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第88話:遂行_匿名流動編②

ーー井口フェーズ


二〇一九年・秋。


特別行政省の執務室は、静かだった。


静かすぎる部屋は、あまり信用できない。


人の声も。


足音も。


空調の低い唸りも。


すべてが、必要以上に抑えられている。


国という巨大な生き物が、息を殺しているように思える。


真壁が机の上に資料を置いた。


「大阪で三件。東京で五件。周辺県を含めれば、今月だけで二十一件です」


私は資料へ目を落とす。


高校生。


家出少年。


借金を抱えた若年層。


外国籍の者。


そして、デポルの疑い。


資料の文字は冷たい。


だが、その奥には血がある。


壊された人間がいる。


奪われた生活がある。


そのことを忘れる者から、政治家は腐る。


「警察は」


「動いてはいるようですね」


真壁は即答した。


「現場の逮捕も進んでいます。ですが、中核には届いていません」


「分かっている」


警察が怠けているわけではない。


捕まえている。


暴れた高校生を。


高齢者宅へ押し入った若者を。


駅前で通行人を襲ったデポルを。


スマートフォンを握ったまま震えていた少年を。


だが、捕まるのは末端だ。


替えの利く者だけが捕まる。


その奥にいる者は、顔も名前も出さない。


「このままでは、世論は匿名流犯といえばデポルだと見る」


私が言うと、真壁は黙った。


その沈黙が答えだった。


それが困る。


私はデポルとして生まれた。


だが、戸籍があった。


学校へ行き、社会に出た。


政治の中にも入った。


戸籍があるだけで、可能性が広がる。


運がよかった。


それだけで片づけるには、あまりにも薄い。


私は制度の隙間を通った。


そして、その隙間を知った。


人間の社会は、記録で人を作る。


戸籍。


学歴。


職歴。


納税。


保険。


免許。


資格。


記録があれば、人は人間として扱われる。


記録がなければ、人間ですら透明になる。


ならば、デポルも同じだ。


記録すればいい。


監視すればいい。


社会に置けるものと、置けないものを分ければいい。


綺麗事ではない。


むしろ、綺麗な言葉を削ぎ落とした後に残る現実だ。


共生だけでは足りない。


根絶だけでも足りない。


必要なのは管理だ。


だから、私は特別行政省に入った。


この省は、行政管理、地方自治、情報通信、郵便、地域の安全対策までを扱う。


国の血管だ。


血管を押さえれば、流れを変えられる。


大阪で作った檻を、国へ広げる。


そう考えた。


だが、匿名流犯は、その血管に泥を流し込んでいる。


デポルが犯罪の実行役として使われる。


高校生と一緒に。


金に困った若者と一緒に。


スマートフォン一つで呼ばれ、使われ、捨てられる。


(これでは駄目だ)


