第72話:協議会_支配者の椅子編⑤
ーー山本フェーズ
銃声が、地下駐車場の壁に跳ねた。
撃たれたのは、久世恒一ではない。
最後に残っていた私の側近だった。
デポルの頭部が弾け、身体が床に崩れる。
撃ったのは、黒瀬麗奈。
彼女は拳銃を両手で握っていた。
左腕はまともに動いていない。
顔は汗と涙で崩れている。
それでも、銃口は久世ではなく、倒れたデポルへ向いていた。
「勝手なことをして、すみません」
黒瀬の声は震えていた。
「けど、これで忠義を尽くします。ほんの少しでいい。信頼してください」
久世恒一は答えない。
すでに黒瀬を見ていない。
血に濡れた警棒。
右手のナイフ。
裂けた胸元。
そこから滴る血。
その姿で、こちらへ歩いてくる。
ゆっくりと。
まっすぐに。
足取りは乱れていない。
それが、余計に異常だった。
私は、すぐに理解した。
人質は無意味だった。
むしろ、逆効果だった。
加藤めぐみを取れば、久世恒一は動く。
そこまでは正しい。
だが、動いた久世恒一を制御できるかどうか。
そこを見誤った。
この男は、脅せば止まる人間ではない。
近しい者を取られれば、交渉の席につく人間でもない。
ただ、逆鱗に触れただけだった。
側近四名は優秀だった。
失ったのは痛手だ。
だが、今考えるべきは損失ではない。
この場をどう抜けるか。
どう生きて、どう椅子を守るか。
椅子を守ることは、国を守ることと同義だ。
久世が近づく。
黒瀬はまだ何かを言おうとしていた。
播磨も同じだ。
播磨は耳を押さえて床に座り込み、声にならない声を漏らしている。
久世の目は、私だけを見ていた。
正確には、私の背後にいる加藤めぐみを見ていたのかもしれない。
だが、その怒りは私に向いている。
「久世恒一」
私は名を呼んだ。
声は落ち着いていた。
動揺を見せても意味はない。
命乞いをしても価値はない。
「止まりなさい」
久世は止まらない。
「私は法曹協会の代表です」
一歩。
「山本誠という名前を、あなたも知っているはずだ」
一歩。
「この場で私を殺せば、君は終わる」
一歩。
距離が消える。
次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。
身体が壁へ叩きつけられ、呼吸が止まる。
顔面に拳が入った。
視界が揺れる。
頬骨が軋む。
怒鳴らない。
罵倒しない。
問いもしない。
人間を殴っているのではない。
邪魔なものを破壊している。
そんな手つきだった。
私は床に落ちた。
膝をつく。
すぐに髪を掴まれ、顔を上げさせられる。
腹に膝が入る。
胃液が上がる。
喉が焼ける。
それでも、命乞いはしない。
法曹協会の椅子に座る者が、ここで許しを請えば、椅子ごと死ぬ。
「殺せばいい」
私は血を吐きながら言った。
久世の動きが、わずかに止まる。
「だが、君たちは追われるだけだ」
久世の目が動かない。
私は続ける。
「私は法曹協会の上にいる。弁護士、検察、裁判官、多岐にわたる線がある。私が死ねば、空白ができる」
息が苦しい。
だが、言葉は切らない。
「その空白を、君が埋められるのか」
久世の拳が、また顔に入った。
視界の端が白く弾ける。
鼻血が落ちる。
それでも、笑った。
「殺せ」
声が掠れる。
「私は、君に屈しない」
久世の右手が、ナイフを握り直す。
同時に、加藤が声を出す。
「恒一」
加藤が話しかけても、視線はこちらのまま。
まるで、獲物を捉えた獣のような目だ。
「見誤らないで。恒一の目的は、この男を殺すことじゃない」
久世が、初めて加藤を見た。
「お前を攫った。傷つけた。目的ではない……だが、こいつは死ぬべきだろ?」
声が低い。
冷たい。
「本人も殺せと言っている」
久世が言った。
刃が動く。
その時だった。
地下駐車場の奥で、拍手が一つ鳴った。
乾いた音。
場違いなほど軽い音。
久世の手が止まる。
私も、音の方を見る。
柱の影から、一人の男が歩いてきた。
細身の身体。
整ったスーツ。
柔らかい笑み。
井口おさむ。
かつて大阪市長だった男。
現在は衆議院議員。
そして、管理派デポル。
「いやあ」
井口は、血の匂いが充満する地下駐車場で、いつも通りの声を出した。
「すごいものを見せてもらったよ」
久世恒一の目が、井口に向く。
殺意は消えていない。
だが、焦点が増えた。
井口は両手を軽く上げた。
「安心してくれ。邪魔をしに来たわけではない。むしろ、場を整えに来た」
久世は私から離れた。
完全にではない。
ナイフの届く距離には、まだいる。
「君たちが派手に動いたからね。大阪で、私が何も見ていないと思うかい?」
