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第95話:薄氷_残務委任編①

ーーひとみフェーズ


時は、少しだけ遡る。


榊原冬馬が港湾の倉庫に姿を現すよりも前。


匿名流犯の水路を、久世たちが血を流して辿っていた頃。


私は、法曹協会の会長室で、一枚の紙を見ていた。


紙には、弁護士の名前が並んでいる。


経歴。


所属派閥。


関係団体。


担当事件。


受け取った金。


そして、見えないはずの被害者の沈黙。


「次」


私が言うと、法曹協会の事務職員が小さく肩を震わせた。


机の上に、また一つ資料が増える。


デポル絡みの弁護士。


加害者更生団体と繋がっていた派閥。


匿名流犯で少年弁護を悪用していた者。


外国人支援や未成年保護の名札を掲げ、その裏で逃亡と身分整理を手伝っていた者。


山本が残した毒は、まだ床下に染みていた。


トップが死ねば終わる。


そんな軽い話ではない。


腐った頭は、手足も、書類も、被害者の声まで腐らせる。


「はい。こいつは懲戒請求」


私は赤いペンで名前を潰した。


「こっちは刑事告発」


別の名前にも線を引く。


「この団体は資金の流れを洗え。支援団体の皮を被った逃亡窓口や。税理士と銀行にも当たれ」


「会長、それはまだ裏取りが」


「裏取りするためにお前らがおるんやろ。私に茶でも注ぎに来たんか」


職員が黙った。


私の下についたばかりに、寿命が縮んでいる顔をしている。


私ほどではないが。


喉の奥に鉄の味が上がった。


私は口元を押さえた。


指の隙間に、赤が滲む。


職員の目が、私の顔を見た。


「何見てんねん」


「いえ」


「私の顔に懲戒理由でも書いてあるんか」


「ありません」


「ほな、手を動かせ」


職員は慌てて資料を抱え、部屋を出ていった。


扉が閉まる。


その音を聞いてから、私は机の端を掴んだ。


指に力が入らない。


笑える。


弁護士の首は切れるのに、ペン一本が重い。


私は引き出しを開けた。


白い錠剤が入った小さな袋。


ただの痛み止めだ。


どうせ効かない。


それでも、飲めば少しだけ仕事を続けられる気になる。


私は二錠を口に放り込み、冷めた水で流し込んだ。


水が喉を通るだけで、胸の奥が軋む。


私の寿命は、一ヶ月を切った。


女神に奪われた時間は、律儀に帳尻を合わせに来ている。


約束だけ破って、請求だけは正確に寄越す。


「あのクソ詐欺師が」


女神、メル。


私にデポル抹殺の夢を見せ、その代価に寿命を奪った存在。


あの時は、どんなに忙しくても、メルのために時間を使っていた。


今は違う。


今は、クソ生意気な弟分のために、文字通り血反吐を吐きながら法曹協会の床下を剥がしている。


久世恒一。


あいつは、馬鹿だ。


考えなし。


無鉄砲。


脳足りん。


使えるものがあれば使い、敵認定したらすぐに消す。


我慢ができない駄々っ子だ。


だから、整理しておく必要がある。


久世は、現場で敵を殲滅する。


私は、法曹協会から膿を出し切る。


めぐみは、大阪市から名義と場所を押さえる。


みずきは、会社で記録と金を守る。


場所は違う。


肩書きも違う。


だが、目的は繋がっている。


全ては、デポルの根絶へ。


私が死んだあとも、そこに繋がるように。


猛烈な吐き気が、少しだけ引いた。


汗が背中を伝う。


吐血の跡をティッシュで拭い、丸めて机の下へ落とした。


その時、扉が開いた。


「ひとみ」


かなが立っていた。


手には紙袋。


昔から、かなは妙なところで世話焼きだった。


私より怖がりのくせに、私の体調だけは逃げずに見る。


一人で外を歩くことすら、まだ苦手なのに。


「一応、私会長やねん。ノックくらいしてもらわんと、汚職の真っ最中やったらどうすんねん」


「ご飯まだでしょ」


「今のボケ、イマイチやった?」


かなは答えず、部屋へ入ってきた。


ここ一年で、やたらと私の心配をしてくるようになった。


それはそうだ。


化粧で隠してはいるが、顔色は悪い。


身体も少しずつ痩せている。


私の美貌は永遠ではなかった。


かなは机の上を見た。


赤い線だらけの資料。


山になったファイル。


開いたままの薬袋。


机の下に落ちた血のついたティッシュ。


かなの視線が、そこで止まった。


「一回、入院しよう」


「またそれか。今は無理や」


「今じゃない時、いつ来るの」


「そのうちや」


「それ、一年聞いてる」


かなは椅子を引き、私の向かいに座った。


今にも泣きそうな顔でも、怒っている顔でもない。


ただ、私の嘘を一つずつ数えてきた人間の顔だ。


かなは一年前から知っている。


倒れそうになる回数が増えたこと。


夜中に胸の痛みで起きること。


私が笑って誤魔化すたびに、誤魔化されないまま黙っていたこと。


止めたところで、私が止まらないと知っているからだ。


かなは紙袋からサンドイッチを出した。


「食べて」


「あとでな」


「少しでいい」


「あとで食べるって」


「今、食え」


それ以上は言い返さなかった。


会話を続けても、かなはかなで頑固だ。


渋々、サンドイッチを一口だけかじった。


全粒粉パンと野菜。


私の好きなアボカド。


ここ数ヶ月は、もうこれくらいしか喉を通らない。


しかし、寿命が近づくにつれ、味はしなくなってきている。


それでも、かなの肩が少しだけ下がった。


弱っている人間のふりをすれば、この女は安心する。


まだ世話を焼けると思えるからだ。


最低な慰め方だった。


スマートフォンが震えた。


画面には、めぐみの名前が出ている。


私は通話を取った。


「何や、大阪市長様」