目頭を押さえる。


デポルは管理対象でなければならない。


犯罪の印象そのものになってはいけない。


「早期に片付ける」


私は言った。


「匿名流犯を、これ以上大きくするわけにはいかない」


「関係部局を動かしますか」


「学校、自治体、通信事業者、金融、宿泊、短期賃貸、車両。全部だ」


真壁が小さく頷く。


「榊原氏はどうします」


私は資料の端に置かれた名前を見る。


榊原冬馬。


通信リスク管理会社の顧問。


特別行政省の匿名流犯対策アドバイザー。


表向きは、対策側の専門家。


だが、私はあの男を信用していない。


理由は単純だ。


正しすぎる。


出してくる案が、いつも正しい。


学校への注意喚起。


保護者へのスマートフォン管理通知。


通信事業者との協力。


怪しい求人アカウントの早期検知。


自治体の相談窓口との接続。


正しい。


あまりにも正しい。


正しすぎる人間は、正しさを盾にして何かを隠す。


私は、それを知っている。


だがーー


「危険だが、それでも使う」


「榊原はほぼ黒ですよ」


「だろうな」


「では、なぜ」


私は資料を閉じた。


「白だからいい。黒だからよくない。そんなことでは政策は進められない」


真壁の表情は変わらない。


だが、目だけがわずかに動いた。


いつも冷静で、うざいほど整っている男だ。


その真壁が、一瞬だけ不満を見せた。


「大臣ご自身がやる必要はありません」


「私がやるから、相手が形を出す」


私は椅子から立ち上がった。


窓の外に、東京の曇った空が広がっている。


この国は、いつも薄く曇っている。


晴れているように見える日でさえ、雲はどこかに残っている。


「大阪市へ連絡を入れろ」


「加藤市長ですか」


「ああ。協力要請さ」


大阪は、加藤めぐみの街になった。


だが、その奥には久世恒一がいる。


「特別行政省、大阪市、警察、学校、通信事業者の合同会議を提案する」


「榊原氏も入れますか」


「それはもちろん」


真壁が私を見る。


久世恒一。


あの男はいずれ動く。


匿名流犯を潰すには、あの男の行動力も必要になる。


久世恒一は制御できない。


だから、そういう場所に配置すればいい。


彼はとにかくデポルを消したい。


今でもそう思っているのだろう。


浅い。


だが、その浅さでしか届かない場所もある。


私は資料を手に取った。


大阪市内で確認された匿名流犯の実行役。


十六歳。


高校生。


スマートフォンを持ち出し、家を出ていた。


同行者二名。


うち一名は、デポル疑い。


「利害を合わせるだけだ」


この時の私は、まだ知らなかった。


私が止めようとした流れの中に、すでに私自身の死が混ざっていることを。





ーー久世フェーズ


国会に入って、分かったことがある。


この場所にいる人間の大半は、国のためになど動いていない。


もちろん、全員ではない。


真面目な議員もいる。


地元のために泥を被る者もいる。


数字を読み、資料を読み、現場へ足を運ぶ者もいる。


だが、多くは違う。


足の引っ張り合い。


派閥。


支持団体への媚び。


国をどうするかではない。


自分の立ち位置をどう守るか。


国会という場所は、もっと大きなものだと思っていた。


いや、思っていたかった。


実際は、思っていたよりずっと狭い。


そして、想像していたよりずっと臭い。


「久世議員」


委員会室で、名前を呼ばれた。


俺は顔を上げる。


向かい側の席で、一人の女性議員が資料を掲げていた。


年齢は六十前後。


柔らかい声。


弱者の味方という顔。


だが、その目は資料ではなく、カメラを見ている。


「危険個体への監視強化という名目で、特定の属性を持つ方々を社会から排除するような法案には、重大な懸念があります」


特定の属性。


便利な言葉だ。


デポルと言わない。


犯罪者とも言わない。


被害者の存在も薄める。


言葉を薄めれば、責任も薄まると思っているのだろう。


「過去には、週刊誌報道により、無実の方がデポルだと決めつけられ、地域から排除されたという事例もあります」


出た。


週刊誌。


出所の怪しい記事。


検証されていない出来事。


それらを、あたかも国民全体の声のように掲げる。


「私たちは、恐怖に基づいた政治ではなく、共生に基づいた政治を行うべきです」


俺は黙って聞いていた。


共生。


また、その言葉だ。


何人殺されれば、共に生きたことになるのか。


何人壊されれば、制度は優しい顔をするのか。


想像以上にこの手の議員は多い。


デポルや犯罪者に対する法案が出ると、感情論だと叫ぶ。


だが、自分たちは週刊誌の記事や切り取られた証言を持ち出し、感情を煽る。


被害者の怒りは危険。


加害者の事情は配慮。


便利な倫理だ。


吐き気がする。


もっと言えばーー


こういう輩は、一人残らず……。


「久世議員、いかがですか」


議員がこちらを見る。


周囲の視線も集まった。


俺はマイクの前に少し身を寄せる。


「まず、今お出しになった週刊誌の記事についてですが」


俺は資料を見る。


「その件は、警察発表ではデポル認定されていません。行政記録上も危険個体とは扱われていない。つまり、今回の法案とは直接関係がありません」


女性議員の眉がわずかに動く。


「しかし、社会的な萎縮が」


「次に」


俺は遮った。


「記事に出ている地域排除という表現ですが、自治体側の記録では、近隣トラブルに伴う転居支援です。これも、今回の危険個体監視とは別件です」


委員会室が少しざわつく。


「つまり、先生は」


「印象操作はやめましょう」


俺は言った。


声は荒げない。


荒げれば、相手は喜ぶ。


「デポルの犯罪について議論する場で、デポルかどうかも不明な週刊誌記事を持ち出し、あたかも本法案が無実の市民を排除するためのものだと印象づけるのは、不誠実です」


女性議員の顔が硬くなる。


「不誠実とは、失礼ではありませんか」


「失礼で済んでいるうちは、まだ丁寧な方です」


隣の議員が咳払いをした。


止めろという合図だろう。


知らない。


俺は続ける。


「本法案は、被害届、行政記録、警察の確認、医療機関の記録、複数の客観情報を基に、危険個体への監視と再犯防止措置を強化するものです」


「監視という言葉自体が」


「被害者は、監視されてきましたよ」


俺は言った。


「加害者がいつ戻ってくるか。どこに住んでいるか。次は誰が狙われるか。毎日、毎晩、怯えながら生活している」


委員会室が静かになる。


「その恐怖は、政治が扱うに値しない感情ですか」


女性議員は答えなかった。


答えられなかったのではない。


答えると、損をすると判断した顔だった。


その程度だ。


俺は席へ戻る。


この委員会室だけで、何人いる。


十人か。


二十人か。


国会全体なら、もっといる。


俺なら殺せるのにな。


一人残らず。


そんな考えが、ひどく自然に浮かんだ。


人間の顔をして、デポルの逃げ道を作る者たち。


だが、今は殺さない。


山本誠の声が、頭の奥に残っている。


君は、どうするのだ。


国をどう守る。


井口おさむの顔も浮かんだ。


あの男もまた、どこかで国を見ている。


気に食わない。


全員、気に食わない。


だが、俺はもう国会の中にいる。


ここで暴力だけを振るえば、届く場所が狭くなる。


殺すためではない。


殺す前に、剥がすためにここへ来た。


委員会が終わる頃、端末が震えた。


みずきからだった。


短い文面。


『匿名流犯。大阪で動きあり』


続けて、めぐみからも届く。


『特別行政省から合同会議の打診。井口おさむ名義』


井口。


あのデポル大臣が、こちらへ手を伸ばしてきた。


俺は画面を見つめる。


国会の中では、デポルを守る言葉が飛び交っている。


大阪では、匿名流犯が芽を出している。


特別行政省は、井口の名で動き始めた。


そして、その奥には恐らく、別の誰かがいる。


俺は立ち上がった。


委員会室の扉の向こうで、議員たちの笑い声が聞こえる。


軽い声だった。


この国の裏側で何が流れているのかも知らずに。


いや。


知っていて笑っている者もいるのだろう。


その時、みずきから二通目が届いた。


『実行役の一人、十六歳。高校生』


続いて、画像が一枚。


駅前の防犯カメラに映った少年の横で、肌を赤黒く濁らせた男が笑っていた。


俺は端末を握り直す。


大阪で、もう始まっている。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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