第75話:始動_騒擾編①
大阪市庁舎の記者会見室は、いつもと同じ空気だった。
白い壁。
並んだ椅子。
記者のノートパソコン。
カメラのレンズ。
マイク。
紙の匂い。
人の匂い。
言葉で人を殴るための場所。
俺は、市長としてそこに座っていた。
大阪市長としての任期は、最後の一年に入っている。
この三年で、治安政策も、被害者支援も、防犯予算の拡大も進めてきた。
市営住宅の再調査も終わっていない。
法曹協会の中身も、まだ剥がしきれていない。
やることは多い。
それでも、今日は一つ決めていた。
(ようやく反撃開始だ)
司会が定例発表を終える。
記者の手が上がる。
最初の質問。
二番目の質問。
予算。
地域防犯。
若者支援。
いつもの流れだった。
そして、いつもの男が立ち上がった。
永田修一。
フリーのジャーナリスト。
加害者更生を語る男。
俺の会見には、必ずと言っていいほど顔を出す。
毎回、同じような言葉を使う。
更生。
共生。
社会復帰。
デポルの権利。
永田はマイクを握った。
痩せた顔。
妙に通る声。
自分だけが正しい場所に立っていると信じている目。
「久世市長」
「はい」
「市長は、危険個体への監視体制をさらに強化する方針を示されていますが、それは加害者の更生機会を奪うものではありませんか」
来た。
(何回目だよ、その質問)
記者席の何人かが、画面から目を上げる。
永田は続ける。
「犯罪を犯した者にも、社会へ戻る権利があります。処罰感情に基づいた政策が、共生社会を壊しているのではないかと考えます」
いつもなら、ここで俺は流していた。
制度の説明。
再犯防止の必要性。
被害者保護との両立。
無難な言葉を並べて終わる。
だが、今日は違う。
俺はマイクへ顔を近づけた。
「永田さん」
「はい」
「あなたは、いつも加害者更生を語りますね」
永田の眉が、わずかに動いた。
「それが、社会に必要な議論だからです」
「なるほど」
俺は頷いた。
「では、被害者の気持ちを、一度でも考えたことはありますか」
会見室の空気が変わった。
永田の目が細くなる。
「市長。それは質問の趣旨を」
「あなたの大切な人が殺されても、加害者には更生の機会が必要だと、その場で言えますか」
永田が黙る。
俺は止めなかった。
「あなたの身近な人が殴られ、奪われ、壊されても、加害者の未来を語れますか」
カメラのレンズが、俺へ寄る。
分かる。
この場の温度が上がっている。
永田は表情を整えた。
「それは感情論です。私は制度の話をしています」
「制度の話なら、なおさら伺いたい」
俺は言った。
「永田さん、元弁護士ですよね」
永田の顔から、薄い笑みが消えた。
周囲の記者が反応する。
俺は続ける。
「教えてくださいよ」
「弁護士としての、いろはを」
会見室が静かになる。
「被害者が納得していない段階で、示談を成立させるには、まずどこから崩すんですか」
永田は答えない。
「何度も訴えられている加害者を、不起訴へ持っていくには、どういう準備が必要なんですか」
「久世市長」
永田の声が少し低くなった。
「その質問は、私個人への不当な攻撃です」
「いえいえ、永田さんがいつも私にしてくれる質問と同じですよ」
俺は即座に返す。
永田の口が止まる。
記者席の数人が、打鍵を始めた。
「丸川裁判官とは、ずいぶん相性がよかったようですね」
永田の肩が、わずかに固まった。
「永田さんが弁護人として関わり、丸川さんが判断に関与した案件」
「不起訴」
「無罪」
「軽い処分」
「そして、被害者側の示談」
言葉を一つずつ置く。
「偶然というのは重なるものですね」
永田はマイクを握り直す。
「市長、あなたは司法判断に政治家として圧力をかけるおつもりですか」
「圧力ではありません」
「では何ですか」
「確認です」
俺は永田を見た。
「加害者更生を語る元弁護士が、過去にどんな事件を扱い、誰と繋がり、誰を守ってきたのか」
「市民には知る権利があるでしょう」
永田の言葉が詰まった。
知る権利。
権力監視。
透明性。
いつも永田が使ってきた言葉だ。
返されると弱い。
言葉というものは、たいていそうだ。
他人に向けている時だけ鋭い。
自分に向くと、途端に重くなる。
「さらに伺います」
俺は続けた。
「あなたが関わっていた加害者更生系の団体」
「その団体と法曹協会の一部委員」
「そして、我らが法曹協会トップ」
永田の目が動いた。
ほんの一瞬。
だが、十分だった。
「この三つは、偶然繋がっていたんですか」
永田は息を吸った。
「市長」
「はい」
「それ以上は、明確な名誉毀損です」
「どのあたりがですか。ただの確認ですよね?」
永田の口が止まった。
会見室の空気が、さらに硬くなる。
「私は関係性の確認をしているだけじゃないですか」
俺は感情を抑え、表情を変えない。
永田の声を聞くたびに、胸の奥で何かが燻る。
