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第91話:遺道_匿名流動編⑤

ーー真壁フェーズ


井口おさむは、血の中で動かなくなっていた。


腹から流れた血は、床に薄く広がっている。


それなのに、顔だけは妙に安らかだった。


俺は、その顔を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。


「井口さん」


呼んでも、返事はない。


当然だ。


分かっている。


分かっているのに、もう一度だけ呼びたくなる。


あの人は、いつも俺の焦りを嫌った。


「真壁、声が硬い」


「真壁、慌てるな」


「真壁、君は本当に面倒な男だな」


そんな声ばかりが、耳の奥に残っている。


だが、もう返事はない。


撃った者は捕らえた。


デポルだった。


榊原冬馬の手下である可能性は高い。


だが、確証はない。


狙撃手は、相馬郁人の秘書名義の端末を持っていた。


分かりやすすぎる。


相馬へ責任を寄せるための道具だ。


すべてを相馬の周辺で処理するつもりなのだろう。


榊原冬馬。


あの男は、最後まで自分の手を汚さない。


井口さんは、それを分かっていた。


分かっていて、踏みに行った。


そして、戻らなかった。


会議室の端に、久世恒一が立っている。


井口さんの遺体を、ただ見下ろしていた。


泣いていない。


怒ってもいない。


ただ見ている。


この男は、そういう顔をするのか。


初めて知った。


「井口さんは」


声が掠れた。


「最後に、何を」


久世は、こちらを見る。


その目にも、熱はなかった。


「あなたを使え、と」


短い答えだった。


俺は、息を吐いた。


そうか。


井口さんらしい。


死ぬ直前まで、人を配置している。


自分の命が消える瞬間にも、道の先を見ている。


「他には」


「特別行政省の中に、道があると言っていました」


「そうか」


俺は目を閉じた。


井口さんは、自分の思想を久世に継がせるつもりなどなかったのだろう。


この男が、誰かの思想をそのまま継ぐはずがない。


それでも、道だけは託した。


そういう判断をした。


「井口さんは、君に期待していた」


言葉にすると、胸の奥が痛んだ。


悔しかった。


何より、それが悔しかった。


井口さんは、久世に期待していた。


自分と真逆の男に。


側近である俺ではなく、デポルを消してきた男に。


「久世君にしかできないことがある。井口さんは、そう言っていたよ」


それは、井口さんが何度か俺にだけ漏らした言葉だった。


俺は昔、一度命を拾われている。


十五年ほど前のことだ。


デポル絡みの事件で判断を誤り、責任を押しつけられ、切られるはずだった。


名前ごと潰されるところだった。


その時、井口さんが拾った。


理由を聞いたことがある。


井口さんは言った。


「君は、人を見ている。数字だけではなく、顔を見ている。行政には、そういう人間が必要だ」


その後で、管理の話をされた。


デポルを野放しにしてはいけない。


だが、殺して終わりにもしてはいけない。


記録し、分け、置けるものと置けないものを決める。


その時、俺は初めて思った。


こんなまともなデポルがいるのか、と。


その人が、夢半ばで散った。


こんな床の上で。


「久世君。君とはこれまでに色々あったね」


「ええ。徳島の山奥で殺されかけました」


「そうだったな。俺は、道端でいきなり蹴られたよ」


今はもう笑える話だ。


内容はそうでもないが。


「井口さんが残した道を、他の連中に任せるくらいなら、君に協力した方がましだ」


久世は、井口さんを軽んじてはいない。


それだけは分かった。


「俺は、特別行政省の職員でね。内部の取りまとめもしている。トップには別の者を置く」


久世は黙って聞いている。


「井口さんは、この一年半でかなり入れ替えた。反対する者は外へ出した。露骨に妨害する者は、別部署へ回した。榊原に近い者も、何人かはすでに監視下だ」


「一年半でそこまで」


久世が、わずかに目を細める。


「すごいですね」


その言葉は軽くなかった。


本当にそう思ったのだろう。


俺は、少しだけ救われた気がした。


「後任は、榎田涼介。三十代後半だ。派手さはない。演説も上手くない。だが、資料を読める。人の話を聞ける。そして、逃げない」


「あの人の後任をやらされるだけ、重圧でしょうから十分でしょう」


「ああ。そうだな」


俺は頷いた。


「榎田は、井口さんの思想を丸ごと継ぐ人間ではない。だが、井口さんが何をしようとしていたかは理解している」


久世はしばらく黙っていた。


床の血を見ている。


井口さんの死を見ているのか。


それとも、その先を見ているのか。


分からない。


俺も、井口さんを見た。


安らかな顔。


夢半ばで倒れた人。


それでも道だけは残した人。


「動くか」


少なくともこの男は、綺麗な言葉で人を隠す連中よりはましだ。


扉の外で、部下たちの足音が近づいてくる。


処理が始まる。


血を拭く者。


映像を確保する者。


遺体を運ぶ者。


国は、死体の上でも動く。


そういう場所だ。


俺は、最後にもう一度だけ井口さんを見た。


「井口さん」


小さく呟く。


「あなたの道は、繋いでみせますよ」


返事はない。


返事を待つ時間は終わった。


その時、俺の端末が震えた。


捕らえた狙撃手の第一報だった。


短い文面。


『榊原の名は出ません。黙秘。端末の解析を継続』


予想通りだった。


あの端末は、相馬の秘書名義。


狙撃手が何を言おうが、まず相馬の周辺で処理される。


榊原の名までは届かない。


届かせるには、こちらから線を引き直すしかない。


俺は画面を久世へ見せた。


久世は、それを見て、ゆっくりと息を吐いた。


「切り捨てる準備まで済んでいるわけですか」


「ああ」


俺は言った。


「相手も、雑魚じゃない」


久世は、血の残る床を見た。


「相馬は死んでいるがーー」


「生きていることにして、可能な限り使いましょうか」


俺は一秒だけ黙った。


それから理解した。


相馬郁人は、まだ死んでいないことにする。


榊原が切り捨てるために用意した端末もある。


狙撃手の端末もある。


死体ではなく、生きた駒として使える。


「相馬の端末と、狙撃手の端末を使うつもりか」


「ええ」


久世は頷いた。


「榊原に、相馬がまだ喋れると思わせる」


久世の声は静かだった。


「来る理由をでっちあげましょう」


「理由?」


「井口……さんが死んだ。特別行政省と俺が繋がり、相馬は生きている。狙撃手も捕まった」


久世は、血の残る床を見たまま言った。


「となれば榊原からすれば、放置できないはずです」


なるほど。


榊原は気づくかもしれないが、それでもやるだけやろうということだな。


井口さんは死んだ。


その後に、特別行政省と久世が繋がった。


榊原にとって、それは予定外のはずだ。


「分かった」


俺は端末を握り直した。


「相馬を餌にする」


「はい」


久世は頷いた。


「榊原冬馬を引きずり出す」


その声は静かだった。


だが、その静けさの奥に、何かが沈んでいる。


井口さんが最後に渡したもの。


俺は、まだその中身を知らない。


だが、確かに渡った。


この国の血管の奥で、別の流れが動き始めていた。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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