『法曹協会から回ってきた資料、確認した』


「なら話は早い。市の住宅関連と短期賃貸の名義、そっちでも洗っといて」


『市営住宅だけじゃ足りない。短期賃貸、レンタルスペース、福祉窓口の相談履歴まで繋ぐ。そこに同じ弁護士名が出てる』


私は少しだけ口角を上げた。


やはり早い。


久世は暴力一辺倒。


めぐみは知力が抜群に高い。


そういう女だ。


「さすが市長様やな」


『みずきが契約記録と照合してる。名義が違っても、支払い元が同じなら拾えそう』


「みずきは大丈夫なんか」


『結構キツイと思うよ』


めぐみの返事は短かった。


みずきは、めぐみが大阪市長になったあと、会社の代表として前に出た。


久世もめぐみも取締役ではあるが、実務上の代表はみずきに引き継がれた。


会社の業務だけでなく、デポル絡みも処理している。


久世のサポート。


めぐみが市長として触れられない契約。


証拠の保管。


金の流れ。


それらを、みずきは一人で背負っている。


弱音を吐くところを、私は見たことがない。


最初こそ頼りなかったが、デポルに襲われ、久世に助けられたあの日から、目つきが変わった気がする。


あの子もまた、久世に当たられた一人だ。


「ええ代表になったな、あの子も」


『うん。だから恒一がいない間に、会社も、市も、法曹協会も止めない』


「せやな、スピード勝負や」


電話の向こうで、めぐみが黙った。


その沈黙の意味を、私は知っている。


めぐみは、私の寿命を知っている。


知ったうえで、久世に黙っている。


私が口止めしたからだ。


めぐみに、余計な罪を背負わせている。


『恒一には』


「まだ言うな」


私は遮った。


かなの視線が、こちらに向く。


「今言えば、あいつは足を止める。ああ見えて、あまちゃんやからな」


『ひとみがそうしたいならそれでいいけどさ。私にとばっちりが来ないようにしてね』


こいつは、昔からこうだ。


余命を知っても、悲しむ顔を見せない。


冷たいのではない。


命の価値を、変に飾らないだけだ。


私に女神メルがついていたように。


めぐみには女神アステリアがついている。


そんなめぐみだからこそ、安心して任せられるのかもしれない。


「はいはい。タイミング見て上手いこと言うとくわ」


『あと、かなにも早く伝えた方がいいと思うよ。多分、かなり勘付いてると思うし』


喉の奥が詰まった。


私の返答を待たず、電話は切られた。


画面が暗くなる。


そこに映った自分の顔は、想像していたより白かった。


かなが言った。


「めぐみには言ってるんだ。私には何か隠してるくせに」


「必要なことだけや」


かなは黙った。


責めるより先に、沈黙を選ぶ。


昔からそうだ。


本当に傷ついた時ほど、声を荒げない。


「私は、必要じゃなかったんだ」


必要かどうかではない。


言えば、かなは壊れると思ったからだ。


私の死後、私はいない。


それは、かなにとって到底受け入れられることではない。


そして何より、壊れるかなを見るのが、私が怖かった。


整理されるより早く、言葉が漏れた。


「お前にだけは、言うのが怖かった」


情けない言葉だった。


法曹協会の腐った弁護士を何十人も切れるくせに。


デポルを殺す契約に寿命を差し出したくせに。


牧かな一人に、死ぬと告げるのが怖かった。


私は、自分で思っているよりずっと臆病だったらしい。


かなは立ち上がった。


ゆっくりと私の横に来る。


責めるでも、許すでもない。


ただ、私の手を握った。


冷たい手だった。


昔から、かなの手は冷えやすい。


デポルに襲われたあと、その冷たさはひどくなった。


私はその手を何度も握ってきた。


握れば温まると思っていた。


実際には、そんな簡単なものではなかった。


それでも、握らないよりはましだった。


「ひとみ」


「なんや」


「残り、全部ここにいて」


「無理」


かなはそれ以上、何も言わなかった。


会長室の椅子は、恋人が寄り添うには硬すぎる。


それでも、かなはそこにいた。


私は片手で資料を引き寄せた。


まだ終わっていない。


赤いペンを取る。


指先は震えていた。


かなの手が、その上から重なる。


「支える」


それだけ言って、かなは手を離さなかった。


私は次の名前に線を引いた。


赤い線が、少しだけ歪む。


だが、名前は潰れた。


それでいい。


完璧でなくていい。


私が死んだあと、久世が続きをやる。


めぐみが押さえて、みずきが守る。


私が今、血反吐を吐きながら進めている理由は一つ。


久世たちに協力することで、周りまわってかなが安心できる世の中で、生きられるようにするため。


私が勝手に始めて、勝手に散らかし、勝手に残す仕事。


誰かに委ねるしかない、残務だった。


私はサンドイッチをもう一口かじった。


味はしない。


それでも、かなが少しだけ安心した顔をした。


その顔を見て、私は思った。


あと一ヶ月。


かなは、私たちが何をしているのかを全部は知らない。


デポルを根絶やしにするために、久世がどこまで進もうとしているのか。


私がそれをどれだけ利用し、これまで協力してきたか。


知らない。


けれど、薄々気づいている。


私たちが普通の仕事だけをしているわけではないことくらいは。


私が、自分の命を終わりまで使い切るつもりでいることくらいは。


だからこそ、怖かった。


この女が、私の死を自分の終わりにしないように。


そのための言葉だけが、まだ見つからなかった。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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