井口は微笑む。
「最初から見ていたよ」
黒瀬の顔が変わる。
播磨が震える。
加藤は、表情を動かさない。
私は、井口を見た。
この男は、ただの傍観者ではない。
情報を持っている者の目だ。
「山本誠さん」
井口が私の名を呼んだ。
「あなたが加藤めぐみさんに何を話したか」
一歩。
「デポルを使って、久世恒一を消そうとしたこと」
一歩。
「それから」
井口の笑みが、ほんの少し深くなる。
「あなた自身が、デポルであること」
地下駐車場が止まった。
黒瀬麗奈の目が見開かれる。
播磨健二が、声を失う。
加藤めぐみも、初めてわずかに表情を変えた。
久世恒一だけは、表情を動かさない。
ただ、ナイフの角度が少しだけ変わった。
私は井口を見た。
なるほど。
そこまで来ていたか。
私は、自分がデポルだと明かしていない。
黒瀬にも。
播磨にも。
政府側の全員にも、明確には晒していない。
知っている者はごく限られる。
それを、井口おさむは掴んでいた。
「録画もしている」
井口は言った。
「もちろん、この場の情報を今すぐ出すつもりはない」
「この私をゆすろうというのか?」
私は聞いた。
井口は嬉しそうに笑った。
「まさか。協議をしに来ました」
私は血を拭った。
久世に殴られた顔が熱い。
骨もいくつか軋んでいる。
だが、思考は乱れていない。
井口おさむ。
直接見ておきたかった男だ。
大阪を五年かけて檻に変えた管理者。
久世恒一とは違う種類の異常者。
ここで対面できたことは、悪くない。
殺されかけている事実を差し引いても、収穫はある。
「交換条件だ」
井口は言った。
「私はこの情報を出さない。山本さんがデポルであることも、加藤さんを攫ったことも、デポルを使って久世くんを消そうとしたこともね」
「その代わり」
「ポストが欲しい」
井口はあっさり言った。
「特別行政省」
その名に、私は目を細めた。
行政の管理、地方自治、情報通信、郵便を束ねる省だ。
「デポルの管理を本格化させるつもりか」
「そういうことです」
井口は楽しそうに笑った。
「私は今、衆議院議員だ。だが、国会の席だけでは遅い。地方自治体を動かすには、行政の椅子がいる」
「大臣職を寄越せと」
「そう聞こえましたか?」
井口は首を振る。
「まずは、副大臣でいいですよ」
副大臣。
大臣より現実的で、動きやすい。
表からは政策を語り、裏からは地方自治体と情報通信の網へ手を伸ばせる。
井口おさむらしい要求だった。
「デポル管理を、国の行政網に乗せる気だな」
井口は何も言わずに笑う。
「大阪で作った檻を、少し広げたいだけですよ」
何が少しなものか。
危険だ。
だが、同時に合理的でもある。
少なくとも、井口は私を殺さない。
私も、井口を今殺せない。
あとは、久世恒一だけだ。
だが、場は変わった。
殺すか殺されるかではない。
この協議会の落とし所を探す。
ーーめぐみフェーズ
井口おさむ。
初めて直接見た。
資料で見た顔。
映像で見た声。
でも、生で見ると、もっと気持ち悪い。
怒鳴らない。
焦らない。
この血まみれの駐車場で、協議の席を作っている。
山本は強い。
口を割らない。
同盟にも応じない。
殺されても、自陣側への忠義を曲げない。
だから、私だけでは動かせなかった。
でも、井口は違う。
山本が守りたい椅子とは別の場所から、縄をかけた。
山本がデポルであること。
デポルを使った大阪市長暗殺未遂。
それを黙る代わりに、特別行政省の副大臣職。
ここまで想定していたのか。
どこから見ていたのか。
分からない。
ただ、場は動いた。
なら、私も動く。
「井口さん」
私は声を出した。
井口が、こちらを見る。
「初めまして。加藤めぐみです」
「初めまして。噂は聞いているよ」
私は拘束された手首を少し動かした。
「あと、私も録っています」
井口の目だけが、楽しそうに細くなった。
「へえ」
鞄は取り上げられている。
スマートフォンも、その中だ。
画面を確認することはできない。
でも、電源は落とされていない。
位置情報が生きていたなら、録音も残っている可能性が高い。
ここでは、確定のように言えばいい。
「今の一連の会話、全部入っています」
井口は笑う。
山本は気にも留めない表情だ。
私は山本に向き直る。
「交換条件です」
山本は答えない。
私は息を整える。
ここからは、間違えられない。
山本誠。
井口おさむ。
この二人とこの場では衝突させず、それでなおこちら側の落とし所は譲らない。
「水谷ひとみ」
播磨の顔が動いた。
「久世恒一、この二名を法曹協会の役員クラスにしてください」
