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第89話:窮地_匿名流動編③

ーー井口フェーズ


真壁が、珍しく息を乱していた。


「出ました」


その一言で十分だった。


榊原冬馬が、ようやく影を落とした。


私は机の上の端末を見る。


画面には、都内の会員制ホテルの地下駐車場が映っていた。


黒い車。


秘書らしき男。


榊原冬馬。


数分遅れて、もう一台の車が入る。


降りてきたのは、相馬郁人。


五十二歳。


衆議院議員。


危険個体監視の強化に反対し、デポルへの差別を許さないと繰り返してきた男だ。


委員会では、穏やかな声で共生を語る。


被害者の怒りを社会の不安と呼び、加害者の事情を政治が受け止めるべき課題と呼ぶ。


その相馬が、榊原と会っていた。


「雑だな」


画面が切り替わる。


相馬の秘書車両。


榊原の車両。


ホテル裏口。


入館記録。


匿名流犯対策会議で使う予定だった資料の一部が、匿名掲示板に流れていた。


文面は少し加工されている。


加工の仕方は、私の執務室から漏れたように見せるためのものだった。


「私を情報漏洩の中心に置くつもりか」


「ええ。匿名流犯対策そのものを潰すつもりなんでしょう」


真壁の声は低かった。


私が倒れれば、特別行政省で進めてきたものが止まる。


榊原本人は、もう映像から消えていた。


手を汚す気はない。


あくまで、対策側の専門家という顔を残す。


本当に、面倒な男だ。


「相馬は今どこだ」


「別棟の会議室です」


「一人か」


「映像上は」


私は立ち上がる。


真壁がすぐに前へ出た。


「井口さん、待ってください。護衛を入れます」


「待てない。相手が逃げる」


真壁の表情が硬くなる。


普段の彼なら、ここで引く。


だが、今日は引かなかった。


「井口さんが一人で行く必要はありません」


珍しい。


真壁が私の言葉を真正面から否定した。


それだけで、この男がどれほど焦っているかが分かる。


私はコートを取った。


「真壁」


「はい」


「いくぞ」


「……はい」


真壁は納得していない。


だが、従った。


半歩後ろにつく。


いつもより近い。


護衛の距離だ。


夜の特別行政省は、昼間よりも冷たい。


廊下には、人の気配がない。


足音だけが、妙にはっきり響く。


別棟の会議室へ向かう途中、真壁は何度も端末を確認していた。


室内の映像。


廊下の映像。


建物外の導線。


逃走経路。


普段なら私に余計な動きを悟らせない男が、今日は隠しきれていない。


会議室の前で真壁が止まる。


「中の音は拾えています。映像は一部です」


「十分だ」


私は扉を開けた。


相馬郁人は、一人で座っていた。


柔らかい顔。


穏やかな目。


委員会で共生を語る時と同じ、人を安心させるための表情。


机の上には、水の入ったグラスが二つ。


片方は手つかず。


もう片方のグラスを、相馬の指がゆっくりとなぞっていた。


私は向かいに座る。


「榊原冬馬と会っていたな」


相馬の指が止まった。


一瞬だけ。


すぐに、また動く。


「多くの専門家と意見交換はしています」


「地下駐車場でか」


相馬は薄く笑った。


笑っただけだった。


否定の言葉を選ばない。


肯定もしない。


その間が、よく訓練されている。


私は端末を机に置く。


映像の一部。


車両。


時刻。


流出した資料。


相馬は画面を見た。


表情は崩れない。


「証拠にはなりませんね」


「今はな」


私は言った。


「だが、線にはなる」


相馬の目から、少しだけ温度が消えた。


その瞬間、相馬の首筋に赤黒い濁りが浮いた。


薄く。


人間の皮の下から、赤黒い色が滲んでいる。


相馬は私と同じ、デポルだった。


「井口大臣」


相馬の声が低くなる。


「あなたは、こちら側から見ても邪魔なんですよ」


「こちら側、か」


「あなたは、デポルでありながら、デポルを管理対象に落とそうとしている」


私は相馬を見る。


委員会で差別を語り、共生を語り、被害者の怒りを危険な感情と呼んできた男。


その皮の下で、赤黒い色が広がっている。


人間の顔で、人間の制度を使い、デポルの逃げ道を作っていた。


私は、少しだけ息を吐いた。


「檻が嫌なら、人を壊すな」


相馬の表情から笑みが消えた。


椅子が床を擦る。


次の瞬間、相馬の体が前に出た。


速い。


五十二歳の議員の動きではない。


袖口から、短い刃が滑り出る。


胸を狙った一撃。


私は横へ体をずらした。


刃が服を裂く。


浅い。


まだ、動ける。


ドアの向こうから、真壁の声が飛んだ。


「井口さん!」


「大丈夫だ」


「今開けます!」


真壁はドアをこじ開けようとしている。


この会議室に、オートロックなど付いていなかったはずだ。


私は机を蹴った。


重い机がずれ、相馬の膝に当たる。


相馬の体勢が崩れる。


その隙に距離を取った。


服の裂け目から血が少し流れていた。


問題は、相馬がこちらを殺す気になったことだ。


つまり、形は出た。


榊原と相馬。


匿名流犯対策資料の流出。


デポル擁護を繰り返す議員の一部。


防犯カメラにも、通信記録にも、今の映像にも残っている。


これで、榊原は白ではなくなった。


法で届くかは別として、黒だと判断するには十分だ。


その証拠が欲しかった。


だから、一歩だけ踏み込みすぎた。


刃が腹に沈む。


熱が走る。


痛みより先に、体の奥へ重いものが落ちる感覚があった。


私は相馬の手首を掴む。


逃がさない。


そのまま引き寄せ、額を相馬の鼻に叩きつけた。


骨が潰れる感触。


相馬が後ろへ下がる。


私は膝をついた。


腹から血が流れる。


量が多い。


(これは、まずいな)


相馬が刃を持ち直す。


鼻から血を流しながら、それでも笑っていた。


委員会で共生を語っていた時と、同じ口元だった。


「あなたの構想は、ここで終わりです」


「終わらないさ」


私は腹を押さえる。


指の間から血が溢れる。


「道は、一人で作るものではない」


相馬は近づいてくる。


一歩。


また一歩。


赤黒い指が伸びる。


喉を狙っている。


真壁はまだ扉の向こうだ。


間に合わない。


だが、映像は残った。


記録も残った。


榊原へ続く線も、相馬の発現も、全部残った。


ならば、まだ負けではない。


私は相馬を見上げた。


「君は、人間のふりが下手だな」


相馬の顔から、最後の笑みが消えた。


赤黒い指が、私の喉に触れようとした。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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