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13/15

辺境の秋

 朝、霜が降りていた。


 小屋の戸を開けると、草の上に白いものが薄く積もっていた。触れると水になった。霜というものを最後に見たのはいつだったか——王都の石畳では、霜はすぐに踏み消された。ここでは草の間に残っていた。


 ヘンリクが来たのは、それからしばらく経った頃だった。


「今日から麦を刈る」と彼は言った。「手が多いほどいい。来るか」


 ルイーゼは少し考えた。断る理由がなかった。


「行きます」




 ドネルの畑は村の東の端にあった。


 ヘンリクが前を歩き、ルイーゼはその後ろを歩いた。道の両側に麦が揺れていた。秋の陽に光っていた。麦穂の重みで茎が少し傾いていた——よく実った証拠だった。農業試験場で見た数値が一瞬頭をよぎって、すぐに消えた。


「今年は出来がいいな」とヘンリクが独り言のように言った。


「……そうですね」


「ドネルが喜ぶ」


 畑の端に人影があった。ドネルと、その妻と、息子が二人いた。それからミナがいた。コラも来ていた。手に小さな籠を持っていた。


「ルイーゼさんも来た」とコラが言った。


「来ました」


「一緒に刈るの」


「刈り方を教えてもらえるなら」


 コラが少し胸を張った。「教えてあげる」




 鎌の持ち方を教えてもらった。


 コラが手を添えながら「こうやって」と言った。茎を束ねて根元から刈る。


「力を入れすぎると手首が疲れる」とコラは言った。「角度が大事」


「角度」


「うん。斜めに入れるの。真っ直ぐだと引っかかる」


 実際にやってみると、引っかかった。コラが「もう少し斜め」と言った。角度を変えると、すっと通った。


「そう、そんな感じ」


 七歳の子供が言う「角度が大事」は、きちんと正しかった。


 最初の一束を刈ったとき、思ったより重かった。


 二束目からはコツが分かった。茎が手のひらに擦れた。鎌の柄が木の匂いをしていた。


 ドネルが横を通り過ぎながら「飲み込みが速い」と言った。


「コラが上手く教えてくれました」


「それはそれで結構なことだ」


 隣でドネルが刈り進んでいた。ヘンリクが束を縛っていた。ミナが運んでいた。それぞれが黙って動いていた。言葉を交わさなくても、誰かが止まれば誰かが補った。長年の勝手知ったる動きだった。


 王都の書類仕事も似ていると思った。誰かがどこかで詰まれば補う。役割を割り振らなくても自然に動く。ただ、王都では補う人間がいつもルイーゼだった。


 麦を一束刈った。


 ここでは、ルイーゼは補う一人でしかなかった。




 昼に、畑の端で食事をした。


 ミナが持ってきたパンと、ドネルの妻が作ったスープがあった。みんなで石に腰かけて、器を持って食べた。椅子はなかった。テーブルもなかった。スープは少し冷めていた。


 うまかった。


 なぜうまいのか、ルイーゼには言葉にできなかった。冷めているのに、それが不満ではなかった。外で食べているせいか、手を動かした後だからか——分からなかった。ただ、スープが冷めていることより、器が温かいことのほうが先に手に届いた。


