第73話:着席_支配者の椅子編⑥
山本誠が消えた。
血を落としながら。
地下駐車場の奥へ歩いていった。
殺せなかった。
だが、それでよかったはずだ。
手の中にはまだナイフがある。
握力が緩まない。
血で濡れた柄が、少し滑る。
井口おさむは、山本が消えた方向を少しだけ見ていた。
それから、こちらを向く。
「いやあ、実に有意義な協議だったね」
誰も答えない。
井口は気にしない。
「久世くん」
俺を見る。
「君は相変わらず危ないね」
「……」
「でも、危ないからこそ役に立つ。今日よく分かった」
俺は何も言わなかった。
言えば、まだ何かを壊しそうだった。
井口は笑う。
「特別行政省の件は、山本さんに動いてもらう。もちろん、私も私で動く。君たちは法曹協会。私は本家大元の行政。役割が分かれてきた」
「……協力していく、みたいな話でしたか?」
井口は楽しそうに目を細める。
「そうだ。今日のはよかった。だが、君はまだ私の範疇を超えていない」
それだけ言い放ち、井口は踵を返した。
足音が遠ざかる。
最後に一度だけ、声が届く。
「大阪で作った檻は、まだ途中だ。久世くん、君が壊すのか、広げるのか、楽しみにしているよ」
そのまま、井口おさむは消えた。
血。
火薬。
古い油の匂い。
どれも混ざって、肺の奥に残る。
俺は、やっとめぐみを見た。
後ろ手に拘束されている。
左頬は赤く腫れている。
また、胸の奥が捻れる。
思い出したかのように、俺の手が震え出す。
俺はやっとの思いで、めぐみの手の結束バンドを切った。
「めぐみ」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「うん」
「俺がもっと気を張ってたら、こんなことにはならなかった」
言葉が、喉に引っかかる。
「本当に、ごめん」
めぐみは、少しだけ目を細めた。
「恒一が思うようなことにはなってないよ」
息が止まる。
「本当に?」
「うん」
めぐみは、腫れた頬を少しだけ動かす。
痛いのか、ほんの少し眉が寄った。
「殴られたのは、殴らせたから」
「……何故?」
「カメラが動いてると思ったから」
めぐみは、部屋の方を見るように視線を動かした。
「カメラが起動してるなら、後でみずきが拾えるかもしれない」
「そのために、わざと?」
「うん。後でゆすれたらラッキーだと思って」
軽く言っているだけだ。
本当は、痛かったはずだ。
怖かったはずだ。
だが、めぐみはそれを表に出さない。
「服は」
「抵抗した時に乱れた。これも同じ理由」
「ぐったりしてたのは」
めぐみは、そこで初めて少し笑った。
「お腹空いてたから」
「……」
「お昼前に拉致られたから。何も食べてない」
膝から力が抜けそうになる。
胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ緩む。
視界が滲みかける。
安心してしまった。
めぐみが無事だった。
俺が想像した最悪ではなかった。
それだけで、身体が崩れそうになる。
その時。
床を擦る音が聞こえた。
振り向く。
播磨が、這うように動いていた。
耳を押さえながら。
少しでも遠ざかろうとしている。
黒瀬も、拳銃を下ろしたまま、こちらを見ている。
めぐみが何か言おうとした。
その前に、俺は動いていた。
警棒を握る。
播磨のすぐ横へ踏み込む。
振り下ろす。
骨ではない。
頭でもない。
床を叩いた。
播磨の顔のすぐ横。
コンクリートが鈍い音を返す。
播磨が悲鳴を上げた。
「ひっ、ひいいっ」
「次はない」
俺は播磨を見下ろした。
播磨は震えている。
過呼吸のように、息を吸って吐いている。
涙と鼻水で顔が崩れていた。
「裏切ってもいい」
播磨の目が見開かれる。
「どこかに逃げてもいい」
俺は警棒を引き上げる。
「ただし、次に俺たちに何かあったら、問答無用で殺す」
播磨の喉が鳴った。
「わ、私は」
「役に立たなくても殺す」
「えっ!えっ、そ、んな」
一瞬の間の後、播磨は何度も頷いた。
頷きすぎて、首が壊れそうだった。
「は、はい。はい。分かりました。分かりました」
播磨は立とうとして、失敗した。
それでも、這うように離れていく。
途中で一度、こちらを見る。
俺が警棒を少し動かすだけで、播磨は短い悲鳴を上げた。
そして、逃げた。
耳を押さえ、足をもつれさせながら。
地下駐車場の奥へ消えていった。
俺は黒瀬を見る。
左腕を押さえている。