山本が初めて口を開いた。
「法曹協会に大阪市長を? そういった前代未聞は受け入れられない」
「いや、入れてもらいます。でなければ」
山本の目が冷える。
「殺す、とでも言うのだろう。殺せとさっきから」
山本の言葉を遮る。
「いいえ。あなたは殺させません」
地下駐車場が静かになる。
「あなたがデポルであるこの証拠音源を、そこの監視カメラ映像と合わせて世間に公表します」
山本がこちらを睨みつける。
私は続ける。
「そして、井口さん」
井口は私の立ち振る舞いを興味深そうに観察している。
「なんだい?」
「山本さんが、私の条件を飲めないと言うなら、今ここで久世恒一にあなたを殺させます」
ここにいる全員が、驚愕している。
ただ一人を除いて。
その男は、私の発言の意図を汲み取った。
「らしいですよ。井口さん」
久世は、ナイフと警棒を握り直す。
いつでも殺せるという姿勢。
井口は、腹を抱えて笑った。
「君たちは、いつも私の期待を超えてくる」
私の提案を意に介していない。
むしろ、楽しんでいる。
「まさか私を使って条件を飲ませる算段とは」
井口は少し目を瞑る。
「山本さん。あなたは死の覚悟が終わりのようだ。しかし、あなたが死ねば、総理やあなたが抱えているデポルたちは困りますよ。それは無責任、とは言いませんか?」
山本は、熟考している。
無視ではない。
最適解を計算している。
構わず、井口は続けた。
「名目はそちらで作ってくださいよ。役員が無理でも、常任理事でも、特別顧問でも、外部理事でもいいじゃないですか」
「それを飲む理由がない」
「あるでしょう。あなたが言うことを聞かなければ、私は久世くんに殺される。そして、久世くんは、あなたがデポルと知った。私含め活かす理由がないんですよ」
ここだ。
私は息を吸う。
「停戦協定とまでは言わない。ここで誰一人死ぬことなく、自身の正義を全うする時間を失わずに済む。そのための協議、約束事ということで収めましょう」
相手のプライド。
立場。
正義感。
全てに影響する言葉を置く。
子供騙しは、重々承知。
それでも、彼らは自身の正義が一番正しいと思っている。
それを執行できないのは、死と変わらない。
「そうしてくれれば、私も被害届を出しません。この姿のままテレビ局に駆け込むこともしません。ね? 黒瀬さん?」
黒瀬は一瞬たじろぎながらも、何度も縦に首を振る。
カードは出し切った。
これ以上の言葉はいらない。
弱い営業ほど、言葉を尽くす。
恒一の口癖だ。
あとは待つ。
どれだけの時間が流れたかはわからない。
静かな空間に、久世の身体から血液の落ちる音だけが響く。
山本は血まみれで床に膝をついている。
久世に殺されかけている。
しかし、目は死んでいない。
悔しさはあるはずだ。
だが、それを表に出さない。
冷静に、先を見ている。
しばらくして、山本が電話をかけた。
「私だ」
声は掠れていた。
それでも、命令の形は崩れていない。
「今から言う内容は決定事項だ。水谷ひとみを副代表理事へ。久世恒一を常任理事として迎える」
電話の向こうで、誰かが何かを言っている。
山本は黙って聞いた。
血の混じった唾を飲み込み、短く答える。
「ああ」
さらに、短い沈黙。
「理由は後でつけろ。名目はいくらでもある」
山本の目が、私を見る。
「明日付けだ」
そこで電話を切った。
地下駐車場に、また沈黙が落ちる。
山本は、ゆっくりと立ち上がった。
膝は揺れている。
顔は血に濡れている。
それでも、誰かに手を借りようとはしない。
「加藤さん」
山本は、血に濡れた顔で私を見た。
「あなたの要求は通した」
私は黙って見返す。
山本は久世を見る。
久世は、まだナイフを握っている。
血が落ちている。
目は戻りきっていない。
山本は、それでも怯えた顔をしなかった。
「約束は果たした。帰らせてもらう」
恒一のナイフが、わずかに動いた。
私は小さく首を振る。
今は殺さない。
山本は、それを見ていた。
恐れている顔ではなかった。
負けを認めた顔でもない。
ただ、盤面を一つ先へ進めた人間の顔だった。
「久世恒一」
山本が言った。
恒一は答えない。
「次は、椅子の上で会おう」
それだけ言って、山本は歩き出した。
血を落としながら。
足元のデポルの死体を避けながら。
一度も振り返らずに。
地下駐車場の奥へ、山本誠は消えていった。
誰も追わなかった。
追えなかった。
殺せなかったのではない。
殺して終わる相手ではないと、全員が理解していた。
協議は終わった。
だが、勝ったわけではない。
山本誠は、まだ椅子に座っている。




