第94話:残流_匿名流動編⑧
あれから三週間が経った。
榊原冬馬が逮捕された夜。
港湾近くの古い物流施設には、警察、記者、カメラ、救急隊、そして血の匂いが入り混じっていた。
あの場だけを見れば、俺たちは勝ったように見えただろう。
実際、成果は出た。
匿名流犯に使われていた使い捨てスマートフォンは、多数押収された。
短期賃貸やレンタルスペースの契約名義も、いくつも押さえられた。
デポル実行役、連絡係も捕まった。
黒瀬に流した情報は、予想以上に広がった。
翌朝には、榊原冬馬の名前がニュースに出ていた。
匿名流犯。
デポル。
相馬郁人。
井口おさむ。
特別行政省。
それらの言葉が、ようやく同じ画面に並んだ。
被害者の遺族も、街頭で声を上げ始めた。
『デポル犯罪をなかったことにするな』
『未成年だからといって、すべてを曖昧にするな』
『日本の政治家は、日本人だけであるべきだ』
『デポルに政治家をさせるとは何事か』
その声は、確かに前より大きくなった。
一時的に、匿名流犯は減った。
少なくとも、同じ手口は使いづらくなった。
榊原の作った水路に、大きな杭を打ち込んだ。
だが、流れそのものは死んでいない。
捕まったのは、実行役と連絡係が中心だった。
主犯格と呼べる人間は、半分も押さえられていない。
金、場所、名義を手配した者。
政治家に繋いだ者。
その多くは、まだ奥にいる。
名前を変え、会社を変え、団体を変え、また別の場所から染み出してくる。
榊原冬馬も、倒しきれなかった。
現行犯で逮捕され、あの場では手錠をかけられた。
だが、その後の動きは早かった。
榊原は、証拠不十分を理由に釈放された。
表向きの理由はいくらでも並んだ。
現場の映像には、入手経路に疑義がある。
榊原の発言は比喩の可能性がある。
本人も右腕を撃たれており、被害者の側面がある。
現場にいたデポルたちの供述は食い違っている。
相馬や井口の死と、榊原を直接繋ぐ証拠は薄い。
全部、分からない話ではない。
だが、それだけではなかった。
公安が押さえたはずの映像も、通信記録も、使えない場所へ移された。
消されたわけではない。
保全された。
そういう名目だった。
証拠を守るための言葉で、証拠を遠ざける。
俺は、その報告を聞いた時、笑いそうになった。
現場は血で動き、制度は紙で動く。
そして紙は、血より軽い顔で人を逃がす。
榊原冬馬は、国の奥へ回収された。
誰がそうしたのか。
はっきりした証拠はない。
だが、分かる。
公安の証拠を押さえられる者。
警察の流れを変えられる者。
報道の火を消しきれなくても、捜査の芯をずらせる者。
そんな人間は、多くない。
高宮誠司。
その名前が、喉の奥に引っかかっていた。
鷹宮は、その名を口にしなかった。
だが、彼は分かっているようだった。
高宮総理。
自分の父が動いたのだと。
普段の軽い雰囲気とは違い、その事実を俺に伝えに来た時の顔は、今でも覚えている。
とはいえ、匿名流犯はしばらく減るだろう。
だが、法律が変わらなければ、また戻る。
別の名前で。
ネットリテラシーの低い未成年を使って。
別のデポルを流して。
新たな被害者が増え続ける。
その構造を変えなければ、何度でも同じことが起きる。
俺は、包帯の巻かれた手を見た。
三週間経っても、まだ痛む。
肋骨も痛い。
頬の腫れは引いたが、噛むたびに奥歯が軋む。
この痛みとともに、匿名流犯の流れは一時的に止めた。
その間に、俺は別の問題と向き合わなければならない。
それは何なのか。
水谷ひとみ。
俺が、弁護士として、デポルを狩る者として、活動するきっかけになった女。
あと二日だ。
信じられない話だが、本人曰く。
あと二日が、自分の余命だという。
どうやら戯言ではないようだ。
これが本当だとして、俺は怒っている。
決して短い付き合いではない。
十五歳の時、大阪に司法試験を受けに来た。
その際に出会った。
もう十年以上になる。
にもかかわらず、そのことを黙っていた。
そして俺は気づけなかった。
ひとみと向き合い、これからを決める。
外にばかり目を向けてきたツケが回ってきた。
偉そうで、乱暴で、デリカシーのかけらもない。
しかし、頼りきっていた人が、俺の前から姿を消す宣言をしてきた。
その事実だけが、どうしようもなくやるせなかった。