顔色は悪い。
それでも、目は死んでいない。
恐怖で折れた。
だが、折れたまま終わる女ではない。
「こちらの陣営でできることをしろ」
「……」
「嫌なら今すぐ消え失せろ」
黒瀬の唇が、少し動く。
言葉は出ない。
「ただし、こちらに来てから裏切るなら、播磨と同じだ」
俺は警棒を下げたまま言った。
「今、決めろ」
血の匂いの中で、ゆっくりと呼吸を整えている。
涙はまだ残っている。
汗も引いていない。
それでも、黒瀬は顔を上げた。
「私は」
声が掠れている。
「国のトップになりたい」
その言葉は、場違いなほどはっきりしていた。
「だから、山本や総理大臣たちを押しのけたい」
俺は黙って聞く。
「あなたがいるなら、それができると確信した」
黒瀬は俺を見る。
恐怖。
計算。
欲望。
全部が同じ目の中にある。
「私は、あなたを信用するし、力を利用したい」
「……」
「だから、久世陣営につかせてもらいます」
黒瀬の声が、少しだけ戻る。
「その上で、裏切ったと思う瞬間がきたら殺してくれて構わない」
俺はめぐみを見た。
めぐみは何も言わない。
ただ、俺に判断を渡している。
いや、違う。
俺が間違えないか見ている。
「まあ、いいでしょう」
俺は歩き出した。
(……今は殺さないさ)
俺はめぐみの横に立ち、出口へ向かった。
黒瀬がその場に立っている。
俺は振り返らずに言った。
「黒瀬さん」
「はい」
「俺の最終目的の通り道には、総理大臣のポストを獲得する、というのがあります」
黒瀬の息が止まった。
「先にあなたがなったなら、夜道には気をつけてください」
「……え?今なんて……」
「冗談ですよ」
背後で、黒瀬がへたり込む音がした。
・
・
・
地下駐車場を出ると、夜の空気が肺に入った。
鉄と油の匂いが、少しだけ薄まる。
それでも、身体から血の匂いが消えない。
胸の傷。
右肩の痛み。
左腕の違和感。
左足の熱。
今になって、全部が戻ってくる。
銃弾を受けたことを、痛みが思い出させる。
めぐみが横にいる。
歩けている。
それだけを何度も確認する。
建物の外に、一台の車が停まっていた。
運転席から、水谷ひとみが降りてくる。
腕を組んでいた。
顔は笑っていない。
いつものような、偉そうな軽口もない。
「おう、おつかれ」
それだけだった。
俺とめぐみは後部座席に乗る。
ひとみは運転席へ戻る。
車が走り出す。
しばらく、誰も喋らなかった。
街灯が窓を流れる。
大阪の夜が、何事もなかったように続いている。
ひとみが口を開いた。
「みずきから聞いて飛んできたんやで」
「ありがとうございます」
それきり、少し沈黙が落ちる。
俺は窓を見る。
車内のガラスに、自分の顔が映っている。
血で汚れた顔。
目も戻っていない。
「ひとみさん」
「なんや」
「法曹協会の件です」
「なんやそれ」
「明日付けで、副代表理事ですよ。そのうち連絡が来るでしょう」
ひとみは、少しだけハンドルを握る手に力を入れた。
いつものひとみなら、笑ったはずだ。
「出世やな。給料上がるんか」
そう言ったかもしれない。
「めんどいこと押しつけんな」
満更でもなかったかもしれない。
でも、何も言わなかった。
少し遅れて、短く答えた。
「そうか」
それだけだった。
最近、ひとみと話していない。
この女の様子は、著しくおかしい。
一時期に比べ、元気がないようにも見える。
(近いうちに確認した方がいいな。ひとみが、何を抱えているのか、企んでいるのか)
俺は目を閉じた。
めぐみの機転で、最大の悪手は免れた。
全員を殺すこと。
あそこで全員殺していれば、俺は殺人犯で終わっていた。
黒瀬も。
播磨も。
山本も。
井口も。
全員を処理すれば、簡単だった。
だが、それでは何も残らない。
死体と追跡だけが残る。
生かしたから、線が残った。
黒瀬は報道と情報。
播磨は法曹協会への古い通路。
トップが山本誠であることは変わらない。
しかし俺は、常任理事。
ようやく、中へ入れる。
外から殴るだけでは壊せなかった壁。
中から触れる。
法曹協会。
デポルを逃がし、被害者を黙らせ、制度の奥で牙を隠してきた場所。
その中身を、ようやく解剖できる。
車は夜の大阪を走る。
誰も笑わない。
誰も勝ったと言わない。
それでも、道は変わった。
市長でも、弁護士でも足りない。
暴力だけでも、法律だけでも足りない。
椅子がいる。
なければ奪う。
そして、次は。
法曹協会の沈黙を剥がす。




