魔法陣が消える
外交府の廊下は、秋の夜に一段と暗くなった。
夏は窓から夕陽が差し込んだ。節約で数を削られた魔法灯でも、日没までは廊下に光があった。秋になると、日が落ちると廊下はすぐに陰になった。残った魔法灯だけが頼りだった——補佐役様がいなくなる前は、それで十分だった。
クレマンは書類の束を抱えて廊下を歩いていた。条約の確認作業が一月遅れていた。遅れているのは条約だけではなかったが、今夜は条約だけを考えることにしていた。
廊下の端の魔法灯が、点滅した。
足が止まった。青白い光が揺れた。陰が伸び、縮み、また伸びた。壁の石が冷たく浮かびあがり、沈み——そして消えた。
静けさが、廊下の端に積もった。
クレマンは消えた魔法灯の跡を見た。石壁に陣の刻み痕がある。七年前に刻まれた細い線が、今は何も光を出していない。誰かが補充しなければならない。次にその誰かが誰であるかを考え始めたとき、答えが出ないことが分かった。
足を動かした。
翌朝、三つの報告が来た。
北翼廊下の魔法灯が二基落ちた。厨房棟の水路魔法陣が流量を落とした。王族居室の廊下で夜中から点滅が続いている、と衛兵が伝えてきた。
「魔法陣担当の術師は」とクレマンは聞いた。
「それが——」と若い書記官が言葉を選んだ。「王都の魔法陣管理は、これまで補佐役様が単独で担っておられたようで。担当術師の名義は存在するのですが、実務は全て——」
「彼女だった、ということか」
「はい。評議会に確認したところ、『補佐役様の独自改良が陣に入っているため、我々では継続管理が難しい』と」
「半年以上かかると言っていたな」
「解読だけで、最低でも」
沈黙があった。廊下の向こうで、別の書記官が書類を運んでいた。普通の朝だった。ただ、廊下の端が一か所だけ昨日より暗かった。
「台帳を持ってきてくれ」とクレマンは言った。「補佐役様の残した台帳の、魔法陣維持記録のほうを」
台帳は厚かった。七年分だった。
表紙の索引には「魔法陣維持記録・第三巻」とだけあった。クレマンは最初のページを開いた。
陣の座標番号があった。測定値の列があった。日付があった。
最初の列は分かった。陣の番号だった。次の欄の記号が分からなかった。記号の隣に矢印があった。矢印が何を意味するのか分からなかった。三列目に進んだとき、手が止まった。
もう一度、最初に戻った。今度はゆっくり読んだ。陣の番号。記号。矢印。三列目。同じ場所で、また止まった。
若い書記官を呼んだ。「この矢印に心当たりはあるか」と、ページを指して聞いた。
「見たことはありますが——」と書記官は言いかけて、止まった。「読み方は、わかりません」
そうか。クレマンは台帳を閉じた。
文字は読めた。数字も読めた。しかし意味が分からなかった。陣の状態を示す数値に、彼女独自の略記が加わり、矢印と丸印と傍線が交差していた。七年間、彼女が更新し、彼女が参照し、彼女だけが使っていた記法だった。
記録は全部ある。
台帳を閉じてクレマンはその事実を確かめた。七年間の補充記録、次の時期、劣化の速度——全部、この台帳に書いてある。七年間の観測記録が、整然と積み重なっている。
ただ読める人間が、いない。
地図だ、と彼は思った。目的地への道が書かれた地図が手元にある。地図の読み方を知る人間がいない——どこにも辿り着けない。
表紙の端に、細い字で日付が書いてあった。最後の更新は七ヶ月前だった。その七ヶ月間、誰も補充しなかった。補充のやり方が誰にも分からなかったからではなく——誰も気づかなかったからだった。
エドワードへの報告は夕方になった。
「魔法陣まで、彼女が管理していたのか」
「はい」
「……引き継ぎの術師を手配できないのか」
「魔法師評議会の見解では、台帳の解読だけで半年以上かかる見込みです。それまでの間、陣の劣化は続きます。最終的には——」
「最終的には」とエドワードが繰り返した。
「王都の照明と水路の魔法陣が、段階的に落ちていきます」
部屋の中に静けさが降りた。厚い静けさだった。エドワードが窓の外を見た。王都の夕暮れが、建物の稜線の向こうに沈んでいた。外交府の北翼が遠くに見えた。その廊下の窓が、一部だけ暗かった。昨夜落ちた魔法灯の窓だった。
「彼女は、他に何をしていた」
「外交文書の代筆、社交界の人脈管理、魔法陣の維持——農業試験場との連絡、疫病対策の調薬処方も担当されていたと確認しています」
「それが全部か」
「台帳が七冊あります」とクレマンは言った。「最後の一冊は鍵がかかったまま残されており、内容はまだ確認できていません」
エドワードはクレマンを見た。それから窓に戻した。
「……彼女は何も言わずに行った」
返答のしようがなかった。クレマンは黙っていた。
「七年間、何もそれを告げなかった。なぜ言わなかった」
「わかりません」とクレマンは言った。「ただ——」
言いかけて、止めた。
ただ、言う相手がいなかったのではないか、とは言わなかった。七年間、自分も一度も聞かなかったのだから。
夜になると、また一つ消えた。
帰り道の廊下で、クレマンは陰を数えた。四つになっていた。七年間、この廊下で一つも落ちなかった。節約で数を減らされても、残った灯りは消えなかった。
廊下だった。陰だった。七年間だった。
クレマンは数えながら歩いた。次の灯りの下に入ると、石の床が少し青白く照らされた。まだ生きている陣の光だった。いつまで保つかは台帳に書いてあるはずだった。読める人間がいれば、分かったはずだった。
足元の石が、少し冷たかった。秋が深くなっていた。
翌朝、エドワードは書類を一枚取り出した。
七つの役割を書き出すつもりだった。全容を把握したかった。自分が何を失ったかを、一度きちんと書いて並べたかった。
一つ目。外交文書の代筆。
二つ目。社交界の人脈管理。
三つ目。魔法陣の維持。
四つ目。農業試験場の運営支援。
ペンが止まった。
五つ目を書こうとした。「疫病」と書いた。ペンを止めた。疫病は処方書の話であって、役割の名前ではないように思えた。それとも、それでいいのか。分からなかった。消した。
五つ目が、出てこなかった。疫病対策があると聞いた。それが五つ目か。六つ目は何か。七つ目——鍵のかかった台帳——は、何か。
七年間、同じ廊下を歩いていた。七年間、そこにいた。
何をしていたか、半分も知らなかった。
机の端に、台帳が一冊あった。鍵がかかったままだった。表紙は白紙だった。




