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第76話:囮_騒擾編②

ーー永田フェーズ


会議室の空気は重かった。


長机。


黒い椅子。


壁際のホワイトボード。


消し残された文字の跡。


隅に置かれたテレビ。


法律関係者が使う貸し会議室だった。


派手さはない。


人目も少ない。


話すにはちょうどいい。


俺は、テーブルの上に置いた資料を睨んでいた。


昨日の会見の記事。


切り抜かれた動画。


拡散された字幕。


″久世市長、永田氏を売国奴呼ばわり。″


″元弁護士の過去を追及。″


″加害者更生団体と法曹協会の関係に疑惑。″


見出しだけでも、腹が立つ。


その全部が、俺に向いている。


「どういうつもりだ、あの男」


低く吐き捨てた。


向かいに座っている男は、すぐには答えなかった。


丸川修司。


裁判官。


細い銀縁の眼鏡。


整えられた髪。


無駄な動きの少ない手。


感情を表に出さない顔。


俺は、その顔が昔から嫌いだった。


こちらが燃えている時でも、丸川はいつも水の中にいるような顔をする。


「どういうつもりも何も、仕掛けてきたということでしょう」


丸川は、資料から目を離さずに言った。


「仕掛けてきた? 市長が、会見で、あんな言いがかりを?」


「言いがかりで終わればいいですね」


眉が跳ねた。


「どういう意味だ」


丸川は、テーブルの上のタブレットを指で滑らせた。


久世の会見映像が止まっている。


ちょうど、久世がこちらを見ている場面。


静かな顔。


怒鳴ってはいない。


だが、切り込む場所を選んでいた。


『丸川裁判官とは、ずいぶん相性がよかったようですね』


あの声が、耳に残っている。


唇を噛んだ。


「名前を出されたのは、こちらも同じです」


丸川は言った。


「私の名前を会見で出すなど、通常ではありえません」


「だから、抗議すればいい。権力者による個人攻撃だ」


「抗議はするでしょう」


「なら」


「問題は、久世恒一が証拠を持っているかどうかです」


俺は黙った。


そこだった。


一番見たくない場所。


久世が何も知らずに会見で暴れたのなら、潰せる。


記者への圧力。


加害者更生への差別。


いくらでも燃やせる。


だが、証拠を持っているなら話は違う。


俺が弁護士だった頃の案件。


丸川が判断に関与した案件。


不起訴。


無罪。


軽い処分。


示談。


それらを一本の線にされたら、面倒なことになる。


「証拠など、あるわけがない」


自分へ言い聞かせるように言った。


丸川は、それを聞いても表情を変えない。


「本当にそう思っているなら、ここへ私を呼ばないでしょう」


「……」


「久世市長は、三年前から常任理事」


丸川は資料をめくった。


「同時期に、水谷ひとみは副代表理事」


「だから何だ」


「三年です」


丸川は、ようやく顔を上げた。


「三年あれば、見えるものはあります」


奥歯を噛んだ。


そんなことは分かっている。


なぜ山本は、あの二人を協会内に入れたのか。


今でも理解できない。


「山本さんには連絡したのか」


「出ません」


「秘書は」


「折り返すとのことです」


舌打ちした。


どうせ折り返しもないのだろう。


「つまり、見捨てるつもりか」


「まだ分かりません」


「分かるだろ。こういう時に返事がないのは、切り離す準備だ」


丸川は否定しなかった。


その沈黙が、さらに腹立たしい。


俺は立ち上がり、会議室の中を歩いた。


古い空調の音がする。


外の廊下から、誰かの靴音が一度だけ響いた。


「私は、あの団体のために動いてきた」


「ええ」


「法曹協会にも協力してきた」


「ええ」


「山本さんの意向にも従った」


「ええ」


「それで切られるのか」


丸川は、少しだけ目を細めた。


「永田さん」


「何だ」


「山本さんから見れば、あなたも私も駒なんです」


「……」


「どちらも、不要なら切られる」


喉が詰まった。


分かっている。


分かっているから、聞きたくなかった。


山本誠。


いや、篠倉怜司。


あの男は、表に出ない。


笑わない。


慌てない。


使えるものは使い、切る時は切る。


自分たちが、その線の上に乗せられていることくらい分かっている。


だが、久世に切られるより先に山本に切られるなど、冗談ではない。


「テレビをつけてください」


丸川が言った。


「は?」


「関西ローカルに出ています。久世市長が」


眉を寄せた。


丸川がリモコンを取る。


壁際のテレビがつく。


情報番組だった。


昼前の関西ローカル。


明るいスタジオ。


女性アナウンサー。


コメンテーター。


そして、その中央に久世恒一が座っていた。


笑っていた。


昨日、会見で人を刺した男の顔ではない。


奥歯が鳴った。


「ふざけやがって」


丸川は無言で音量を上げた。


画面の中で、司会者が少し困ったように笑っている。


「昨日の記者会見、かなり話題になっています。久世市長、かなり踏み込んだ発言もありましたが」


久世は柔らかく笑った。


「踏み込んだつもりはありませんよ」


「そうなんですか」


「いつも質問される側ですからね。たまには、質問する側にも聞かれる覚悟を持っていただきたいと思っただけです」


スタジオに軽い笑いが起きた。


テーブルを叩きそうになった。


丸川が視線だけで止める。


「記者の方に対して、個人攻撃だという批判も出ています」


「そうですね」


久世は頷く。


「批判は受けます。ただ、私が言ったのは、個人を攻撃したいという話ではありません」


嘘をつけ。


心の中で吐き捨てた。


久世は続けた。


「加害者更生を語る人が、過去にどのような立場で、どのような事件に関わり、誰と繋がり、誰を守ってきたのか。そこを確認することは、市民にとって必要なことだと考えています」