被害者の前で、加害者の未来を語る声。
聞くたびに吐き気がする。
叶うならこういう連中は、一人残らずこの手でーー。
「永田さん」
「何でしょうか」
「日本の刑法において、応報という考え方はご存知ですよね」
「はい」
「犯罪に対して、相応の報いを与えるという考え方です」
永田が眉を寄せる。
「被害者は、加害者の更生を望んでいるわけではありません」
「……」
俺は続ける。
「壊された生活」
「眠れなくなった夜」
「人を信じられなくなった身体」
「そして、奪われた家族や友人」
会見室が静まり返る。
「人一人を傷つけ、殺しておいて、その者が社会でのうのうと生きていく」
「それ自体がおかしなことだと思いませんか」
永田の顔がこわばる。
「永田さん」
俺は、あえて名前を呼んだ。
「あなた自身も、過去に何度か事件を起こしていますよね」
会見室が凍った。
永田の目が、大きく開く。
「不起訴になっている。一度ではない」
「その経験があるから、加害者の更生に詳しいのですか」
永田の目が吊り上がる。
「今のは名誉毀損だ!」
その通り。
だが気にしない。
「元加害者の永田さん」
永田が、マイクを握り潰すように力を込めた。
「久世市長!」
「加害者の社会復帰は語る」
俺は止めなかった。
「でも、被害者が社会へ戻る時間は語らない」
「なぜですか」
永田は答えない。
「被害者が黙れば、加害者は更生できる」
「被害者が許せば、社会は前に進む」
「被害者が忘れれば、事件は終わる」
「あなたたちの言う共生は、いつも被害者にだけ我慢を求める」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「それは共生ではありません」
「加害者側だけの都合です」
永田の顔が赤くなる。
「久世市長。あなたは、加害者更生に関わる市民活動そのものを否定するのですか」
「いいえ」
「ではなぜ、そのような」
「市民活動の皮を被って、加害者を逃がす仕組みを作る者を否定しているだけです」
永田の喉が動いた。
「それは、誰のことを言っているんですか」
「これから確認しますよ」
俺は言った。
「あなたにも」
「丸川裁判官にも」
「法曹協会のトップにもね」
永田はマイクから手を離した。
「私は、この場でのこれ以上の質問を拒否します」
「質問する側が、質問されると退室ですか」
「権力者による個人攻撃に応じる義務はありません」
永田は資料を掴んだ。
「本日の市長発言については、記者として厳重に抗議します」
「どうぞ」
「あなたは、加害者更生を語る人間を売国奴扱いするのですね」
俺は一拍置いた。
その言葉を待っていたわけではない。
だが、来るとは思っていた。
「いいえ。あなたを売国奴だと思っているだけですよ」
記者席がざわつく。
永田は顔を歪めた。
「撤回を求めます」
「個人的な意見ですよ」
「誰が聞いても私への誹謗中傷だ」
「では、お互い様ですね。この三年間、ずっとあなたには虐められましたから」
永田は答えなかった。
そのまま鞄を持ち、会見室の出口へ向かう。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「久世市長」
「はい」
「あなたは、自分が何を始めたのか分かっていない」
「へえ」
俺は言った。
「しかしこちらとしても、三年前から準備していました」
永田の顔が止まった。
「ようやく、始められる」
永田は何も言わず、会見室を出ていった。
扉が閉まる。
会場には、ざわめきだけが残った。
司会が慌てて次の質問を促す。
だが、もう流れは戻らない。
記者たちは、今の会見を記事にする。
動画にする。
切り取る。
燃やす。
それでいい。
燃えれば、煙が出る。
煙が出れば、隠れている者が動く。
山本誠。
篠倉怜司。
どちらが本当の名前かは分からない。
法曹協会の奥で、ほとんど顔を出さなくなった男。
今度は、こちらから行く。
会見が終わる頃には、みずきからグループチャットに短い連絡が入っていた。
(もう拡散されてる)
その次に、めぐみから。
(予定通り。珍しく感情で走らなかったね)
最後に、黒瀬から。
(こちらでも拾います。永田側も動くと思います)
俺は画面を閉じた。
始まった。
いや。
始めた。
怒りはある。
殺意もある。
だが、それは奥に沈んでいる。
永田。
丸川。
山本。
法曹協会。
加害者更生の皮を被った、売国奴。
三年かけて見た腐敗を、今日から剥がす。
言葉から。
記録から。
報道から。
法から。
そして最後は、必要なら暴力で。
まず叩き潰すのは、永田という小物ではない。
法曹協会。
全部を公にし、内部から壊す。
デポルを根絶する。
俺が、もう一度生きている理由。
ようやくその中心に、大きく近づく一年になる。
会見室を出る時、廊下の窓に自分の顔が映る。
到底正義の味方と呼べるものではなかった。




