に歩き出した。
ルイーゼは最後まで残って、麦束を一つ納屋に運んでから出た。
夕暮れの道は、赤かった。
空が橙色になっていた。麦畑の残った切り株が光を吸って、地面がほんのり暖かく見えた。鳥が一羽、畑の上を横切った。
手のひらが少し痛かった。鎌の柄の当たり跡だった。
ルイーゼは歩きながら、その痛みを確かめた。左の人差し指の付け根。右の親指の腹。昨日まではなかった痛みだった。
今日、自分は何をしたか。
麦を刈った。スープを飲んだ。コラに鎌の持ち方を教えてもらった。ドネルに「上手い」と言われた。来年も来ると言った。
役割も肩書きもなかった。ただルイーゼという名前で、麦を刈った一日だった。
口の端が少し上がった。
気づいたのは、なってからだった。笑っていた。何かがおかしかったわけでも、嬉しいことを思い出したわけでもなかった。ただ、手のひらの痛みと夕暮れの赤と麦の切り株の並びが、そこにあった。それだけだった。
足が、一瞬止まった。
七年間、笑うには何か材料が要ると思っていた。違った。
「来年も来ます」
口に出してみた。誰もいない道だった。コラにもヘンリクにも言った言葉を、今は自分に向かって言っていた。
また歩き始めると、口の端は自然に戻っていた。
夕暮れと、麦と、手のひら。それだけがあった。
小屋が見えてきた頃、笑みはもう消えていた。消えたというより、そっと畑に置いてきたような気がした。
戸を開けると、部屋の中が少し暗かった。蝋燭に火を点けた。
机の上に昨日の記録帳があった。三行しか書いていなかった。
「今日は、何行になるだろうか」
声に出したつもりはなかった。出ていた。