司会者が少し身を乗り出す。


「では、証拠はあるということですか。昨日の発言について」


久世は、少しだけ間を置いた。


そして笑った。


「もちろん。ございますよ」


背中に、冷たいものが走った。


丸川の表情もわずかに変わる。


テレビの中の司会者も、明らかに反応した。


「それは、警察には提出されているんでしょうか」


「いえ、まだです」


「まだ?」


「はい」


久世は、まっすぐカメラを見る。


「正しく捜査されるか、分かりませんので」


スタジオの空気が一瞬止まった。


警察。


検察。


司法。


そのどれかに不信を向ける言葉。


俺は理解した。


久世は、決定的なことは言っていない。


証拠があると言った。


だが、中身は言わない。


警察にも出していないと言った。


その理由を、正しく捜査されるか分からないとした。


これは挑発だ。


こちらを動かすための餌だ。


丸川も同じことを考えたのだろう。


「挑発していますね」


低い声で言った。


俺はテレビから目を離さない。


「証拠はあると思うか」


「あると見るべきです」


「本当に?」


「ないなら、昨日の会見で私の名前までは出さない」


拳を握った。


画面の中で久世は、さらに穏やかな顔で話している。


「加害者更生は大切な議論です。ただし、それが被害者を黙らせるための道具になっているなら、話は別です」


コメンテーターが頷く。


「被害者支援とのバランスですね」


「……ええ」


久世は笑う。


「加害者の未来だけが未来ではありませんから」


とうとうテーブルを殴った。


鈍い音が会議室に響く。


「消せないのか」


丸川が眉をひそめる。


「今、何と言いました」


「消せないのかと言った」


「このタイミングで久世に何かあれば、疑われるのは私たちです」


「俺たちがやる必要はない」


丸川は沈黙した。


俺は、ゆっくりとテレビへ近づく。


画面の中の久世の顔。


余裕のある笑み。


それが腹の底を煮えさせる。


「デポルを使えばいい」


丸川はすぐに答えなかった。


「今のあいつは、難波の一等地に会社と事務局を構えている」


「人が多い」


「逃げ道も多い」


「誰が近づいたかなど、いくらでも紛れる」


丸川は眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。


「市長に直接ですか」


「殺せとは言っていない」


「同じことです」


「死なない程度に痛めつければいい。怪我をさせる。混乱を起こす。会見で好き勝手に喋る余裕を奪う」


「普通の政治家なら、守りに入るでしょうね」


丸川は冷たく返した。


「何が言いたい」


「久世恒一は普通ではないと思いますが」


「市長一人に怯えるのか」


「用心しているだけです」


丸川は声を乱さない。


「やるなら、一体では足りません」


「……」


丸川は息を吐いた。


「人混みに混ぜるなら、五体」


口角が少し上がった。


「裁判官にしては、物騒なことを言う」


「私は事実を述べただけです」


五体。


ちょうどいい。


「山本さんの許可は」


「返事がない」


「だから動くと?」


「返事がないなら、こちらで何とかしろということだ」


丸川は何も言わなかった。


それを同意と受け取った。


テレビの中で、久世がまだ笑っている。


「加害者の更生を否定する市長が、加害者に襲われる」


低く言った。


「皮肉だな」


丸川は小さく息を吐く。


「使うなら、団体の表の線ではなく、外側の者にしてください」


「分かっている」


「法曹協会にも、私にも、繋がらないように」


「分かっていると言っている」