「ルイーゼさんは上手いな」とドネルが言った。「初めてにしては」


「コラに教えてもらいました」


 コラが「そう」と言って、誇らしそうに器を両手で持った。ミナが「あら」と言って笑った。


「字は読めるんだろ」とドネルが言った。


「はい」


「じゃあ来年の種麦の配給、書類の読み方教えてくれないか。毎年ヘンリクじいさんに頼んでるんだが——」


「読めます」とルイーゼは言った。「種麦の配給の書類なら」


 少し間があった。


「……詳しいんだな」


「少し」


「王都にいたのか」とドネルが聞いた。


 ルイーゼはパンを持ったまま少し止まった。


「前はいました」


「そうか」とドネルは言った。それだけだった。スープに戻った。ルイーゼも戻った。


「スープ、おいしい」とコラが言った。


「そうですね」とルイーゼは言った。




 午後も刈り続けた。


 陽が傾いてくると、影が長くなった。麦の束がいくつも並んだ。


「ルイーゼさん、そっちの列をお願いできる」とミナが言った。


「わかりました」


 ミナが示した列は少し細かった。間隔が狭くて、鎌を入れにくかった。


「ここは去年からそういう育ち方なの」とミナが隣に来て言った。「細いけど実はちゃんと入ってる。ドネルが言うには土が違うんだって」


「土が」


「そう。この一角だけ少し深いらしい。だから丈が違う」


 ルイーゼは足元を見た。確かに、土の色が少し濃かった。農業試験場で見た土の記録を思い出したが、言葉にはしなかった。


「なるほど」とだけ言った。


 ミナが「ね」と言って、別の列に戻った。


 ドネルの息子のひとりが「今年は去年より二割多い」と言った。ドネルが「そうか」と答えた。その「そうか」には、様々なものが入っていた。


 刈り終えた畑の端に立った。


 刈り取った後の麦の切り株が、整然と並んでいた。地面が見えていた。土の匂いがした。王都の石畳の下には土があったが、匂ったことはなかった。


 コラが「終わったね」と言った。


「終わりましたね」


「疲れた」


「私も少し」


「ルイーゼさんも疲れるんだ」


 ルイーゼは少し考えた。


「疲れます」


「王都の人は疲れないのかと思った」


「疲れます。同じように」


 コラは「ふうん」と言って、手の土を服で拭いた。


「来年も来る」


 来年。


 ルイーゼは少し止まった。来年という言葉が、王都にいた七年間には違う重さを持っていた。来年もまた続く、という重さだった。ここでは来年という言葉が、また麦を刈る、という明るい予告だった。


「来ます」とルイーゼは言った。




 帰り道は一人だった。


 ドネルたちは片づけがあった。コラがミナに手を引かれながら「またね」と言った。


「またね」とルイーゼは言った。


 ヘンリクだけが、しばらく残っていた。


「助かった」とヘンリクは言った。「手が増えると段違いだ」


「私は足手まといだったかもしれません」


「そんなことはない」とヘンリクは言った。「来年また来るか」


「コラにも聞かれました」


 ヘンリクが少し笑った。「で、何と答えた」


「来ます、と」


「そうか」とヘンリクは言って、先に歩き出した。


 ルイーゼは最後まで残って、麦束を一つ納屋に運んでから出た。


 夕暮れの道は、赤かった。


 空が橙色になっていた。麦畑の残った切り株が光を吸って、地面がほんのり暖かく見えた。鳥が一羽、畑の上を横切った。


 手のひらが少し痛かった。鎌の柄の当たり跡だった。


 ルイーゼは歩きながら、その痛みを確かめた。左の人差し指の付け根。右の親指の腹。昨日まではなかった痛みだった。


 今日、自分は何をしたか。


 麦を刈った。スープを飲んだ。コラに鎌の持ち方を教えてもらった。ドネルに「上手い」と言われた。来年も来ると言った。


 役割も肩書きもなかった。ただルイーゼという名前で、麦を刈った一日だった。


 口の端が少し上がった。


 気づいたのは、なってからだった。笑っていた。何かがおかしかったわけでも、嬉しいことを思い出したわけでもなかった。ただ、手のひらの痛みと夕暮れの赤と麦の切り株の並びが、そこにあった。それだけだった。


 足が、一瞬止まった。


 七年間、笑うには何か材料が要ると思っていた。違った。


「来年も来ます」


 口に出してみた。誰もいない道だった。コラにもヘンリクにも言った言葉を、今は自分に向かって言っていた。


 また歩き始めると、口の端は自然に戻っていた。


 夕暮れと、麦と、手のひら。それだけがあった。


 小屋が見えてきた頃、笑みはもう消えていた。消えたというより、そっと畑に置いてきたような気がした。


 戸を開けると、部屋の中が少し暗かった。蝋燭に火を点けた。


 机の上に昨日の記録帳があった。三行しか書いていなかった。


「今日は、何行になるだろうか」


 声に出したつもりはなかった。出ていた。



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