丸川はそれ以上何も言わなかった。


俺はスマートフォンを取り出した。


連絡先を開く。


名前では登録していない。


番号だけ。


何度か使った線。


本来なら、自分が直接触るべきではない。


だが、もうそんなことを言っている場合ではなかった。


久世恒一を黙らせる。


それが先だ。


電話をかけた。


短く伝える。


「前に話した計画。五人で行け。事務所前だ」


それだけ言って、電話を切った。


会議室には、テレビの音だけが残った。


画面の中で、久世恒一はまだ笑っていた。


俺はスマートフォンを握ったまま、しばらくその顔を見ていた。


「これでいい」


自分に言うように呟いた。


丸川は答えなかった。


ただ、テレビの画面を見ていた。


久世が、最後にこう言った。


「被害者の声が、加害者の未来に塗り潰される社会にはしたくありません」


司会者が頷く。


スタジオが拍手する。


拍手。


拍手。


拍手。


その音が、会議室の薄い壁に反響する。


「気持ち悪い」


吐き捨てた。


丸川がテレビを消した。


(今はまだ、久世恒一を黙らせるだけでいい。いずれ……)




夕方。


難波は、いつも通り人で溢れていた。


会社員。


観光客。


学生。


買い物客。


店の呼び込み。


信号待ちの人波。


誰が誰を見ているのか分からない街。


誰が誰を狙っているのか分からない街。


俺は、少し離れた場所からビルを見ていた。


久世恒一の会社。


そして政治事務局が入っているビル。


人通りは多い。


カメラも多い。


だが、それは逆に都合がいい。


混乱が起きれば、映像はいくらでも出る。


だが、誰が指示したかまでは映らない。


スマートフォンに短い通知が入った。


(配置完了)


画面を消す。


丸川からも連絡が来ている。


(無関係を保て)


しつこい。


そんなことは分かっている。


人混みの中へ視線を走らせた。


スーツ姿の男。


配達員風の男。


観光客風の男。


イヤホンをした若い男。


背の高い女。


全員が、ただの通行人に見える。


だが、違う。


肌の奥に、黒いものを隠している。


久世恒一。


お前が加害者を語るなら。


加害者の現実を見せてやる。


唇の端が、わずかに上がった。


その時。


ビルの入口から、久世恒一が出てきた。


一人だった。


警護らしい人間はいない。


いつも通りの顔。


こちらに気づいている様子もない。


息を止めた。


一体目が動く。


人混みの中で、スーツの男がゆっくりと進路を変えた。


二体目が続く。


三体目。


四体目。


五体目。


スマートフォンを握る手に力が入る。


終わりだ。


そう思った。


だが、次の瞬間。


久世恒一が、こちらを見た。


人混みの向こうから。


まっすぐに。


背筋に、冷たいものが走った。


久世は口元だけで笑った。


まるで、最初からそこにいることを知っていたように。


ようやく気づいた。


誘われた。


だが、止めるにはもう遅い。


難波の雑踏の中で、一体目のデポルが久世へ向かって走り出した。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。 この物語は 「正義と暴力の境界」 「人間と異種の曖昧さ」 をテーマに進んでいきます。 少しでも続きが気になれば、 ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです( ^ω^) #現代バトル #社会問題 #ダークヒーロー #復讐 #高校生主人公
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